雨宮家の歴史 27 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-25 特別警察隊」
春川から京城に戻り、竜山駅前で休息しているとき、眼の前の街道を日本軍の一団が、敗戦兵よろしく隊伍を乱して南へ下っていった。進駐してくる米軍との間で、九月九日十二時までに京城内の日本軍は水原以南に撤退することが決まった。そのための行軍で、その日は九月九日であった、「特別警察隊(以下、特警)」はその間隙を埋めるためのものだった。
仁川に上陸した米軍先遣隊は、九日午前八時京城へ入った。午後、朝鮮総督府で、米軍総司令官ホッジ陸軍中将と、日本の阿部総督・上月第十七方面軍司令官との間に、降伏文書の署名調印式が行われ、三十八度線以南の朝鮮は米軍政の手に移った。ここに明治四十三年(一九一〇年)、韓国併合以来三十六年間に亘った日本の朝鮮支配は終わりを告げた。その歴史的瞬間を,私はこの京城の地で体験した。
特警の元二大隊本部の四名は、その日の午後、飛行場のある金浦(きんぽ)に移動した。西北鮮から脱出してくる船が通る川が流れていて、そのまま京城の麻浦(まほ)まで行けたし、ここで上陸しての陸路もあった。そんな村に駐在所があった。駐在所の巡査は日系も鮮系も皆姿をくらましてしまって、日系の所長夫婦が残っていた。
敗戦で「独立万歳」を叫んだ朝鮮民衆の矛先は、日系巡査よりも、むしろ戦前日本に協力していた同胞巡査に対する復讐の方が強かった。日系の所長は温厚のようだった。彼は長野県の人で、私が翌年帰国してから連絡したところ「別れてすぐ引き揚げたものと思っていたが、御苦労さまでした」と感謝の葉書をくれた。夫妻は十一月十四日に引き揚げ、現在食糧増産に励んでいると此のことである。私は別れるとき、留置人が残していった国民服を貰い、引き揚げてから軍服しかなかったので重宝した。
我々は、駐在所の入口に交替で武装して立番をした。ある日、日本人が乗った船が着いたというので、川岸に降りると「アッ、日本の兵隊さんだ」と叫ぶ子供の声に、同乗していた大人たちの、日本の兵隊がいるとは信じられないというような驚きの目があった。彼等は駐在所で一休みしたあと、京城市街目ざして陸路を歩いて行った。もう傷害は何もない筈である。
「(発信者)九月十七日 京城府 中谷節三
(受信者)中谷孝男殿 (陸軍便箋)
現在、京城府近郊にて警察官をやっており、米軍政補助官になっております。三十八度線以南の米軍下は極めて平静になっております。満州の新京からの引揚者に託してお願い致しましたから、序(つい)での節、浜松へお知らせ下さい。元気にてそのうちに引き上げる予定ですが、最後になると思います。北方の引き揚げは、なかなか難しいようです。東京は相当の被害のようですが、復興にご努力下さい。(要旨)」
受信者の中谷孝男は(「第二部 11 孝男叔父」参照)父の次弟で、東京の芝白金三光町(今の港区白金台)におり、ここは焼け残った。
新京からの引揚者は若い男性二人で、大学生だった。彼らは敗戦前後の新京よりの脱出者と考えられるが、それでも金浦まで一ヶ月近くかかっている。東京へ帰るというので投函を頼んだのである。この手紙は十月八日の朝、叔父の家に郵送されて届いた。すぐその日のうちに、浜松へ回送された。これより先の、春川でのメモが一ヶ月遅く、十一月初めに入手して私の消息は判明したから、一応家族は安心したことであろう。
九月十五日付で、米軍は日本軍に対して,次のような布告を出した。
「八月十五日以降、召集解除になりたる者は、再び軍隊に復帰すべし。よって、京城および仁川近郊にいる者は、竜山憲兵隊に出頭すべし。その他の者は最寄りの陸軍部隊に出頭すべし」
この布告で特警任務は終わり、点在していた特警隊員は集合して竜山憲兵隊目ざして移動を始めた。指揮者には、どこで勤務していたか春川で出会った平壌部隊のラッパ手だった小西伍長がなった。
途中、米軍の警戒線にかかり、検査を受けた。銃剣を返納し、序でに、私物の日章旗を彼らの戦利品として取られてしまった。初めて米兵と接触したが、概して彼等は任務に忠実で紳士的であった。竜山憲兵隊まで、米兵が私たちの歩速に合わせて連れていってくれた。彼らのコンパスは長いから、普通ならばとてもついていけたものではない。これも敗因の一つかもしれないと思った。
竜山憲兵隊に一泊して、翌日京釜線で南下、大田の在留部隊に一泊を乞い。湖南線で八月末に出発した裡里に一ヶ月ぶりに戻った。部隊はまだ裡里高等女学校に、そのまま在留していた。帰途を取り仕切ってくれた小西伍長は、更に前線の郡山の部隊に戻るため、郡山線に乗って別れていった。
( 次回 「Ⅰー26 釜山埠頭勤務隊」に続く )