雨宮家の歴史 18 「落葉松 第2部 1ー16 浜松工業学校」
私は昭和十年、静岡県立浜松工業学校に入学した。
四月四日の入学式は雨だった。校門に沿って咲く満開の桜もうらめし気であった。木造二階建ての本館の右手前に、石造りのずしりと重たそうな奉安殿が、鎮座していた。これに帽子を取って最敬礼をして、東側の生徒控室に入る。控室は板敷きで、各自かばんなどを収納出来る箱が付いていた。授業に必要な教科書や道具だけを持って教室に行き、休み時間には控室に戻って、次の授業に備えるのである。
月・水・金は控室で朝礼と岡田式静座が行われた。最初は足がしびれて困ったり、馴れてくると今度は眠くなって困った。火・木・土は雨でない限り運動場で朝礼と体操があった。これらは五年生の週番が指揮をした。軍隊の週番と同じでる。運動場の東側には見事なポプラの木がそびえていた。
昭和十年という年は、東北の冷害、西日本の旱ばつ、暴風水害などで米の大凶作となり、東北地方では娘の身売りが続いていた。
貧しさはきわまりついに歳ごろの 娘ことごとく売られし村あり(結城哀草果)
国内的には「天皇機関説」問題などが起こり、対外的には中国で、きなくさい事件が頻発して、政府は「国体明徴」声明を発表して、国民の啓蒙に躍起になっていた。しかし、まだ目を外に向けることの出来なかった私は、そんな事は知らず、衣食住も不自由なく学校生活を送っていた。
入学すると、先ず制服が必要であった。黒い学帽(夏は白の日除けをつけた)、上着ズボンが夏は霜降り、冬は小倉の黒綿服、海軍式の金ボタンが二列に並んでついた外套、ゲートルはこれも海軍式の白キャンバスのフックを紐で締めあげるもので、巻き脚絆より楽であった。
靴は黒革製短靴で、雨天の時は同型のゴム靴を代用出来た。入学式の雨の日にゴム長靴をはいて来た新入生がいて、注意されていた。更に体操用の白シャツ、白ズボンと白ズック靴、カーキ色の上下の実習服(これは教練時にも使った)。
教科書などを入れ、肩から下げる白キャンバスのカバン。私は弟たちから、カバンが歩いているとひやかされた。その他、製図用のT定規、コンパスなどの製図器具も必要であった。
(十八) 十幾年昇給ということなかりけり 子供の学資かさみて気のつく
( 昭和十三年 )
学費を少しでもおさえるため、私の教科書の中に、谷島屋へ献本として送られて来たものが混じっていた。時々それらの中に、発行年の違うものがあって、内容が違っていた。二歳違いの弟も昭和十二年に浜工へ入学したので、学資の重みが、ずっしりと父の肩にのしかかってきたのである。
私は図案科を志望したが、第二志望の色染仕上科へ廻された。当時は色染仕上科(二十名)紡織科(三十名)図案科(二十名)建築科(三十名)の四科で、色紡、図建で一組になっていた。一学年計百名、五学年で全校五百名であった。
しかし、実際の入学者数は、紺がすりの着物姿もまじった卒業記念写真帳を見ると、色染科二十三名、紡織科三十五名で、色紡合わせて五十七名もあり、そんなに多かったのかと思うが、卒業したのは色染科十八名、紡織科三十二名でちょうど五十名であった。
年齢的には、早生まれ・遅生まれ・小卒・高卒・休学者の復学などがあって、二、三歳の開きがあった。それは卒業してからの徴兵検査時に、はっきりした。
学校は北寺島町にあり、県繊維工業試験場と隣り合わせになっていた。今は名鉄ストアとなり、道沿いに「静岡県立浜松工業学校開校之地」の石碑が建っている。
私は学校へ家から歩いて通った。西来院と普済寺までの石畳の坂を降り(この角に同級生となったY君のうどん屋があった)、高町の坂の上に出る。まだ秋葉坂下へ抜ける切り通しの道はなく、今の測候所の所には昭和十一年十月まで浜商があった。高町の通りの「昭和堂」という古本屋の横丁を入って行くと、私たち兄弟や、片桐の茂ちゃんが世話になった女床屋があった。今は高町の坂を下った紺屋町のバス停近くに移って続いている。高町の坂は石畳で風情があったが、アスファルトになってしまった。
