言葉に関するFAQに多く見かける質問に「XXという言葉は正しいですか」というのがあります。
話したり書いたりしてみれば、通じるかどうかがわかるのに、正しいかどうかの心配が先に立つのか、それとも言葉は話したり書いたりすること以外に、骨董のように本物をだいじに持っているところに価値があると思っているのか、そのあたりのことがわかりません。
話したり書いたりして、それが通じるためには、聞き覚え見習うことがいちばんであるのに、正誤の判定をしておかないと不安なのかもしれません。そういう人たちは、生育の過程で、「見習う」ということを身につけてこなかったのでしょうか。家族のしていること、話していること、世間の人々がしていること、話していることには目もくれず、耳も貸さず、俺が我がの勢いだけでやってきたのかもしれません。
しかし、異文化のなかに身を投じてみると、「見習う」すべを知らなければ不安が先に立ちます。そこでまず「正誤」の判定を、誰かにしてもらいたい、「正しい」と言ってもらって安心したいということなのでしょうか。
「正誤判定」か「見習う」か、どちらか一方の機能だけでは、人間らしい生き方はできません。ところが、泳ぎを知らずに正誤の棒杭にかじりついたり、泳ぐことしか知らずにただ流れに身を寄せる、そのどちらかでしかないという民族も広い世界にはあるようです。
見習えば揃うという動物の習性があります。
鳥や魚の群れにリーダーはいません。お互いに見習うだけで群れはできあがります。
見習う目標が、形ではなく動きや流れである場合は、同種同類のものでなくてもことは足ります。
いわゆる先進国が、「見習う」だけで「判定」能力をもたない人たちを見つけると、開発途上国などと命名して、見習い機能を存分に活用することもできます。
そこで教え込むのは、まず勝ち負けの判定です。スポーツは、瞬間の悦びを味わいながら勝ち負けの判定を覚えられます。日々の暮らしには必要のなかった数値勘定を、勝つ喜び、上を目指す楽しみとあわせて教え込みます。
神様は、これらの行為をどう判定なさるでしょうか。