jazz and freedom and avenger

勝手気ままな戯事日記 暇つぶしに・・・・

KEITH JARRETT / LIFE BETWEEN THE EXIT SIGNS & SOMEWHERE BEFORE

2019-08-30 | ジャズ・p

 

ロイド・グループが丸三年を待たず解散した理由は当時、ツアー疲れとか内部分裂とかアバウトな情報しかなかったけれど、後年、具体的な話が流れた。「堕落している」とキースとディジョネットが反旗を翻し、更にギャラの配分に異議を唱えたとか、かなりきな臭い内幕が暴露されたが、この手の情報は流し元の主観がかなり強いので、そっくりそのまま受けとるわけには行かないけれど、余りにも爆発的な人気に問題点が先送りされた結果には違いない。

気になるのが二人が言う「堕落」という意味だが、ロック寄りの演奏を指しているのだろうか?その後、二人ともマイルスのバンドに参加しているのでそうではなさそうですが良く解らない。

当時、ロイド・ミュージックの魅力に自分の感性が追い付けなかった層は少なくなく、「機を見るに敏ないかさま商人」なんて罵声を浴びせた評論家も出る始末で、「このバンドはキースで持っているようなものだ!」という人達も多かった。ま、短期間で解散した結果、「後付け論法」がまかり通ったのだろう。長い隠遁生活から復帰し、ECMに秀作を発表すると「実はロイドは良く解らないのです(笑)」と自分の耳を誤魔化す評論家も現れた。

キースが在団中、アトランティクのサブ・レーベル 、VORTEXに吹き込んだ作品を。

3枚レコーディングしており、2枚目はどうでもいい作品なのでパスして、初リーダー作と3枚目を。

ちょっと意地悪だけど、ボスに「あんたは堕落している」と、ちくれるほどの内容があるのだろうか?と(笑)

まず” LIFE BETWEEN THE EXIT SIGNS ”

ライナーノーツでキースは「音楽を言葉で表すことなんてナンセンスで、聴く人が感ずるもの以上でもないし、それ以下でもない」と新人にしては小難しい事を述べている。7才でソロ・コンサートを開き、その後、プロとして演奏していた天才ならではですね。

全体に初リーダー作らしく「楚々」とした空気が感じ取れるが、ゴスペル・タッチ、バラード、前衛風、実験的なものまで「何でも出来まっせ」という才のひけらかしが垣間見えるのが惜しい。また、オリジナルを7曲も披露しているがちょっと・・・・・・・

及第点レベルはクリアはしているものの、やや期待外れかな。

 

”SOMEWHERE BEFORE”

改めて聴き直したがリアルタイムで聴きた時と変わらず、ロイド・グループでみせたあの才気溢れるプレイは何処へ行ってしまったのか。後になってボブ・ディランの‘My Back Pages’が人気を博しているが、どこがいいのか、さっぱり解らない。ここでもいろいろなスタイルで演奏しているが空回りしている。人はロイドは大したこと事なく、キースのpが聴きものと言うが、それは全く逆でロイドなきキースは凡の域に近く、ライブでこうした演奏をするのは、語弊が有るやもしれないが、エゴぽさを感じます。聴衆の反応も気のせいか今一つ。

児山紀芳氏(当時SJ誌編集長)のレヴュー(69年)にもこう記されている。「キースはメロディを大切に、しかもリズムに変化を求めてあがいているが、このLPの彼は聴き手に何も与えない」と。

キースと決別した罪深いレコードで、”TALES OF ANOTHER / G・PEACOCK”(ECM 1977年)まで自分の視界にキースは居なかった。 

 

 

キースがリーダーだったら聴かなかったかもしれない。現代アートのカヴァで手を出しにくけれど見事な一枚。

 


CHARLES LLOYD / DISCOVERY! & OF COURES OF COURES

2019-08-18 | ジャズ・ts

 

第18回 TOKYO JAZZ FESTIVALの二日目・9/1(日)にC・ロイドのコンサートが行われると、日経新聞に載った。他のステージはSOLD OUTになっているにも拘らず、ロイドのステージは意外にもチケットが残っているようだ。駆け付けたい気持ちは充分だが、この暑さでは・・・・・・・・

ロイドは1938年生まれなのでもう立派なLIVING LEGENDで、「伝説」と言う意味に重きを置けば、ロイドの右に出る者はいない。この辺りの事情について説明はもう要らないであろう。

