逡巡してはならないと思った。手帳をめくると最後にM氏と会ったのは昨年の12月3日とある。夏に亡くなった同僚を偲ぶ会を開いて12人が集まった。その時のM氏はつらそうだった。酒の量は極めて少なかった。口数も少なかった。そこで暖かい季節になったらそちらの駅まで私が出かけて行きますからコーヒーでも飲みましょうと声をかけた。私はそのことを実行しないままにこの冬を迎えた。M氏が退職の2年ほど前から体調を崩していたことを知っている。ちょうど10歳だけ年長である。
会議などでは積極的に発言していた。M氏の異議がなければ決まりというような雰囲気もあった。飲んだときなどの 「教育は結局のところ人だ」 とのつぶやきが最も印象に残る。会議では結果として先送り的な主張となっていた。これまでやってきたことに自信を持ち、うろたえることなく続けようということだった。ところが一方、ふだん自分自身のことについて語ることは全くなかった。あきれるほど徹底してそうであった。私とはまるで逆である。私が知らされたのはM氏が山形の出身であることぐらいだ。
去る12月○○日、□□□□、72歳にて永眠しました。ここに謹んでお知らせ申し上げます。故人はかねがね、冥界入りは密やかにと申しておりました。故人の固い遺志により、通夜葬儀告別式はすべて家族で相済ませました。誠に勝手ながら、ご弔問ご香典ご供花ご供物等、固くご辞退させて頂きます。何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。M氏らしいと思った。10年も苦しんでいたであろうに自分の体のことについて何も話してくれなかった。しばらくして最後の一週間だけ入院したことを聞いた。
生徒との接し方は参考になった。すぐに手助けすることは決してしない。まず自らやってみるように仕向ける。物理を教えていた。生徒が問題をもって質問に来たが、目を合わせたとたんすぐに解りましたと言って部屋を出て行ったというエピソードを楽しそうに話していた。数学の教師はべたべた教え過ぎだと批判した。私が後から参加して2人で何年間かバスケット部の顧問をした。夏合宿の会計報告などを私に押し付けることなどなかった。奥様の電話の声は聞いたことはあるが、お会いしたことはない。亡くなったのが月曜日でその週の土曜日には葉書が届いていた。