雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森 303 川端裕人『竜とわれらの時代』徳間書店、2002年

2014年06月20日 18時06分29秒 | 本と映像の森

本と映像の森 303 川端裕人『竜とわれらの時代』徳間書店、2002年

 主人公は人間なのか、恐竜なのか。むしろ筆者が小説の中で主人公に語らせているように、恐竜と環境、人間と環境(とくに主人公たちが恐竜化石を発掘する地域の人々やおばあちゃんたちんp関係こそが主要な問題だという主張でしょうか。

 物語の始まり、高校三年生の風見大地と弟で高校一年生の海也、大地の同級生の草薙美子、この3人が発見した化石からいろんなことが派生していき、その七年以上後、恐竜たちと人間達をめぐる物語が始まります。

 そこにアメリカの聖書原理主義科学がからまって‥。

 そして地元の古い伝説。何しろ、、福井県には九頭竜川か流れているのですから。

 福井県が恐竜の里になるのも、あたりまえの話です?

 福井の恐竜のことは、福井県立恐竜博物館のHPを参照 → http://www.dinosaur.pref.fukui.jp/


遠州の遺跡・寺社・地名  142 南区大塚町の六所神社

2014年06月20日 14時16分41秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 142 南区大塚町の六所神社

 浜松中央卸売市場と飯田公演の間の向かい側にあります。

 南向き(拝む人は北向き)なのですが、なぜか、測ると35度つまり、南から北へ見る東へ35度触れていることになります。これは、たぶん、東向きの神社がでも当時の太陽方向を向いている仁があります。その後、南北方向信仰が強くなったときに、神社の方向を南北に変えたのですが、その東からのズレだけは残したと考えられます。

 またいつか、総合的な考察をするときに論じたいと思います。


雨宮日記 6月20日(金)の2 全戸配布のビラが支部に来たので分けました

2014年06月20日 13時57分42秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月20日(金)の2 全戸配布のビラが支部に来たので分けました

 ビラというのはいろいろありますが、今回西部地区委員会から支部に来たのは、「赤旗号外 6・7月号」でA3判楯で横を4つ折りに細く折ってポストに入れやすくして、各戸にポスとトンします。

 地区から支部に来たものを支部員に「今回、何枚でいい?」と確認しながら分けて行きます。平均し柚木ではないので、各自の事情と能力でかなり差があります。

 こういう暑い時期、ぼくらは涼しい夜にやりますが、やる時間もいろいろです。それぞれがやりやすい時間にやります。

 写真は号外のおもて。


雨宮日記 6月20日(金) 則子さんは美容院と眼鏡屋にでかけました

2014年06月20日 13時52分26秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月20日(金) 則子さんは美容院と眼鏡屋にでかけました

 日曜日に姪の結婚式に出かける準備で則子さんは美容院と眼鏡屋に行きました。

 眼鏡屋は、バイクに乗るとすごくみずらくなるので、レンズは変えずに角度やズレを直してもらったら、すごく見やすくなったと言ってます。

 今日は晴で暑いですが、風があるので部屋は涼しいです。

 


雨宮家の歴史 28 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記録 1-27 安養勤務隊」

2014年06月19日 19時51分29秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 28 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記録 1-27 安養勤務隊」

  安養に移動するための列車が客車を連ねて入って来た。これは米軍政庁の指令だったからだが、乗るのが日本兵とわかると、引き返して代わりに貨車が入って来た。これには苦笑せざるを得なかった。

  安養は京城より京釜線で南へ三つ目の駅で、京城郊外であった。宿舎はもと朝鮮織物工場の女子寄宿舎で、畳敷の部屋へ寝泊まりした。戦時中は朝鮮飛行機の軍需工場だった。

  仕事は、山腹に掘られた貯蔵庫(「大阪造兵廠」と入口の看板に書かれてあった)より弾丸を運び出し、トラックで駅まで運び貨車に積み替えて、西南鮮の群山沖に処分する作業だった。群山には別の部隊が派遣されていた。

