雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

則子さんへの送らない手紙 2 「青い地球とオレンジの花へ」の断片の始まり 2 ぼくと則子さんの判断の基準

2014年06月16日 20時30分56秒 | 雨宮日誌

則子さんへの送らない手紙 2 「青い地球とオレンジの花へ」の断片の始まり 2 ぼくと則子さんの判断の基準

 ぼくと則子さんの、周りからは怪訝そうに見られる行動の判断基準。

 ずっと「平和運動」に生きてきたはずの智彦くんが、そこからスッと抜けて何年かの頃、県平和委員会事務所に寄った則子さんが、ぼくについて言われた言葉「雨宮君は、いつまで我を張ってるんだね」と。 

 つまり、雨宮智彦くんは、静岡県平和運動に戻りたいんだけど。数年前の時点の、偶然的なトラブルにいつまでも、こだわって、前の状態に戻らないんだと解釈されたわけです。

 え、そんな風に見られてるんだ、と、もう戻る気のまったっくないボクはびっくりしました。

 そおかあ、みんな、そんなに過去にとらわれて、過去に戻りたいんですね。

 未来の出発点は過去だけではありません。そこに、何か断絶があるかも知れないと思う。

 過去プラスA=未来です。Aも未来のもう一つの出発点です。

 


雨宮日記 6月16日(月)の6 2億年前の先輩についての次女との会話

2014年06月16日 20時18分10秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)の6 2億年前の先輩についての次女との会話

 「お父さん、ちょっと来て」

 午後8時10分ごろ、、2階にいたぼくを呼ぶ次女の声がしました。降りていくと

 「ゴキブリの死体、片づけて」

 「お前は北海道出身の女ですか」と言いながら台所に行くと、、ゴキブリが動き出して、冷蔵庫の下に逃げてしまいました。

 次女が、おそるおそる台所に来たので、「2億年前の先輩をうやまいなさいよ。当時は1mのトンボがいたんだよ」と言うと

 「1mのトンボならいい」

 ぼくが「ゴキブリも当時はでかくて1mあった」と言うと、、

 「そんなでかいゴキブリに出逢ったら、私、死ぬ」と言いました。

 絶対、きみは死なないと思う・。

 

 


則子さんへの送らない手紙 1 「青い地球とオレンジの花へ」の断片の始まり 1 君と出逢って

2014年06月16日 19時39分57秒 | 雨宮家の歴史

則子さんへの送らない手紙 1 「青い地球とオレンジの花へ」の断片の始まり 1 君と出逢って

 小さいときから、20代後半まで「自分は自分であるから自分なのだ」と思い込んでいた。

 でも、君と出会い、結婚して、2人の人生を歩み始めてから、あるとき、いつかは覚えていない、「ぼくは君と一緒に生きるからこそ、自分になれるのだ」と気付いた。

 そして、則子さんんの、家庭内「秘書・参謀・事務局」になって、君を支えて、文章を書き、話をして、◎◎年‥‥

 ぼくの「自覚」と平行して、則子さんが「最前線司令官」であるという「自覚」が育っていったように思います。

 でなければ、A-BーCーDー‥‥のような任務はやれないよね。具体的なリアルな物語を「青い地球とオレンジの花」で書いていきたいです。これは、その「承前」です。

 

 

 

 


雨宮家の歴史 27 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-25 特別警察隊」

2014年06月16日 19時26分47秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 27 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-25 特別警察隊」

  春川から京城に戻り、竜山駅前で休息しているとき、眼の前の街道を日本軍の一団が、敗戦兵よろしく隊伍を乱して南へ下っていった。進駐してくる米軍との間で、九月九日十二時までに京城内の日本軍は水原以南に撤退することが決まった。そのための行軍で、その日は九月九日であった、「特別警察隊(以下、特警)」はその間隙を埋めるためのものだった。

  仁川に上陸した米軍先遣隊は、九日午前八時京城へ入った。午後、朝鮮総督府で、米軍総司令官ホッジ陸軍中将と、日本の阿部総督・上月第十七方面軍司令官との間に、降伏文書の署名調印式が行われ、三十八度線以南の朝鮮は米軍政の手に移った。ここに明治四十三年(一九一〇年)、韓国併合以来三十六年間に亘った日本の朝鮮支配は終わりを告げた。その歴史的瞬間を,私はこの京城の地で体験した。

  特警の元二大隊本部の四名は、その日の午後、飛行場のある金浦(きんぽ)に移動した。西北鮮から脱出してくる船が通る川が流れていて、そのまま京城の麻浦(まほ)まで行けたし、ここで上陸しての陸路もあった。そんな村に駐在所があった。駐在所の巡査は日系も鮮系も皆姿をくらましてしまって、日系の所長夫婦が残っていた。

