玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

ある自尊心

2006年12月11日 | 捨て猫の独り言

 在宅虚弱老人の生活の自立や孤独の解消と介護家族の労苦の軽減を目的に週に何回か通所させて入浴、食事、リハビリ等の世話をするというのがデイケアの定義である。娘達は保育所のことをデイケアと呼んでいる。広義の意味で保育所もこれでいいのだろう。大家族で暮らしていた時代の日本には存在しなかった。暮らしの変化の中で新たに必要な物が出てくる。介護保険などがそうである。これからの日本社会は保育施設、障害者施設、医療施設、更生施設などの拡充には社会資本を惜しみなく投入すべきであろう。

 80歳をすぎた軽度の認知症の婦人がいる。連れ合いを失くし一人暮らし。昼間はデイケアに来て、夜は子供達家族の誰かが泊まりに来る。「私は目的地に着いたら必ず報告するようにと子供達に言い聞かせてきました」 自分がデイケアに到着したことを家人に連絡せねばならないとの主張で一日が始まる。必要のないことを告げても納得しない。スタッフは隣家に連絡するなど誠実に対応する。

 テーブルで塗り絵の作業が始まる。ご婦人はそのような子供騙しのようなことはやりませんと拒否なさる。「今日はどんなことをしたのと子供に聞かれて塗り絵なんて言えません。ちゃんとしたプロの指導なら私は描きます」 周囲の一緒にやりましょうという説得の途中にご自身は睡魔に襲われ、揺り椅子にお移りになる。驚きはしなくなったが、つぎの発語に居合わせた人たちは戸惑う。「人は何のために生きるのですかね。皆さんどう思います」 まだ失われていない自尊心を傷つけてはならない。「ああまた明日もこんな所に来なくちゃならないなんて何と退屈なことでしょう」

 赤ちゃんの成長と違って、老いとはある部分は若い人以上か同レベルの能力を残したまま、ある部分のみ退行していく。「死ぬまで元気でいたい」 が全ての人の願いだが、老いとは大変バランスの悪い、個人差の大きい現象のようだ。

コメント (4)
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