  二月二十日から作業は始まった。朝八時半に米軍のトラックが迎えに来る。昼一時間の休みをとって、夕方五時まで作業は続く。彼らの時間に対する観念は実に徹底している。たとえ一個の弾丸が残っていても、時間が来ればO・K。あとは明日と、さっさと引揚げてしまう。タイム・イズ・マネーである。戦争もビジネスであった。

  京城地区に進駐してきた米軍は、第二十四軍の第七師団で、レイテ島の戦闘を経て来た部隊であった。安養の作業隊は、その歩兵第三十二連隊G中隊と爆弾処理のエンジニア達であった。

  土曜と日曜は作業は休みで日米野球合戦があり、夜は日米両軍同席での映画鑑賞があった。ただ、日本語字幕がついていないので、ストーリーは予測するしかなかった。ディアナ・ダービンの「レデイ・イン・トレイン」という唄はわかった。

  食事は、部隊の炊事班が釜山より随行して来たから今まで通りであったが移動の際は米軍の携行食(Cレイション)が支給された。日本軍のは乾パンに、粉味噌ぐらいが関の山であったが、彼らのはトーストパンにハム・エッグス、ラッキー・ストライクの煙草、粉末のコーヒーか紅茶が付くつという格段の差があった。物量の差は食事にまで及んでいた。

  二大隊本部付だった楠本班長の家が京城で、ラジオを持って来た。久しぶりに聞く内地からの日本語はなつかしかった。皆、静かに耳を澄まして聞いた。
  作業が始まる頃は寒い日もあったが、強い南風を交えた雨が降ると、暖かさも増して作業も楽になり、大詰めになってきた。

  雨の日は、釜山港に引揚者が残していった本を読んだ。「趙君瑛の日記」(中国女子学生の戦争日記)、石坂洋次郎の「美しい暦」、阿部知二の「光と影」、パール・バックの「大地」など。

  四月に入ると、春特有のおぼろかすみとなり、仕事もまばらになって日向ぼっこを楽しんだ。そろそろ帰れるかなと思って荷物を整理するのだが、引き揚げが長びくので荷物は増える一方である。桜がちらほら咲き始めた。去年は平壌陸軍病院の満開の桜の下で、ルーズベルト大統領の死亡に万歳三唱をしたが、今年は戦争が終わったというのに、まだ籠の鳥である。

  炊事班は、野菜などの補給に京城に出ていたが、ある日、私宛ての書信を預かって持って来た。一体、ここにいる私を知っているのは誰だろうと訝りながら読んだところ、竹森正晴という岐陽工場の人からであった。私はその人とは一面識もなかったが、引き揚げてから、出張所勤務だったN氏に会って聞いたところ「ああ、憲兵か」と言ったから、竹森氏はもと憲兵で防衛課にいたのかも知れない。内容はつぎのようなものであった。

  「拝啓。一陽来復と共に新日本建設の春が訪れて参りました。貴兄は客年晴れのお召し以来、長の御軍務誠に御苦労様に存じます。ことに本日偶然にも日本人世話会の松永氏より貴兄が安養の部隊において皇軍最後の一員として御勤務の由承り、部隊編成表を拝見して一入なつかしく存じました。
  小生儀、終戦以来岐陽で地獄の生活を続けていましたが、漸く決意して二月二十二日平壌を出発して鮮服に身をやつして三十八度線を突破して漸く三月十日安着いたしました。今後岐陽の人びとを救出すべく工作中でございます。ぜひ一度御拝眉の栄を得たく、御多忙中誠に恐縮に存じますが、御繰合わせの上御上京下さいませんか。
  私は毎日朝十時頃から午後三時頃まで帰還者見送りのために竜山駅へ出向いておりますが、あとは南山町の東本願寺収容所におります。小生鮮服の着のみ着のままで衣類に困っております。何かございましたら誠に申し訳ありませんが上京の際お届けいただければ幸いです。 
 4/20 於 南山町東本願寺 竹森正晴」