  敗戦で「独立万歳」を叫んだ朝鮮民衆の矛先は、日系巡査よりも、むしろ戦前日本に協力していた同胞巡査に対する復讐の方が強かった。日系の所長は温厚のようだった。彼は長野県の人で、私が翌年帰国してから連絡したところ「別れてすぐ引き揚げたものと思っていたが、御苦労さまでした」と感謝の葉書をくれた。夫妻は十一月十四日に引き揚げ、現在食糧増産に励んでいると此のことである。私は別れるとき、留置人が残していった国民服を貰い、引き揚げてから軍服しかなかったので重宝した。

  我々は、駐在所の入口に交替で武装して立番をした。ある日、日本人が乗った船が着いたというので、川岸に降りると「アッ、日本の兵隊さんだ」と叫ぶ子供の声に、同乗していた大人たちの、日本の兵隊がいるとは信じられないというような驚きの目があった。彼等は駐在所で一休みしたあと、京城市街目ざして陸路を歩いて行った。もう傷害は何もない筈である。

 「(発信者)九月十七日 京城府 中谷節三
  (受信者)中谷孝男殿 (陸軍便箋)
  現在、京城府近郊にて警察官をやっており、米軍政補助官になっております。三十八度線以南の米軍下は極めて平静になっております。満州の新京からの引揚者に託してお願い致しましたから、序(つい)での節、浜松へお知らせ下さい。元気にてそのうちに引き上げる予定ですが、最後になると思います。北方の引き揚げは、なかなか難しいようです。東京は相当の被害のようですが、復興にご努力下さい。(要旨)」
 
  受信者の中谷孝男は(「第二部 11 孝男叔父」参照)父の次弟で、東京の芝白金三光町(今の港区白金台)におり、ここは焼け残った。

  新京からの引揚者は若い男性二人で、大学生だった。彼らは敗戦前後の新京よりの脱出者と考えられるが、それでも金浦まで一ヶ月近くかかっている。東京へ帰るというので投函を頼んだのである。この手紙は十月八日の朝、叔父の家に郵送されて届いた。すぐその日のうちに、浜松へ回送された。これより先の、春川でのメモが一ヶ月遅く、十一月初めに入手して私の消息は判明したから、一応家族は安心したことであろう。

  九月十五日付で、米軍は日本軍に対して,次のような布告を出した。

  「八月十五日以降、召集解除になりたる者は、再び軍隊に復帰すべし。よって、京城および仁川近郊にいる者は、竜山憲兵隊に出頭すべし。その他の者は最寄りの陸軍部隊に出頭すべし」

  この布告で特警任務は終わり、点在していた特警隊員は集合して竜山憲兵隊目ざして移動を始めた。指揮者には、どこで勤務していたか春川で出会った平壌部隊のラッパ手だった小西伍長がなった。

  途中、米軍の警戒線にかかり、検査を受けた。銃剣を返納し、序でに、私物の日章旗を彼らの戦利品として取られてしまった。初めて米兵と接触したが、概して彼等は任務に忠実で紳士的であった。竜山憲兵隊まで、米兵が私たちの歩速に合わせて連れていってくれた。彼らのコンパスは長いから、普通ならばとてもついていけたものではない。これも敗因の一つかもしれないと思った。

  竜山憲兵隊に一泊して、翌日京釜線で南下、大田の在留部隊に一泊を乞い。湖南線で八月末に出発した裡里に一ヶ月ぶりに戻った。部隊はまだ裡里高等女学校に、そのまま在留していた。帰途を取り仕切ってくれた小西伍長は、更に前線の郡山の部隊に戻るため、郡山線に乗って別れていった。

  ( 次回 「Ⅰー26 釜山埠頭勤務隊」に続く )

 


雨宮日記 6月16日(月)の5 雨宮家ライブカメラ「夕食」ビューというのは冗談ですが‥‥‥‥

2014年06月16日 19時21分01秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)の5 雨宮家ライブカメラ「夕食」ビューというのは冗談ですが‥‥‥‥

 「他の家のふつうの夕食」というのはなかなか、行ったことも見たことも、あんまりないので。普通なのか、多いのか、少ないのか、わかりません。則子さんが夕食に間に合うように帰って来ると、必ず、1品以上、作り足すので、すくなくとも則子さんは「智彦くんの作る食事は、品数が少ない」と思っているようです。

 ぼくだって、一応、緑・白・赤・茶などいろんな色があるようにしていますが。


雨宮日記 6月16日(月)の4 夕食の買い物で「かきこや早出町店」に

2014年06月16日 19時08分54秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)の4 夕食の買い物で「かきこや早出町店」に

 ぼくが夕食の担当の時は、ここか「杏林堂新津町店」か「知久屋上島店」に行きます。則子さんは、だいたい「丸滝」ですね。

 ここで父の好きなものを1品、あと足りないものを買います。今日の買い物は、白身魚フライ174円、サヤエンドウ98円、草ネギ98円、かえりちりめん、148円、スパゲッテイサラダ117円、焼きそば28円、合計663円、消費税8%で53円、合計716円でした。

 いかに消費税が多いか、いつも自分で買い物すると実感します。来年、10%?!