駆け出しのころ、初めてのジャズ喫茶(しゃんくれーる)で”FOREST FLOWER"(1966年)を聴き、この世界にのめり込んだ記憶は未だ色褪せていない。ミリオン・セラーの大ヒットを記録したとされる「伝説の一枚」ですね。もし、その時、本作を聴かなかったら今日までJAZZを聴き続けられたか、自信はありません。正にロイドは自分にとってJAZZへの「伝道師」です。

そこで有名になる前のCBSのアルバムを2枚。

当時、パジフィック・ジャズのR・ボックはロイドの才能を認めながら、コルトレーンに似過ぎていると、契約を逡巡している隙に、RCAを退社したばかりのG・アヴァキャンはロイドの優れた感性と作曲力に眼を付け、CBSとの契約に漕ぎつけた。経営者とプロデューサーの嗅覚の違いと言っていいでしょう。

リーダー・1stアルバム”DISCOVERY!”(1964年)

アカデミー賞受賞の‘Days Of Wine And Roses’を除き、‘Forest Flower’を始め全て彼のオリジナルで占め、その作曲能力を改めて披露している。 ロイドのインプロヴァイザーとしての評価は、当時、一部からコルトレーン・エピゴーネンと芳しくなかったが、注意深く聴いてみると、その風貌に似て、力強く、豊かな想像力のなかに思索的でメロディアスな側面が感じとられるます。例えば、メンフィスの学校時代からの親友であった故・ブッカー・リトルに捧げられた‘Little Peace’で聴かれるフルート・ソロは、淡々と吹いているようで、リトルへの哀惜が溢れんばかり満ちていて聴きものですし、‘Days Of Wine And Roses’でも、甘くならずリリカルに歌ってる。 なお、メンバーに、新進のピアニスト、D・フリードマンが参加して、本作をより魅力のあるものにしている。これといった目玉はないものの、聴き終った後、不思議に耳に残る秀作です。因みにD・B誌では、四ッ星でした。

2ndの”OF COURES OF COURES”(1965年)

メンバーはG・ザボ(g)、R・カーター(b)、T・ウィリアムズ(ds)のカルテット。ザボはハンガリー生まれでエスニック調のプレイで話題になっており、カーター、ウィリアムズはご存知M・ディビス5に在団中ですが、ボスの体調が優れず、所謂「レイ・オフ」の時、このメンバーで活動してそうです。それにしてもカーター、ウィリアムズを擁するとは、ロイドは既に半端なポジションではない事が証明されていますね。さすがスタジオ・セッションものと違い息の合った演奏はロイドの才能開花の予感が充分です。

ロイドの演奏には他のミュージシャンとは違うSomething Elseを感じながら、言葉で上手く表現できなかったけれど、アヴァキャンはライナー・ノーツで「享楽的・官能的」と表している。なるほど、妙に納得します。

翌1966年9月、キース、マクビー、デジョネットと言う新しい「器」を得たロイドはモンタレー・ジャズ・フェスティバル(Forest Flower)で聴衆を沸かせ、その後短期間ではあるが一世を風靡していった。

ただ、ロイド・グループの本当の凄さを見せ付けたのは実はこの”IN THE SOVIET UNION”

1967年5月14日、旧ソ連エストニア共和国タリンでの30分以上もスタンディング・オベーションが止まなかったというこれも「伝説」のライブです。

 

 

 

話が横道に逸れますが、この時、グループは内部分裂(ロイド vs. キース・ディジョネット)状態だったそうです。

エヴァンスのあのヴィレッジ・ヴァンガード・ライブもラファロが演奏中、「給料を上げろ」と脅して(笑)いたそうです。

名演の裏には、いろいろな事情が隠されていて、緊張・緊迫・対立と言ったマイナス要素がエネルギーに変換された時、想像を超えた作品が誕生しますね。

 


DON CHERRY / COMPLETE COMMUNION & SYMPHONY FOR IMPROVISERS

2019-08-11 | ジャズ・tp

 

夏はボサノバと思っていたけれど、意外にニュー・ジャズとの相性が良い。

そこで、D・チェリーの作品を二枚。

一枚はBN第一作目、チェリー、バルビエリ、グライムス、ブラックエルのカルテットによる”COMPLETE COMMUNION”(1965.12.24)

この手の演奏に抱く先入観、つまりラディカルさは全くと言っていいほど無く、グライムスの強靭なベース・ワーク、煽るような独特なブラックエルのドラミングをバックに、チェリーは後に「吟遊詩人」と形容される奔放なコルネットを既に垣間見せ、バルビエリも、後に人気を博した「フォークロア・フュージョン」とは異なり、適度に塩辛さを振りまくビターなtsを聴かせます。