  一日おいた四月二十二日、私は隊のトラックに便乗して京城南山の東本願寺へ出かけた。生憎竹森氏は竜山駅へ出向いていて、面会時間が少なく、込み入った話はできなくなり、後日帰国までの間に、工場の詳細を書面で知らせてくれた。竹森氏はうす汚い白い朝鮮服だったが、私の持っていった新品の襦袢(しやつ)や袴下(ずぼんした)をたいへん喜んでくれた。これは私のリュックの中の品から割(さ)いたものであった。岐陽工場の詳細については最終回に書くことにする。

  安養部隊は帰国に際して、残った食糧を京城日本人世話会に寄付した。当時、一般朝鮮市民も、在日朝鮮人の帰国や農民の供出拒否などで食糧事情が悪化し、米の配給が止まり「米よこせデモ」が京城府庁に殺到する有様であった。北鮮からの引揚者の収容所も、米軍の支援でかろうじて維持されていた。部隊が寄付した食糧は、大麦・もち米・小麦粉・小豆・大豆・粉味噌・こうりゃん・缶詰・乾パンなど全部で一日一人二合三勺として、一万六千食に相当し、食糧の補充に大きく役立った。 

  昭和二十一年四月二十八日昼、私たちは安養を出発して帰国の途についた。今度は正真正銘の引き揚げになりそうであった。翌朝、釜山埠頭着、船は瀬戸内海航路の「黄金丸」であった。静かな航海で夕方博多へ入港。まる一年七ヶ月ぶりで、故国の土を踏んだ。

  ( 次回 「Ⅰ-28 ) 

 


遠州の遺跡・寺社・地名 141 南区鶴見町の津島神社

2014年06月19日 19時38分50秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 141 南区鶴見町の津島神社

 南向きの神社。つまり人々は北を向いて拝みます。

 小さな神社で細い道を入るとあります。

 「津島神社」は『浜松神社名鑑』によれば浜松市内に6つありますが、この鶴見町のは載っていません。

 

 


雨宮日記 6月19日(木)の3 「わらびーもち、わらびーもち」といつも軽トラックが巡回しています

2014年06月19日 19時34分04秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月19日(木)の3 「わらびーもち、わらびーもち」といつも軽トラックが巡回しています

 浜松以外の都市では、マイクで巡回していますか?毎日ではないけど、週に何回も来るような気がします。

 「わらびーもち。わらびーもち、冷たく冷やしたわらびもち。200gで200円、お好きな食感をお好きなトッピングでお楽しみください」

 むかし「早く来ないと、行っちゃうよ」というのを聞いたような気がするのですが。


雨宮日記 6月19日(木)の1 庭でピンクのねじ花が螺旋を描いて咲いていました

2014年06月19日 19時27分07秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月19日(木)の1 庭でピンクのねじ花が螺旋を描いて咲いていました

 ねじ花が1本fだけすっくと立って咲いていました。

 どうして、わざわざ、こうして数学的に螺旋を描いて咲くのか、不思議です。

 


雨宮日記 6月18日(水)の3 近所のTさん奥さんから手拭いをもらいました

2014年06月19日 19時23分52秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月18日(水)の3 近所のTさん奥さんから手拭いをもらいました

 「わらしべ長者」のような話で、近所に住んでいる則子さんの知り合いのTさん夫妻に、、野菜を持って行ったら「手拭い」に転化してくれました。

 自分で染色した手拭いだそうです。


雨宮日記 6月18日(水) 今日は朝からずっと雨です

2014年06月18日 15時36分27秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月18日(水) 今日は朝からずっと雨です

  こういう歌がありますね「雨が降ります 雨が降る

                 遊びにゆきたし 金はなし‥‥」

  午後3時、少しやみかけたようです。豆子は具合が悪いのか、食事が残っています。


雨宮家の歴史 27 雨宮智彦の乳の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-26 釜山埠頭勤務隊」

2014年06月18日 15時20分12秒 | 雨宮日誌

雨宮家の歴史 27 雨宮智彦の乳の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-26 釜山埠頭勤務隊」

