雨宮日記 6月15日(日)の3 支部長とポスター貼りに行きました
共産党上島支部の支部長と、地方選の候補者ポスターを貼りに行きました。
最初、午後に「行こうか」というおと「まだ暑いからいや」と言うので、夕食のあと、午後5時半からでかけました。
ポスターの裏に、写真のように両面テープを貼ってからでかけました。
雨宮日記 6月15日(日)の3 支部長とポスター貼りに行きました
共産党上島支部の支部長と、地方選の候補者ポスターを貼りに行きました。
最初、午後に「行こうか」というおと「まだ暑いからいや」と言うので、夕食のあと、午後5時半からでかけました。
ポスターの裏に、写真のように両面テープを貼ってからでかけました。
雨宮家の歴史 26 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-24 敗戦」
幹候教育の始まりの遅いのを訝(いぶか)っているうちに、戦局がおかしくなってきた。班内に誰かが買ってきた「京城日報」が貼ってあった。広島が一発の爆弾で壊滅したというし、長崎も同じようにやられた。
そして、ソ連軍が満州に攻め込んできた。且ての強力な関東軍は南方に抽出されて、残っていたのは根こそぎ動員された老兵と、開拓団の女・子供たちであった。ソ連軍は南をめざして
進軍してきた。今まで南方よりのアメリカ軍を迎撃するためだった私たちの部隊も,北上してソ連軍を迎え撃つという噂が流れて、全員足止めを食っていた。そして、天皇の放送という事態となった。
昭和二十年八月十五日。その日は、朝鮮でも暑い日であった。私は医務室で何か仕事をしていて、運動場への集合に遅れ、慌ててとんでいったので、戦闘帽を忘れてしまった。カンカン照りの中で頭を灼かれてじりじりした。天皇の放送はソ連への宣戦布告かと予想していたが、初めて聞く天皇の声は、雑音が入っていて意味がはっきりしなかったが、戦争の終結を告げているようであった。瞬間、私の頭の中を南方のジャングルの暗がりが横切った。捕虜になって連れてゆかれ、使役されねばなるまいと思った。しかしこれで、私たちを雁字搦(がんじがら)めにしばりつけていた天皇とも縁が切れて、やっと「真っ黒なかたまり」を抜け出し、明るい世の中が来る気がした。
天皇のラジオ放送は終わり、口をへの字に曲げた渋面の大隊副官の解散命令で、各自、持ち場へ戻った。午後、将校・下士官たち幹部は連隊本部へ出向し、私たち衛生兵は医務室で、昼食の後かたづけもそのままに、喧々諤々(けんけんがくがく)の論争が果てしなく、夕食の「飯上(めしあ)げ」の炊事兵の声が響くまで続いた。
この日、故郷の浜松では空襲でラジオも焼いてしまったので、疎開先で天皇の放送は聞けなかったようである。父の日記によると、「正午、重大発表ありとの事なりしも聞かず。午後三時、恐れ多くも陛下休戦(無条件降伏)につき詔勅ありし由にて、我が領土も、本州・北海道・九州・四国の維新前の領地に戻る由。ああ。菊男(次男・浜松工高生)涙を垂れたり、夕食後、笠井の梨園へ約束により買いに行きしも、無条件降伏の様子が判明せざるまでは売らぬと。夜警戒警報一」
戦後の混乱は、すぐ始まったようである。
部隊は二、三日して地境小学校より最初に駐留した連隊本部のある裡里に移ることになった。その前夜、酒がふるまわれたが、飯盒(はんごう)の蓋一杯では不満気な兵隊も多かった。軍隊手帳の焼却命令も出て、あとになってから、しまったと思った。手帳には入隊・転属・昇給などの履歴が書き込まれているから、貴重な資料であった。
兵隊たちは外出を禁止されたので、営外の様子はわからなかったが、噂では、その日の午後にはもう朝鮮系の家には、日の丸を半分塗りつぶしたような旗が揚がったという。後になって知ったが韓国の国旗であった。H班長は、出入りしていた懇意な朝鮮系の家で「アメリカ軍が上陸してきたら、これを振って迎えるのだ」と言って、星条旗と韓国の国旗を見せられたという。既に日本の敗北は衆知のことであった。朝鮮総督府も八月十日に、ポツダム宣言の受諾を知っていた。
裡里では高等女学校へ駐留したが、まだ生徒はいなかった。朝鮮系の初年兵は北鮮出身者が多かったので、除隊となるとすぐ帰っていった。南北の鉄道は八月二十五日までは通じていた。私が入隊する前夜、一緒に旅館で食事した同郷のN氏は、私のあと召集されて済州島に送られたが、妻子が平壌に残っているので、北へ帰る朝鮮兵と共に、機関車にへばりついて三十八度線を越えた。彼が引き揚げたのは、妻子とは別になり、昭和二十三年であった。
直属第百六十師団長は、八月二十日ラジオ放送で次のような布告を出した。
「一、宗主権を委譲せらるるまでは、朝鮮は皇土にして、朝鮮人民は皇民なり。よろしく旨を奉載し、皇国臣民の誓を奉唱し、平静時に従うべし。
一、独立運動は、一切これを認めず、韓国国旗の掲揚は厳禁す。」
頭の固い職業軍人は、このような時になっても、まだ皇国臣民の誓なるものを持ち出して、民情や世界の情勢なるものを全く理解することが出来なかった。
八月末、私は形式上除隊となり「特別警察隊」なるものへ編入させられた。アメリカ軍の朝鮮への進駐が遅れていたので,朝鮮軍は在朝邦人保護のため、九千名の日本兵を以て警察官の代わりとした。敗戦後、南鮮の警察官二万人のうち、朝鮮系の八千人と日系の殆どが、身の危険を感じて逃亡してしまったためである。除隊といっても階級章を付け、軍服に帯剣、執銃姿であるから兵隊に変わりはなく除隊した気にはなれなかった。二大隊本部からは、私以下四名が参加した。
