天正3年(1575)、5月21日(旧暦、現在の暦では7月9日)、織田・徳川連合軍(3万8千)と武田(1万5千)が激突した、世に名高い「設楽原合戦場跡です。
そんな歴史がなければ、どこにでもある長閑な山村の景色ですね。
ここが設楽原歴史資料館です。すぐ左奥に両軍の死者を弔う「信玄塚」もあります。8時間にも及ぶ大激戦だったそうです。
上の画像はこの資料館の屋上から撮ったもの。
中央の森の手前に、連合軍の大勝利となった要因の一つに挙げられる「馬防柵」が再現されているのが見えます。
そこで、馬防柵」の近くに行ってみました。
こんな感じですね。AVEが連合軍、耕運機が武田軍といったところでしょうか。
最近の研究では、連合軍の大勝利という事実はともかく、定説・通説に対する疑問の声が多く挙がっており、なかなか興味深いものがあります。
周りにいろいろ、石碑が点在していますが、車での移動は限界があり、ここは一日掛かりの「歩き」の方が合っているかな?
今回のドライブはここで終わりましたが、後日、近くを通った際に訪れたのが、これまた、有名な「桶狭間の古戦場跡」です。場所は愛知県豊明市の国道1号線から一本中に入った所にあります。
設楽原の合戦の15年前、永禄3年(1560)の5月19日(旧暦)、まだ無名だった織田信長が今川義元を討った戦いですね。
3,000そこそこの軍勢で25,000もの大軍を奇襲により破ったとしてよく知られていますね。
でも、この定説、通説にも以前から多くの疑問が挙がっています。また、場所もここではなく違う場所の可能性も否定できません。
なお、今川軍の死者、2,500人、織田軍、830人、僅か2時間で決着したとの案内板がありました。
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いずれにしても、この二つの戦いにより、信長が戦国時代のスーパー・スターになった事実は紛れも有りませんね。