片面それぞれ途切れのない四部構成の1曲(全てチェリーのオリジナル)ずつで、知らぬ間にサラッと聴き通してしまいます。

タイトル通り四人の「完全な交流」がものの見事に反映されているからでしょう。

 

もう一枚は第二作目の”SYMPHONY FOR IMPROVISERS”(1966.9.19)

こちらは、フリージャズの特徴でもあるコレクティヴ・インプロヴィゼーションを機軸にメンバー全員がソロを通じ次々に有機的に絡んでくる展開が完璧に浮き彫りされている。こちらもA面、B面、それぞれ4つの曲で構成され、継ぎ目なく連続演奏されていますが、一時の破綻もなく繰り広げられていく様は驚異としか言いようが有りません。本作も、一部のフリージャズ作品にありがちな騒音化した世界は無く サンダースののた打ち回るtsさえも納得のいくインプロヴィゼーションとして完全にチェリーの世界に同化されている。それもこれも、演奏者を強烈にプッシュするブラックウエルのパワフルなドラミングとグライムスの躍動感溢れるbに負う所が多い。

タイトル曲を含んだA面よりもマイナー調のメロディの”Manhattan Cry”から始まるB面の方が、どちらかと言えば好きです。一瞬、B・リトルを思わせるチェリーの哀感を漂わせたcorの後、C・テイラーを彷彿させる見事なベルガーのP、この後暫くして‘いかさま師’へ華麗に変身していくバルビエリの思わせたっぷりの‘ガトー劇場(激情)’からスタートするこのB面はトータルで20分間、‘フリージャズ’といった先入観を忘れさせるほどすばらしい出来映えです。

 

二作共、BNのレーベル・キャラクターの枠内で、「表現の自由」を高らかに謳っている。だから聴くすべての人達から共感を得られるのだろう。

 

 


ON THIS NIGHT / ARCHIE SHEPP

2019-08-02 | ジャズ・ts

7、8月のゴルフは自粛するつもりでしたが、会員価格、カート乗り入れOKと言う仲間の甘言に乗せられうだるような暑さの中、先週と今週、ラウンドを。カート乗り入れOKのコース(南山)は前々日に雨が降りフェァ・ウエイを傷めないよう「禁止」に変わっていた。話が違うけどなぁ~

ここ一ヶ月以上、練習どころかクラブに指一本触っていない状態なので散々な結果に終わったが、ま、無事にホール・アウトできヤレヤレ。

こんなに暑い時はエアコンを利かせ、ジャズを聴くのが一番。手を加えたDL-103が思いの外、上手くいき部屋に籠る時間が増えました。

Agのリード線、軽針圧タイプのシェル、トランスのインピーダンスを20Ωで受けたり、セオリーを外しているので、103を上手に鳴らしている方々が聴いたら、「これは103の音ではない」と、お叱りを受けそうです。でも、ややがさつですが厚みの割に重くなく、妙にビビッドな音が気に入っている。飽きたらまた違う手を考えればいい。

前回に続き、A・SHEPPをもう一枚。

 

 

見るからに暑苦しい、汗臭いカヴァと不穏な中身を暗示するタイトル。この手のジャズが苦手な方々、或いはイメージだけで聴いたことがない人達からすれば、まるで「お化け屋敷」を連想させるアルバムだが、見世物小屋のそれではなく、「ひんやりした質感を伴った本物」のそれと言っていいだろう。だから、聴く内に「このお化け屋敷、結構イケルね」と(笑)・・・・・・・

A・シェップ(ts)、B・ハッチャーソン(vib)、H・グライムス(b)、J・チェンバース(ds)の4人を中心に曲により dsがR・アリやJ.C.モーゼス等々に入れ替ります。ハッチャーソンが「ひんやりした質感」を生み出している存在に間違いはないですね。

エリントンの”In A Sentimental Mood”では、シェツプはB・ウエブスターばりの泣き落としtsを聴かせ、「ニュー・ジャズの闘将」とは別の「現実主義者」の顔も覗かせている。また、カリプソ・テイストの”The Pickaninny”ではちゃっかりロリンズとアイラーを足して二で割ったプレイを披露している。

全体にハッチャーソンにもう少ししっかりしたポジションとソロ・パートが与えられていたらもっと多くの人達に認知されただろうに、ちょっと残念。

  

 

5曲(2セッション)がゲルダー・スタジオ、1曲がニュー・ポート・ジャズ フェステバルでの録音。

コッテリとコーティングされたゲートフォールドのカヴァがモダン・ジャズ最盛期(1965年)を物語っている。