最初に行った所は、三十八度線に近い江原道の春川(しゆんせん)であった。朝鮮では珍しい京城からの私鉄電車であった。高原地帯で、赤や青い色の屋根が点在する避暑地であった。しかし、八月も末になるともう秋風は冷たく冬支度であっった。大豆飯と、駐留した小学校の板敷きの床の冷たさのために腹をこわして、自分の飯盒でおかゆを作った。春川は道庁所在地で、道立病院があったので、薬を調合して貰った。変な所で衛生兵だったことが役立った。
町の風呂屋へ行ったとき、思いがけない人に出会った。平壌で衛生兵教育中に班付きだった部隊のラッパ手小西一等兵である。伍長になっていた。奇遇におどろいたが、彼には裡里に帰る時また厄介になった。
ある日、ソ連兵を満載したトラックが春川の町に入って来た。彼等は坊主頭で囚人兵だったようである。略奪した腕時計を両腕にいくつも巻きつけていた。北鮮や満州で乱暴を働いたのは彼等であるが、ここは三十八度線の南だと説明すると、温和しく引き返していった。
春川には一週間ぐらいいただろうか。京城との電車も止るという前日の最終電車で、私たちは引き揚げるという日本人と一緒に京城へ戻った
電車に乗る時、浜松へ帰る人を見つけた。上着の胸に、引き揚げ先を書いた布片を縫いつけてあったからである。私は手帳の一片に走り書きしたメモを渡して、帰ったら送って下さいと頼んだ。家が空襲で焼けたことは知らなかったから。書いた住所は焼け跡であった。
「九月八日。春川駅にて同郷人に会ひ、手紙を託します。当分特殊任務にて帰れません。平壌へも中々難しいようです。皆様如何ですか。元気にやって下さい 浜名郡長上村天王新田 中村勉次郎様方 勝又静雄様」
このメモは、十一月初めごろ、焼跡の整地などに父や弟が疎開先から出向いていたので、近所に既にバラックを建てていた建具屋が預かっていてくれて、父の手に無事渡った。
( 「1-25 特別警備隊」に続く )
雨宮日記 6月15日(日)の2 次女のアイさんから「チケット忘れた。浜松駅へ持って来て」とSOSが来て
午後3時ごろ、次女のアイさんから電話がありました。あれ、名古屋へ歌手のコンサートを聴きにいったはずと思ったら「チケット。部屋に忘れたんで浜天津駅へ持って来て:というので、「いま、どこ・」と聞くと「ま弁天島駅、浜松駅へ戻るから:と。
必死で探して。なんとか見つけて車で浜松駅へ向かい、渡せました。間に合ったのでしょうね。
雨宮家の物 29 昔使っていた「手書き機関紙」用の台紙
こういう「物」を追っていくと、自分が生きてきた、具体的な、確個とした歴史を思い出してきます。
これは大阪機関紙センターというところが手書きのニュースなどを出すための台紙です。
これを使って、実際に自分が浜松市平和委員会機関紙「青い地球」を書いていたのは、、1980年代ですね。その後、パソコン編集に移行してしまったのですが、手書きですから、最初にきちんとレイアウトをして、字数を決めて書かないといけません。
今、紙面を見直してみても、手書きの頃の紙面が、いちばんきちんとしているように思います。パソコン時代になると。後で修正できるので、、いい加減になってくるようです。
雨宮家の物 28 神社の方向測定用のコンパス
「雨宮家の物 3」で天体用コンパスの転用した物を紹介しましたが、これは上島の理科器機ショップ「小西商店」で買ったコンパス。
天体用コンパスと両方で測り、ダブルチェックに使っています。両者で、ほぼ同じ値が出ればOKということです。
浜松の仏像・銅像・モニュメント 7 なんと、メタボの「弥勒」さま
入野の龍雲寺の道路向かいにあった白い神さま。
遠くから見て、「これは。大黒さまか、布袋さまかなあ:」と思って近付いたら‥
なんと、弥勒さまでした。
やっぱり弥勒菩薩と言ったら、細身でないと。
確かに、萩尾望都さんの『百億の昼と千億の夜』のラストに出てくる弥勒は、ちょっと中年太り、、46億年も何もせずに待ち続けるんだからメタボになるのもしょうがないけど。
こんな弥勒は、やですね。
やはり、ぼくは萩尾望都さんの『百億の昼と千億の夜』の阿修羅や則子さんのような、細身の活発な女性にうっとりします。あれ、阿修羅は女性か?
ちなみに沖縄で言われる「「みるく世」とは、牛乳のことではなく、弥勒の出現する平和な未来のことです。
雨宮日記 6月15日(日)の1 日曜日は日刊「しんぶん赤旗」の配達をするので眠いです
今朝は、午前1時版に家を車で出ました。「朝じゃなくて、夜だろ」と突っ込みが入る場面ですね。
自分の居住支部の地域を車でほぼ1時間ちょっと。午前3時10分には家に戻りました。
以前は「午前5時から7時まで」っって言ってましたが、今はどうなんだろう。少なくとも、普通の商業新聞は午前2時頃から配達してますからね。もちろん、仕事じゃありません。ガソリン代くらいしか出ません。革新的政治を実現するための「ボランティア」活動です。
ちなみに日刊「しんぶん赤旗」は毎日配達して、月3497円です。ヨメは言いませんが、読む価値は十分にあります。、
購読申し込みは、、私か、各地区委員会やおちかくの当院へどうぞ。