  十月一日、私は陸軍伍長に任官した。戦争が終わってもまだ軍隊組織は続いており、いわゆる「マッカーサー少尉」で、終戦後のどさくさに生まれたものである。七月の幹候試験に合格した者は、幹候教育が出来なかったので、全員伍長となった。

  もし戦争が続いておれば、消耗品の見習士官となり、高峰三枝子の「湖畔の宿」の替え歌の如く、
     昨日生まれたブタの子が
     ハチに刺されて名誉の戦死
     ブタの遺骨はいつ帰る
     四月十日の朝帰る
    ブタの母ちゃん悲しかろ
の運命になったかも知れない。

  伍長になったからといっても、仕事は飯揚げ・食器洗い・洗濯など松本清張衛生上等兵(「23 南鮮へ」参照)と同じく、今までと変わりはなかった。ただ、週番下士官の役だけは廻って来た。それも釜山に移動する時とか、後述するが安養から内地へ復員する時など、一番慌ただしい時に当てられた。新任下士官の悲哀である。

 大隊副官は外出する時、決まって私と大隊行李要員の四十五才の梶間二等兵を指名した。二人とも弱腰兵隊で役に立つまいと思うが、戦斗帽を斜に冠り、上目ずかいに私の齢を聞く老兵は「わいの息子と同い年や」と大阪弁でにが笑いするのであった。また彼ら第二国民兵を、町の銭湯に連れていくのも私の仕事であった。

 女学校の花壇には、主を待つかのように大輪の朝鮮コスモスが、色とりどりに群をなしていたが、授業が再開されるためか、我々は裡里の東本願寺へ移った。寺の住職は笠井の人であった。この人は、引き揚げてから疎開先へ訪ねてきたそうだが、私が帰ってからは連絡がとれなかった。

 十一月一日、やっと我々も引き揚げのため釜山に向かって出発した。在留邦人も一緒だった。南鮮駐留部隊としては最後である。しかし、釜山港まで来ながら、本部要員や私のような在鮮入退者など約百名は残されて、朝鮮軍残務整理班に編入されてしまった。折角ここまで来て引揚船を見送らねばならぬ心境は、映画「望郷」のペペル・モコのようであった。

 残務整理班は、福岡県二日市町に本部を置き、残留した隊員の留守宅に近況を知らせた。その返信が十一月二十日頃着いた。家が空襲で焼けて疎開したことは「特警」から戻った時入手した八月九日付の手紙で知ったが、『三十八度線以南に勤務せし幸福を思い、日本人として恥ずかしくない態度を以て奉公せよ』と結んであった。これには頭が下がった。

 朝鮮に進駐して来た米軍は、陸軍第二十四軍であった。この軍団は九州上陸作戦用の部隊だったので、朝鮮上陸の準備が遅れ、軍政要員の多くも米本土に待機中という状態であった。そのため、米軍は朝鮮総督府の従来の組織をそのまま継承した。「カイロ宣言」で独立出来ると信じていた朝鮮民衆は、強く反発して、米軍政も最初は円滑に行かなかった。

 釜山へは第四十師団が入り、私たちと接触したのは第百六十連隊だった。騎兵連隊というので馬かと思ったら、ジープであった。軽快に走り回るジープを見て、日本軍とは格段の相違があることを知った。「モーター・プール」という言葉もこのとき初めて知った。

 在鮮入退者で「釜山埠頭勤務隊」が編成され、日本軍釜山連絡部の指揮下に入った。在鮮日本人の引き揚げ業務は、釜山日本人世話人会が主となっていたが、人手不足のために協力することになった。

 主な仕事は、引揚者にDD の散布をすることであった。現在は有害化学物質として使用を禁止されているが、戦後驚異的な殺虫剤として、ノミやシラミが一コロになるのには驚いた。強烈な臭気があり、吸い込むと息苦しくなることがあるので、マスクをした。

