・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

買うことに意義のある買い物

2013年12月15日 | つぶやきの壺焼

買い物の好きな人は、品物への執着は薄いようです。
何かを買う、そのときの瞬時の優越感こそが、買い物の歓びになります。
衝動買いはよくないなどと言われても、衝動が快感を呼ぶので、買うという行為はただの現象でしかありません。
現象をなくすには原因を閉じ込めなければなりませんが、原因が衝動である場合は、それを封じ込めるような強い衝撃が必要になります。

売る側は、どうしても買い付けの衝動を起こさせたいので、策略を用います。
突拍子もない値をつけることは、金額と価値の間に常に正の相関があると思い込んでいる人には効果覿面です。
やす物買いのぜに失いの逆で、すぐにはまります。
骨董の売買も、スポーツ選手の契約交渉も、似たようなものでしょう。

買うことに意義のあった1機100億円の軍用機、実用上の価値の計算は、ス-パーコンピューターでも難しいでしょう。
あるいは、コンピューターで計算すると、もっと高くなってしまうかもしれません。

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計算しやすくてわかりにくいこと

2013年12月14日 | つぶやきの壺焼

消費税率が来年4月に8%に上がるので、JR東日本が新運賃を国土交通省に申請したそうです。
今の運賃に増税分を上乗せし、ICカードの運賃は「1円刻み」、券売機で買う切符は「10円刻み」の運賃にするという計算です。

東京近郊では、切符運賃の10円未満を切り上げ、ICカード運賃は切符以下にするそうです。
たとえば、今の130円がICカードでは133円になり、切符では140円になります。

今の運賃は、すべて10円刻みですから、130円の区間は、1円刻みなら125円だったかもしれません。
その場合には、
125/1.05×1.08=128.57
という計算になり値上げしなくてもよい勘定になります。

消費税率が上がるたびに、端数処理でぐいぐい運賃が上がっていくのはおかしいですね。
次に2%上げるときはどういう計算をするのでしょうか。

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小ざかしい商い

2013年12月13日 | つぶやきの壺焼

客寄せのあの手この手、それは工夫のあらわれでほほえましいものです。

しかし、だまし、目くらましはいけません。

駐車場の看板に、「24時間まる1日1000円」というのがあって、3日間止めて3000円かと思ったら、びっくりするような金額を請求されたという話を聞きました。

まる1日24時間までは1000円、それを超えた分は時間割で上乗せ料金だったのです。

駐車場を探し回り、やっと見つけたという人が、看板に書いてあることにじっと目を凝らし、意味をよく考えてから駐車するでしょうか。

幾日か前に、「高嶋ひでたけのあさラジ! - AMラジオ 1242 ニッポン放送」で聞いた話です。

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経済政策の成果を測り知るには

2013年12月12日 | つぶやきの壺焼

経済政策の成果は、生活実感に現れなければ本ものではありません。
自分の親や子の、命を縮める人間がまだいたかというニュースが、TVに出なくなったとき、人々の心が正常に戻ったと言えるでしょう。
それまでは、負の生活をしている人がたくさんいるということです。

負の生活が、ゼロと呼べる正常な生活の出発水準に戻ったとき、経済政策の成果が現れ始めたと認められるでしょう。

「日本を取り戻す」と言われたあの言葉は、世界第何位などという数字の話ではなく、生活実感のことだと、私たちは思っています。

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商標登録はわからない制度のひとつ

2013年12月11日 | つぶやきの壺焼

キャラクターの名やデザインが、店や食べものの名前に使われて、それがあたると客を引き寄せます。
これはよさそうと、早耳、機転にものを言わせたとき、大成功となります。
店や食べものの名前に使う権利は、商標登録によって、早い者勝ちとなります。
早く認めさせたほうが勝ちというのは、ノーベル賞にどこか似ています。

キャラクターの名やデザインを考え、最初に作った人は、作る喜びを感じればそれでおしまいということになるのでしょうか。
いいえ、そうでもないようでした。
人が考えた名前の商標登録で、使用権を勝ち取った人に、それを考えた元の人が、別のところに自分で使いたいからと、念のために相談を持ちかけたら、利用料を寄越せと言われたという話があります。
考えた人には、立派な権利が発生していたのです。自分で考えたものを使うのにお金がかかるという負の権利です。この原理がおわかりになるでしょうか。

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店が人を見せなくなるとき

2013年12月10日 | つぶやきの壺焼

店員もバーコードもいらない“未来のレジ”というシステムができたそうです。
 ⇒ http://p.tl/t87T

あるコンビニで殺人事件が起き、経営する会社も変わって再開したがやはり営業不振で閉店、そのあとはテナントもつきません。
殺されたのは店員だけでなく、店も、その場所も、土地も、形だけあって価値がゼロに近くなってしまいました。
こうなっては、何十年か経って、事件のことを知っている人がごく少なくなるまでは、駐車場ぐらいにしか使えないでしょう。