 安倍をぶっ殺したくなりますね。いや、殺すくらいじゃ足りません。地獄で数万年、苦しんでもらわないと、安倍さんは天国へ行けませんから。それは気の毒ですから。当分、地獄で修行してもらいましょう。


本と映像の森 302 石黒燿(あきら)著『昼は雲の柱』講談社、2006年

2014年06月16日 18時52分35秒 | 本と映像の森

本と映像の森 302 石黒燿(あきら)著『昼は雲の柱』講談社、2006年

 石黒燿さんは南九州で起こる破局噴火を描いた『死都日本』で火山学界も震撼させたお医者さんです。初小説の『死都日本』は、ここで紹介しました。前作の東海地震を描いた『震災列島』は未読です。

 この『昼は雲の柱』は『死都日本』と同じように、火山学者の父とその娘(『死都日本』のマンガ版では火山学者の息子の火山マニアと神社の娘という設定でしたが)で古代マニアという設定で、カップルになる男の子は、地元の大企業のワンマン経営者、そしてその経営者が火山学者山野承一朗とが同級生という設定です。

 物語は、富士の麓、ワンマン経営者富成(とみなり、あまりにも見え見えなネーミングです)とその息子・亮輔(りょうすけ)が富成が造成している「富士山ランド」予定地にいるときに、娘の真紀連れた山野が尋ねてくるところから始まる。

 そこで山野父子は、とんでもない古代的発見を紹介される。そこから物語が始まる。
 
 なお、古代史の部分について、とくに弥生古墳とか、完全なフィクション「もし‥だったっら」という設定ですから、その歴史学的評価は信じてはいけません。とくに、「宮下文書」とか偽書は。ただし、除服については所説あり、徐福=神武天皇説(神武=中国人説)も存在することを指摘しておきます。

 富士山噴火についての描写は、とくにフィクションとは思えませんが。火山学者の評価を聞きたいですね。

 富士山周辺での火山性地震がだんだんと強くなって言って、ある時点で山頂噴火に移行します。遠くから見ると美しいまでの火の光。

 それが、突然ある日、爆発的噴火あるいは山体崩壊に移行するとは誰も気がつかない。しかし、東駿河台学の山野研究室のチームのコンピューター・シミュレーションで御殿場市街にまで短時間で達する山体崩壊の可能性に気付いた山野は‥。

 日本や世界の政治までからめた設定は第1作のほうが見事でしたが、今回は次作『夜は火の柱』の前章ということなので、政治や世界の部分は次回に見事に描かれることを期待します。
 
 石黒さんが力説する日本神話「火山神伝説」も次回で詳しく描かれることを期待します。ぼく自身は「イザナギ・イザナミ」=海人(あま)族の主神=クジラ神という説なのですが。

 そのクジラ神が火山神に転化していくというのも楽しいかも。

 「正しい」だけでは足りません。「真善美」と誰かが言ったようですけど。つまり「正しい」「善い」「美しい」、それにボクは足して「楽しい」。つまり「真善美楽」を基準にしたいです。
 
 なお「昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ‥」というのは旧約聖書の言葉だそうです。

  ☆

 いま現在の富士山の映像が「静岡県 ライブカメラ富士山ビュー」で見れます。

 


雨宮日記 6月16日(月)の3 今日は久しぶりに神社遺跡調査に

2014年06月16日 15時59分48秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)の3 今日は久しぶりに神社遺跡調査に

 暑い中ですが、コンビニで冷たいお茶を買って、飯田地域の神社調査に行ってきました。

「六所神社の謎」の一部は明らかになったと思います。夜、「遠州の遺跡・神社・地名」で投稿します。

 


雨宮日記 6月16日(月)の2 小さな女の子が母親に

2014年06月16日 15時55分31秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)の2 小さな女の子が母親に

 幼稚園の通園バスが家の近くで止まって、降りてきた小さな女の子が小さなガラス瓶をテに持っていて「お母さん、飼ってもいい・」と聞いてます。母親は「いやよ。そんなもの」と答えていました。

 「そんなもの」がアマガエルなのか、ザリガニなのか、なんなのかは見えませんでした。

 こういう時に、「いいよ、飼っても」」と即決で言える親は、何割くらいかな?

 


雨宮日記 6月16日(月)午後 シジュウカラが近くで鳴いています

2014年06月16日 15時49分29秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(月)午後 シジュウカラが近くで鳴いています

 小さな野鳥「四十雀」シジュウカラが、つつぴー、つつぴーと囀っています。割合、都市にもよくいるのですが、雀ほどには人の近くに来ないので、あまり目につきません。

 写真は別の時に、わが家の目の前の住宅の門に、つるさがっていたシジュウカラです。