 勤務隊は元の憲兵隊の宿舎に泊まり、二交替勤務だった。宿舎は街中にあったので、交替時に階級章のままの日本兵が街の中を歩いて行くのを、怪訝な顔をして朝鮮人が振り返っていた。 宿舎にポータブル蓄音機が残っていた。しかし、レコードは高峯三枝子の「湖畔の宿」と霧島昇の「誰か故郷を想わざる」の二枚しかなかった。引き揚げてから知ったが、この二枚は戦時中に軟弱な歌として発禁(発売禁止)になったそうで、憲兵隊の押収したものだったのだろう。

 そう言えば、空襲で焼けてしまった我が家にも蓄音機があって、古いレコードがあった。覚えているのは「出船の歌」、勝太郎の「島の娘」、金語楼の「ナッチョラン節」。金語楼は初年兵を北鮮・羅南の歩兵連隊で過ごした。本名は「山下敬太郎」で、上官から姓名を問われて「山下ケッタロウ」と応えた。

  「いきな上等兵にゃ金がない
  可愛い新兵さんには閑がない
  ナッチョラン ナッチョラン」
 

  我々が到着した十一月初めの釜山埠頭には、殺到した日本人がひしめいていたが、軍隊の引き揚げが終わると共に、一般人の帰国も順調に進んで、寒季を迎えた十二月には待機者は殆どなくなり、入ってくる引揚列車を待つようになった。北鮮からのやつれてひどい装(な)りの人びとがやって来た。図門(ともん)、満浦など鴨緑江沿いの国境地帯の一千余名である。彼らは、服装は着のみ着のままだったが、脱出が早かったのと、引率者の統率が良かったので犠牲者も少なく、早く南鮮に入ることが出来た。指揮者の優劣の差を見せつけられた思いがある。彼らは、その日のうちに引揚船「黄金丸」「龍平丸」で内地へ向けて出港していった。平壌の人がいたので、そちらの消息を聞いたが芳しくなかった。

  病院列車が入って来ることもあった。寝たきりの患者やその家族、医師・看護婦等、米軍から野戦病院並の待遇を指示されて、京城から仕立てられたものだった。医師や看護婦は朝鮮海峡の往復を認められていた。

  埠頭で年を越した。埠頭事務室のストーブにあたりながら、本を読んだり横になったりして休んだ。一月十九日、家から葉書が届いた。それによると、I部長は既に帰国しているらしい。落胆したが安心もした。詳しい事情は後にはっきりする。内地は食糧事情が深刻で大変のようである。

  北鮮の冬と違って、釜山の冬は海のせいもあるが暖かい。そのポカポカする暖かさに誘われて、埠頭の先の方へ行ってみた。埠頭倉庫のそばに米海兵が二人腰かけて日向ぼっこをしていた。私を見つけると「ヘイ!ジョー!」と呼んで一ドル紙幣を見せ、印刷されている人物は誰か分かるかと言った。私は「ワシントン」と平板的なアクセントで答えた。米海兵は「ノー、ノー、ワ(○)オシ(○)ントン」と○印を強く発音した。私は「オー、サンキュー」と握手して別れた。

  米軍埠頭勤務隊長の、自称テキサス出身のギブソン軍曹から、仕事の合間にアメリカの歌を教わった。有名なカウボーイの恋歌である。帰ったら内地で流行していた。

   You are my sunshine
   My only sunshine
   You make me happy
   You never know dear
   Hou much I love you

 二月十四日、埠頭にあった日本軍釜山連絡部は、米軍より閉鎖を命じられたので、やっと帰れるかと思ったところ、今度はまた、北へ引 き返して京城南部の安養(あんやん)に移らねばならなかった。どこまで貧乏くじを引けば良いのだろうと嘆いた。

  ( 次回、「Ⅰ-27 安養勤務隊」に続く )

 



雨宮日記 6月16日(金)の4 もらった野菜で野菜炒めを作った今日の夕食

2014年06月17日 18時45分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 6月16日(金)の4 もらった野菜で野菜炒めを作った今日の夕食

 言葉で「今日の夕食」を描写するのはたいへんですが、写真は簡単です。TVで「おいしいお店」番組がはやるのも、かなり手抜きの側面があると思います。

  タマネギとナスをたくさんもらったので、、自分で野菜炒めを作りました。塩・こしょう味です。