B・ゴルソンが先月に亡くなった、と知りました。享年95、レジェンドの一人ですね。本来ならば彼のリーダー作で追悼するのが筋ですが、別のアプローチを。
その昔、京都下鴨・洛北高校近くの民家の2階に下宿していた。ジャズには、全く興味が無く、当時、ラジオ、TVで聴いていた音楽といえば、ジョーン・バエズを代表とするフォーク・ソングや、国内でブームとなっていたグループ・サウンズだった。
そんな時、いつも聞いていた近畿放送のラジオから「モダン・ジャズ界の黒い牽引車、ジョン・コルトレーンの初来日、京都公演7月16日)という案内が何度、何度も繰りかえされた。勿論、初めて聞く名前だったが、何故かアッピールにインパクトがあり、今でもハッキリ憶えている。
翌日の新聞に写真入りでそのコンサートの模様が出た。壮絶な演奏に、グッタリとシートにもたれ掛かった聴衆の姿が写し出されていた。一体、どんな演奏だったのだろう、と驚いたけれど、即「モダン・ジャズ」に興味を持ったワケではない。だが、この時、僕と「モダン・ジャズ」の距離は確実に縮まった。
その年の暮れ、いつも行く銭湯で服を脱ぎかけた時、ジャズ番組だったのだろう、店のスピーカーから、ジャズが流れ始めた。心地良いメロディに体の動きが止まったまま、一曲聴き終えた。’Five Spot After Dark / Curtis Fuller’の名は極自然に頭にインプットされた。それから、4ヶ月あと、あの「しぁんくれ~る」の赤カーペットの階段を登った。
「ファイヴ・スポット・アフター・ダーク」、なんてイイ響きなんだろう。「名は体を表す」というが、正に名曲にして名演奏だ。この曲を聞く度に、今でもあの銭湯を思い出す。1958~59年に掛け、フラーとゴルソンの双頭コンボはジャズ・クラブ”Five Spot”と一年間のロング・ランのステージ契約を得て、期間終了した後、”Five Spot”での実り多きステージを思い出しながらゴルソンが書いた曲がこの”Five Spot After Dark”。リズム・セクションはマンネリ化を避け、適時、メンバーを入れ替えていたそうです。その中で、一番、息が合ったメンバーが本作のトミフラ、ギャリソン、ヘアウッドだった。
その後、ずっと「しゃんくれ~る」に通ったが、不思議な事に本作が流れた記憶がない。リストには、勿論、載っているが、誰もリクエストしないのである。何度もリクエストを出そうとしたが、その都度、躊躇した。僕の思い過ごしかもしれないが、当時の「しぁんくれ~る」には、本作のような50年代のジャズを許さない(笑)ようなシビアな雰囲気が充満しており、いつも新譜や尖がったジャズが巾を利かせていた。
当時、東京、大阪地区はともかく、よく利用していた地元の店には本レコードは無く、店の人に相談したところ”Schwann(シュワン)”というアメリカから出ている月間レコード(テープ)カタログから、欲しいレコードをオーダーしたら、と勧められ、ちょくちょく購入していた。
だいたい、270ページぐらいのカタログであるが、「ジャズ」は巻末の僅か20ページそこそこしか載っていない。こんなところにも、音楽業界での「ジャズ」の位置付けが良く判ります。押入れを片付けていたら、残っており、懐かしくなり、暫くの間、掃除も忘れ当時を思い出していました。
入荷するまで確か?エアメールの場合は、2~3週間前後、シーメールの場合は、3ヶ月ほど掛りましたが、コスト面でシーメールを利用しました。ただ「在庫なし」で入荷しないケースが多く、徐々に縁遠くなりました。
本作もオーダーで手に入れ、試聴を店のモニターSPで流していたら、あるお客さんが「これは、イイね!」とか、女子店員までが、「このテナー、凄くいいわ~」なんて言い始め、随分盛り上がったものでした。昔は、よかったね~、アット・ホームで。
ちょっと見づらいですが、左ページにフラー、右ページにゴルソンの名が確認できます(ボールペンの印し跡)。
名を知っている程度だったゲッツ、ロリンズと違って、初めて聴いたモダン・テナーは、実はこの”Five Spot After Dark”のB・ゴルソンだった。