雨宮家の歴史 27 雨宮智彦の乳の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-26 釜山埠頭勤務隊」
十月一日、私は陸軍伍長に任官した。戦争が終わってもまだ軍隊組織は続いており、いわゆる「マッカーサー少尉」で、終戦後のどさくさに生まれたものである。七月の幹候試験に合格した者は、幹候教育が出来なかったので、全員伍長となった。
もし戦争が続いておれば、消耗品の見習士官となり、高峰三枝子の「湖畔の宿」の替え歌の如く、
昨日生まれたブタの子が
ハチに刺されて名誉の戦死
ブタの遺骨はいつ帰る
四月十日の朝帰る
ブタの母ちゃん悲しかろ
の運命になったかも知れない。
伍長になったからといっても、仕事は飯揚げ・食器洗い・洗濯など松本清張衛生上等兵(「23 南鮮へ」参照)と同じく、今までと変わりはなかった。ただ、週番下士官の役だけは廻って来た。それも釜山に移動する時とか、後述するが安養から内地へ復員する時など、一番慌ただしい時に当てられた。新任下士官の悲哀である。
大隊副官は外出する時、決まって私と大隊行李要員の四十五才の梶間二等兵を指名した。二人とも弱腰兵隊で役に立つまいと思うが、戦斗帽を斜に冠り、上目ずかいに私の齢を聞く老兵は「わいの息子と同い年や」と大阪弁でにが笑いするのであった。また彼ら第二国民兵を、町の銭湯に連れていくのも私の仕事であった。
女学校の花壇には、主を待つかのように大輪の朝鮮コスモスが、色とりどりに群をなしていたが、授業が再開されるためか、我々は裡里の東本願寺へ移った。寺の住職は笠井の人であった。この人は、引き揚げてから疎開先へ訪ねてきたそうだが、私が帰ってからは連絡がとれなかった。
十一月一日、やっと我々も引き揚げのため釜山に向かって出発した。在留邦人も一緒だった。南鮮駐留部隊としては最後である。しかし、釜山港まで来ながら、本部要員や私のような在鮮入退者など約百名は残されて、朝鮮軍残務整理班に編入されてしまった。折角ここまで来て引揚船を見送らねばならぬ心境は、映画「望郷」のペペル・モコのようであった。
残務整理班は、福岡県二日市町に本部を置き、残留した隊員の留守宅に近況を知らせた。その返信が十一月二十日頃着いた。家が空襲で焼けて疎開したことは「特警」から戻った時入手した八月九日付の手紙で知ったが、『三十八度線以南に勤務せし幸福を思い、日本人として恥ずかしくない態度を以て奉公せよ』と結んであった。これには頭が下がった。
朝鮮に進駐して来た米軍は、陸軍第二十四軍であった。この軍団は九州上陸作戦用の部隊だったので、朝鮮上陸の準備が遅れ、軍政要員の多くも米本土に待機中という状態であった。そのため、米軍は朝鮮総督府の従来の組織をそのまま継承した。「カイロ宣言」で独立出来ると信じていた朝鮮民衆は、強く反発して、米軍政も最初は円滑に行かなかった。
釜山へは第四十師団が入り、私たちと接触したのは第百六十連隊だった。騎兵連隊というので馬かと思ったら、ジープであった。軽快に走り回るジープを見て、日本軍とは格段の相違があることを知った。「モーター・プール」という言葉もこのとき初めて知った。
在鮮入退者で「釜山埠頭勤務隊」が編成され、日本軍釜山連絡部の指揮下に入った。在鮮日本人の引き揚げ業務は、釜山日本人世話人会が主となっていたが、人手不足のために協力することになった。
主な仕事は、引揚者にDD の散布をすることであった。現在は有害化学物質として使用を禁止されているが、戦後驚異的な殺虫剤として、ノミやシラミが一コロになるのには驚いた。強烈な臭気があり、吸い込むと息苦しくなることがあるので、マスクをした。
勤務隊は元の憲兵隊の宿舎に泊まり、二交替勤務だった。宿舎は街中にあったので、交替時に階級章のままの日本兵が街の中を歩いて行くのを、怪訝な顔をして朝鮮人が振り返っていた。 宿舎にポータブル蓄音機が残っていた。しかし、レコードは高峯三枝子の「湖畔の宿」と霧島昇の「誰か故郷を想わざる」の二枚しかなかった。引き揚げてから知ったが、この二枚は戦時中に軟弱な歌として発禁(発売禁止)になったそうで、憲兵隊の押収したものだったのだろう。
そう言えば、空襲で焼けてしまった我が家にも蓄音機があって、古いレコードがあった。覚えているのは「出船の歌」、勝太郎の「島の娘」、金語楼の「ナッチョラン節」。金語楼は初年兵を北鮮・羅南の歩兵連隊で過ごした。本名は「山下敬太郎」で、上官から姓名を問われて「山下ケッタロウ」と応えた。
「いきな上等兵にゃ金がない
可愛い新兵さんには閑がない
ナッチョラン ナッチョラン」
我々が到着した十一月初めの釜山埠頭には、殺到した日本人がひしめいていたが、軍隊の引き揚げが終わると共に、一般人の帰国も順調に進んで、寒季を迎えた十二月には待機者は殆どなくなり、入ってくる引揚列車を待つようになった。北鮮からのやつれてひどい装(な)りの人びとがやって来た。図門(ともん)、満浦など鴨緑江沿いの国境地帯の一千余名である。彼らは、服装は着のみ着のままだったが、脱出が早かったのと、引率者の統率が良かったので犠牲者も少なく、早く南鮮に入ることが出来た。指揮者の優劣の差を見せつけられた思いがある。彼らは、その日のうちに引揚船「黄金丸」「龍平丸」で内地へ向けて出港していった。平壌の人がいたので、そちらの消息を聞いたが芳しくなかった。
病院列車が入って来ることもあった。寝たきりの患者やその家族、医師・看護婦等、米軍から野戦病院並の待遇を指示されて、京城から仕立てられたものだった。医師や看護婦は朝鮮海峡の往復を認められていた。
埠頭で年を越した。埠頭事務室のストーブにあたりながら、本を読んだり横になったりして休んだ。一月十九日、家から葉書が届いた。それによると、I部長は既に帰国しているらしい。落胆したが安心もした。詳しい事情は後にはっきりする。内地は食糧事情が深刻で大変のようである。
北鮮の冬と違って、釜山の冬は海のせいもあるが暖かい。そのポカポカする暖かさに誘われて、埠頭の先の方へ行ってみた。埠頭倉庫のそばに米海兵が二人腰かけて日向ぼっこをしていた。私を見つけると「ヘイ!ジョー!」と呼んで一ドル紙幣を見せ、印刷されている人物は誰か分かるかと言った。私は「ワシントン」と平板的なアクセントで答えた。米海兵は「ノー、ノー、ワ(○)オシ(○)ントン」と○印を強く発音した。私は「オー、サンキュー」と握手して別れた。
米軍埠頭勤務隊長の、自称テキサス出身のギブソン軍曹から、仕事の合間にアメリカの歌を教わった。有名なカウボーイの恋歌である。帰ったら内地で流行していた。
You are my sunshine
My only sunshine
You make me happy
You never know dear
Hou much I love you
二月十四日、埠頭にあった日本軍釜山連絡部は、米軍より閉鎖を命じられたので、やっと帰れるかと思ったところ、今度はまた、北へ引 き返して京城南部の安養(あんやん)に移らねばならなかった。どこまで貧乏くじを引けば良いのだろうと嘆いた。
( 次回、「Ⅰ-27 安養勤務隊」に続く )