店員がいなければ、店のカネを盗るための強盗には入れません。金庫破りは強盗ではありませんから。
人が危害を加えられなければ、店も倒れることはないでしょう。

店員のいない店、いま街で見かけるのはコインランドリーかATMですが、誰もいないのはやはり不気味です。
ガソリンスタンドのように、開放された店の形のところはまだよいのですが、見通しのきかない建物の中は、見られてない感より、見てくれてない感が強くなります。

たとえお決まりの挨拶言葉でも、何か声が聞こえることは「店」のだいじな要素なのだと、あらためて思います。

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声明の本質はその前の行動にあらわれる

2013年12月09日 | つぶやきの壺焼

「せいめい」と読んでも、「しょうみょう」と読んでも、「声明」は、文字からすれば声で思いを明らかにすることですが、それには宣伝の意図が強く表れます。

首脳会談の締めくくりに出される共同声明も、会談の成果を宣伝するためのもので、それぞれの思いとは裏腹の部分もあるでしょう。
声明の文言がどうであれ、用意された会談でそれぞれの考えが翻るはずもなく、何を思って会談に臨んだかを察知しなければ、見当違いの受け取り方をすることになります。
共同声明の読み取りには、会談の前の行動をよく見なければなりません。


犯行声明という物騒なことも、やはり「やった、やったぞ」という宣伝です。

仏教のしょうみょうは、仏典に節をつけて歌うもので、梵唄(ぼんばい)と呼ばれますが、歌うということは儀礼としての行為にも見えます。
しょうみょうに、梵匿(ぼんのく)や魚山(ぎょざん)という呼び名もあると聞いては、匿された何か、魚も山に登るような何かがやはりあるのかなどと、凡迷な考えもさまよい始めます。

しょうみょう、元の梵語はシャブダ・ビドヤーだそうですが、この言葉、どこかシャバダビダーと聞こえるあのスキャットに似ていませんか。

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病気は命名を契機に育てられる

2013年12月08日 | つぶやきの壺焼

新しい病名が次々に現れます。
病気の命名が医学の研究成果というわけでもないと思うのですが。

病名というものは不思議なものです。
お医者さまの診察を受けていて、ドイツ語らしい文字がカルテに書き込まれているところを見ながらXXXXですと言われると、なぜか安心します。

「分析が病名を作る」竹原信一氏の言葉です。
 ⇒ http://p.tl/hhge

これはYYYYだ、と言われると、多くの人がそうか、と思います。
YYYYと名づけられた何かは、名前がつくとどんどん成長します。
ワクチン、治療薬、予防薬が考えられ、薬剤産業の発展に貢献します。
命名という行為は、世の中に大きな影響を与えます。徒やおろそかにはできません。

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議員の仕事場は議場内だけではない

2013年12月07日 | つぶやきの壺焼

 選挙を投票しやすいシステムにすることは賛成です。

しかし立候補しやすいものにすることは考えものです。
芸が売れなくなったから議員にでもなろうかという程度の動機しかない、デモ議員が増えます。
TVカメラへの写りのよさにすばやく見定めはつけても、根底はノンポリで、党議拘束遵守こそが民主主義の基本と思い込むボケ議員も増えます。

長老たちはタバコをコーヒーに変えてたむろし、底抜けのデモ・バカたちは、議員の仕事場は議事堂の中だけと思っていて、議員食堂で特製の定食をパクつくほかにすることがなくても、町に出て何かを訴えることなど思いつきもしません。


議員立候補は、届出制でなく、論文、面接の検定制にしてはいかがでしょうか。

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目元足元で全体が見える

2013年12月06日 | つぶやきの壺焼

話すときは相手の顔を見よ、目を見よと、よく言われます。
相撲で立ち上がった後は、相手の顔を見ていてはだめで、足を見よと言われます。

目を見て話し、足を見て取る、そうすれば全体が見えます。
話すとき目を見るのは、聞いた相手の心、つまり相手の総体の反応が目に表れます。
取り組み中の足の動きには、相手の体全体の様子が伝わります。


記念写真、集合写真は写り方がむずかしいと言う人もいます。
___(燃焼のための習作:堀江敏幸)
あえて見せたくないけれども見せなければ用が足りない、そう思っていやいやカメラのほうを向けば、そういう顔に写ります。
並んでも顔が写らないように半分隠れる人もいます。
写真屋さんなら、そこの赤いマフラーの方もうすこし左へ、はいその位置を変えないでください、などと言って顔が写るようにしますが、いち足すいちは、と言ってみるだけの通りがかりのシャッターマンでは、そこまで気遣ってはくれません。


足元の美しい人は、歩き方が美しく、体全体が美しく見えます。心まで美しく見えます。
靴がブランドものだからでも、足の手入れがよいからでもありません。
心が体の動きにあらわれ、それが歩き方になり、足元に顕れるのです。
CMのモデルにも、歩き方を見せよう見てみてと、ぶざまな写り方をする人がいます。

ここにきて、なぜ目と足がそんなに、と考えて気付きました。
弱り始めの一番手二番手が、目と足だったのです。

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天国にいちばん近いところ

2013年12月05日 | つぶやきの壺焼

小笠原に新島ができそうです。
 ⇒ http://p.tl/FMr3


広い範囲の地図では、その位置もわからない島、そういうところにも国はあります。
南太平洋のオセアニアにあるツバル、バチカンの次に人口が少なく、1万人にはもう少しという国です。