紺屋町の通りから、一歩南へ入るともう一本細い道があった。その途中に「茜屋(あかねや)」という県無形文化財の「ざざんざ織」の織屋があった。図案科のH君はその二代目で、同道するため玄関を開けると、朝早くから手織りの織機が目の前で動いていた。創業者の父親も彼も故人となってしまったが、三代目が中島町で頑張っている。
連尺の谷島屋の前を通り、木下恵介の生家の「尾張屋食料品店」のある江間殿(どの)小路から肴町を抜け、千歳町の横から、雨が降れば水浸しになる駅西の小さな地下道を駅南に出て南口駅まで来れば、あとは学校まで一直線であった。約四十分かかった。
入学した時、運動場の東南角にバックネットがあった。いつも「出ると負け」なので、その年野球部は廃止されて、バックネットもいつの間にか取り払われてしまった。しかし、戦後に復活して甲子園に県代表として出るまでになった。陸上競技部は強く、戦前に一度全国優勝している。
柔道・剣道・テニス部があったが、私は剣道部へ入った。冬の寒稽古はつらかった。遠いから、朝昼二食の弁当を持って五時頃家を出るのである。
母は弁当を作るため三時頃起きた。人一人通らぬ、夜更けのあの高町の坂道を降りて行く時の、自分自身の靴音は今でも私の耳に響いて来る。寒稽古の明ける日には汁粉が出た。このためにつらさを我慢したのかも知れぬ。
昭和十三年秋、父は新町に古本屋を始めたので、一回だけであったが、朝食に帰って登校できた。
浜工に入学して、私の最も古い記憶だった「まっ黒なかたまり」の時の天皇と、再び対面するとは思ってもいなかった。昭和五年五月三十一日に、天皇は浜工に行幸されたのである。以後、この行幸記念日に記念映画を必ず上映した。卒業するまでに五回見たことになる。山本又六校長の自慢とする所であるが、天皇が伊豆・天城山の八丁池に軍服ではなく、背広に中折帽を手に持って現われる場面だけを覚えている。生徒たちもこの時だけは、緊張がほぐれてホーッとため息が出た。
工業高校だけあって、個性的な先生が多かった。東京美術学校を出て、図案科の教師だった相生垣貫二先生は、谷島屋の包装紙をデザインし、戦後は国語科に転じて俳句に専念して「蛇骨賞」を受賞した。
色染科には染料化学という専門学科があった。亀の甲の化学式は程度が高く難解であった。今度(二〇〇二年)のサッカーW杯に出たトルコ代表のユニフォームは赤であったが、あれはターキー・レッド(TERKEY・RED)といって、トルコ赤の染料であった。古代トルコでよく使われた色である。藍染めは空気にさらすと色が青に変わって不思議であった。
布を糸で括(くく)って絞り染めをした。実習室の隣に試験場の仕上室があり、乾燥機・巾出し機などがあって、ソーピング(石鹸洗い)・水洗・巾だし・乾燥で布が仕上がっていった。
中等学校以上の学校には軍の配属将校がいて、軍事教練は正科になっていた。四、五年生の時は浅井中尉で専属だったが、下級生の時は、他校との兼任で、井出大佐や松本中佐で、連隊長級であった。そのため下級生には、他の教科兼任の予備役将校の先生の指導に当たった。教練は二時間連続で週二回あった。
銃器室があり、菊の紋章に×印のついた払い下げの三八式歩兵銃(編注①)や指揮刀・牛蒡剣(ごぼうけん)(編注②)が並んでいた。油まみれになって銃身の手入れをしたものである。教練の時間に病気のため見学ででも出席しておれば、卒業時の学校教練検定には合格出来た。不合格だと軍隊での幹部候補生試験に受験出来なくなるから大変である。
四年生と五年生の時の二回、秋に富士山の裾野の滝ヶ原厩舎(たきがはらきゆうしや)(編注③)で一週間ほどの合宿軍事訓練がある。御殿場駅から厩舎まで約六キロを鉄砲を担いで行軍した。滝ヶ原は、今自衛隊の分屯地であり、また国立中央青年の家がある。演習は天幕生活で、食事は内務班形式の食堂だったように思う。時節は秋冷の候であり、気分は最高であった。
この四年生の時、昭和十三年九月十六日から二十日までの滝ヶ原での軍事訓練に出かけている間に、わが家では大きな変化があった。父が永年勤めた谷島屋をやめて、古本屋を独立開業したのである。出かける時は広沢であったが、帰ったのは新町であった。
編注① 「三八式歩兵銃」 日本陸軍が明治三八年(1905年)に採用した歩兵銃で長く使われた
編注② 「牛蒡剣」 兵士が突撃時に、歩兵銃の先につけた「ゴボウ」型の剣