雨宮家の歴史 32 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ 31 山口県光市
光の駅前に降り立った時、私の目に入ったものは、道を隔てた松林の先に、陽光を受けてキラキラと輝く海であった。この海を見て、私は大いに和(なご)やかな気分になった。夜汽車に一晩揺られた疲れが、一度にふっ飛んでしまった。第一印象は大変良かった。
以来、現在まで第二の故郷と思われる程、光との絆は続いている。この瀬戸内の周防灘は大いに私の気に入った。戦時中の、あの暗かった朝鮮の岐陽工場とは雲泥の差であった。
「 中谷節三
技術員二採用ス月給四百三拾円
光工場建設事務所技術部勤務トス
昭和二十一年十二月一日
朝日塩業株式会社 」
この辞令は、二ヶ月後に正式に会社が発足した時受け取ったものであるが、私が着任した十月初め頃にはまだ何もなかった。
工廠(以下、光海軍工廠を工廠と略称する)の跡地は、穏やかな周防灘とは裏腹に、実に惨憺たるものであった。私が見たものは、ひん曲がった鉄骨の垂れ下がったままのコンクリートの工場であり、その周わりには雑草が生い茂っていた。
工廠は敗戦の前日、八月十四日の正午前後に、米軍B29一六七機の爆撃を受けて壊滅した。殆どが二五0キロ爆弾によるもので、落とした爆弾量は八八五トンである(浜松大空襲では焼夷弾で九一二トン)。しかし爆撃は工廠内のみで、市街地は目標に入っていなかった。
既に日本がポツダム宣言を受け入れて降伏することが判明した後のこの空襲は、それまでの一般都市の焼夷弾攻撃によるものとは、別個の作戦であった。八月十四日の白昼に行われたものは、光工廠の他に徳山海軍燃料廠、大阪陸軍造兵廠、岩国の麻里府陸軍燃料廠などで、日本に対しておこなった最後の一連の空襲であった。
この空襲で、従業員五〇四名(内女性一六六名)、動員学徒一三二名(内女性八五名)、合計六八七名(内女性二五一名)の犠牲を出した。当時工廠内には軍関係者を除いて、三万数千名が就業していた。
光と並び称せられていた愛知県豊川海軍工廠も、光より一週間早い八月七日、同じように爆弾による空襲を受けて、動員学徒も含めて多数の犠牲者を出したことは周知の通りである。もう戦争は終わることが分かっていたであろうに、こうも無残に(原子爆弾を含め)叩きのめそうとすることを、避けることは出来なかったのであろうか。
光駅に降りたとき、駅前などは商店が少なくて寂しいなと思った。最初に見た海は虹ヶ浜海水浴場で,光駅はもともと虹ヶ浜駅といって、夏だけ繁盛する寒村にすぎなかった。
今の光市は東端の室積(むろづみ)町と浅江・光井・島田・光井の各村が合併して出来た市(付図参照)で、各が点在し、核となるような市街地はなかった。
昭和十三年五月、戦争の進展に伴い、島田川と光井川の海岸地帯に海軍工廠が建設されることになった。この時は、まだ合併以前で、各村は工廠の建設を知って急速に合併の気運が生じた。翌十四年四月一日、室積町を除く四村を以て周南町(周防の国の南の意)が発足した。人口は約一万人であった。
工廠の名が「光」であるのを知り、昭和十五年十月一日「光海軍工廠」発足と同時に、光町と改称した。室積町が合併し「光市」が誕生したのは、更にこの後の昭和十七年十月一日である。一万二千戸、人口約六万人で、昼間工廠で働く人達を加えると八万人に達したという。しかし、戦争が終わると、またもとの三万人ぐらいの寒村に戻ってしまった。
駅前を一本の道路が東西に通じているが、戦時中は軍用道路として巾二十二メートルあり、大したものであったが、戦後は穴ぼこだらけで、国鉄バスがガタゴト走っていた。このバスで会社へ通勤した。
最初、駅の近くの中村住宅(A)へ入った。工廠は従業員や動員学徒のために、多数の住宅を建てたが、中村住宅もその一つで、会社が市から借りたのである。
着任した時、工場長となるK氏と、ボイラーを据え付ける技師と助手の三名しかいなかった。I部長は一人で虹ヶ浜海岸の旅館に泊まっていたが(先に述べたM君もその時、部長と一緒にこの旅館住まいをしていた)、栄養失調を理由に退社し、半月程で光を去ってしまったのは心細かった。
工廠は国有財産だったので、大蔵省管理財務局の所管で「管財」と呼んでいた。その管財から支給された出入り許可の腕章を腕に巻けば、自由に正門や島田門から入られた。正門近くの一番良い場所の建物を武田薬品(地元では昔通り武長と呼んでいた)が占め、既に操業していた。塩業の土地は、その武田の南の海寄りであったため、武田の工場を迂回するようにして行かねばならなかった。新日鉄光工場が出来たのは、私が光を去った後であった。
( 次章 「Ⅱ-32 塩の歴史」に続く )