島は九つあって、総面積は26k㎡、神奈川県の海老名市ぐらいの広さです。

知ったのは、地球温暖化で沈みそうだというデマからです。
第二次大戦のとき、米軍が埋め立てて作った土地が、半世紀あまりの間に削られていったのが、沈むように見えたらしいです。

神さまの国と呼ばれたり、天国に一番近い島と呼ばれたり、まことにゆったりと時間の流れるところのようです。

「南の島子連れ滞在記」
 ⇒ http://p.tl/-HHW

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即席ラーメンを成長させたのは欲しいものを増やす力

2013年12月04日 | つぶやきの壺焼

ラーメンもそばもうどんも、即席ものが「生」にだいぶ近づいてきました。
それを作る人たちの努力のおかげです。
おかげはもうひとつあって、それを欲しがった人たちなのです。
大勢の人が欲しがらなければ、ものはごくわずかしか世に出ません。

不思議なのは、欲しがっているものと出来上がるものが一致すると、いつまでも違うものが出来続けるということです。
即席ラーメンを好んで食べる人は、ラーメンを食べたいと望んでいるのではなく、別のものを欲しがっているのです。
別のものとは、便利と類似、「たすかる」と「そっくり」です。これがまた、パスカルとソクラテスに似た言葉ではないかと、似ても似つかぬことを思いつかせます。

即席ラーメンは、似ても似つかぬものから始まりました。
もしこれが、最初から「そっくり」だったら、人々の関心はそれほど集まらず、今のように売れるものにはならなかったかもしれません。「たすかる」だけの望みでは、売れ行きを手伝っていた「もっと、もっと」が、ここまでにはならなかったでしょう。


奥様方は、外に出れば「そっくり」を望み、家では「たすかる」を尊重します。
昼はあこがれのスターそっくりのつもりでおめかし、途中で美容院に寄ってさらにおめかし、メニュも見ずにお好みの食べ物が運ばれてくるところに行き、そこでまたそっくり談義に花を咲かせ、あとはぶらぶら歩き、風が冷たくなってくればお帰りです。
お帰りになってからは、「たすかる」さんに乗り換えて、テーブルに出すのは即席ラーメン。いろどりはコンビニのおでん、から揚げ、サラダ。

これで日本の食産業は万々歳、TPPなど、どこ吹く風というわけです。

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置いておくだけでは寿命が縮まる

2013年12月03日 | つぶやきの壺焼

合成底の靴は、履かずに置くと底が割れるそうです。
ときどき履かなければ長持ちしないのは、カタ流しで作られるからでしょうか。
練るだけで、叩いたり展ばしたりされず、鍛えられずに作られるからでしょう。

そういう工程を入れて風化に強い性質を作りこむことは考えられていないのでしょうか。

 資料文書も、ときどき風を入れなければ、ぼろぼろになって読めなくなります。


人間も、カタもの教育をしただけでは、すぐ壊れます。

じっとさせておけば、すぐに弱ります。
へたらない人間は、鍛錬によって育ち、動くことで生き延びます。

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法律はなぜ濫用されるのか

2013年12月02日 | つぶやきの壺焼

特定秘密保護法は、濫用の心配があるからよくないと言われます。
見ても読んでもわからないほど細かく編み上げて作った法律も、網の目のどこかに針の先を突っ込んでそこを広げていけば、通り抜ける道がみつかります。
濫用は、目の細かさが足りないから起こるのではありません。逃げ道をそこに見つけようとする、人間の心の弱さ、いじましさがもとなのです。

難しい裁判では、裁判官が疑問を抱えながら判決を下さなければならないことがあります。
疑問点のあることを隠しては具合が悪いので、言っておかないわけにはいきません。
そこで登場するのが「後に検証されることを期待する」という言葉の逃げ道です。
裁判を難題の検証のために長引かせてはならないという立派な理由が、そこにあります。

正義の使者である裁判官が悪意を持っているはずはありません。
悪意があれば、必ず見破られ、それはいけませんと指弾されます。
むしろ悪意のないことが始末に終えないところなのでしょう。

逃げ道をつくらせない、逃げ場にされない構造の法律を作る研究は、どこの大学の先生もしないのでしょうか。
法は法、道は道、そんな看板が、逃げ道の辻に立っているのかもしれません。

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秘密事項の例示を求める愚

2013年12月01日 | つぶやきの壺焼

秘密を守ろうとする法案審議で、秘密事項の例示を求める愚態症の先生はまさかいないでしょうね。
何をしなければならないから、その法律を作ろうとしているのか、そこに焦点を当てずに濫用、悪用のされ方だけしか考えないのは、神経がずれている病気です。

嫌だ嫌だと思いながら作ったのでは、ロクなものはできません。
そんな法律を作らなければ、だいじな秘密を守れないことが、本当はおかしいので、そこを正すことができるかどうか、それを聞かせてください。

よし、これができたら巧く使ってやろうと、なめずる舌をしびれさせる注射器を用意しておいてください。

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