・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

粗忽妄信:3

2018年01月16日 | つぶやきの壺焼

"まごころ"という言葉は、ふだんの生活ではあまり耳にしません。
店の名前やグループの名前にはときどき見かけます。

日本人にとって、まごころは自らが尽くすことで、わざわざ口にすることではないものになっているからでしょう。
他に望むことでも、それに頼ることでもない"まごころ"は、日本の心を持ち続けている人に限って通じるという、何やらはかないものになっています。
外国人でも、日本の心を知り、それが身に付いた人には通じます。
日本の国籍を持っていても、日本の心を失った人には通じません。

ところが、"まごころ"という日本独特のものが、地球上のどこに行っても、地球に住む誰を相手にしても通じるものという妄信にとらわれている、心やさしい人もいます。
対話を続ければ、いつかはわかってもらえるときがくるなどと、のんきに構える人が案外多いのです。

外交の仕事をする人が、そんな妄想にとりつかれていては話になりません。
それを知っていて、何もしない自分への言い訳に妄想を利用するやからは、魔ごころをもったとんでもない悪党なのです。

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粗忽妄信:2

2018年01月15日 | つぶやきの壺焼

妄信と盲信、どちらが先かといえば、順序は盲信から妄信へということになるでしょう。

何か頼れそうなことにはまず「信じます」が入り口になります。
初めから全貌をつかめることはないので、目をつむって手探りでも信じる、つまりは盲信です。
信じていて、しばらく異変がもたらされなければ「信じてもよさそう」から「信じないわけにはいかない」となっていきます。
そうなれば、いつの間にか相手が姿を変えたことには気づきません。
信じさせようという側の本性に気付いても、信じていたほうはもう後戻りできなくされているという仕掛けです。
これこそ、妄信に陥った状態です。


国土の領有が脅かされても、国民が他国に連れ去られ何十年経っても、そのまま半世紀以上放置されるというのは、他国から見ればまことに奇異なことでしょう。
この奇怪現象は、黙って見守るよりしかたがないものという妄信がそうさせているからです。
始末が悪いのは、困った妄信のもとが、憲法という法の最高位にある取り決めにあるということです。

この妄信を振り払うには、頭の切り替えというなかなかの難題があります。
まず、ふだん何も考えていない人が何となくもたされている妄信に気付いてもらうことから始めなければなりません。

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粗忽妄信:1

2018年01月14日 | つぶやきの壺焼

"もうしん"で変換すると、猛進、妄信、盲信、盲進と四つの熟語が並びます。

続けて読んでいると、晩夏の夕暮れが頭に浮かびます。
会話中にこの話が出たとして、そのときのいちばん心地よい応答は、静かに響くあの虫のものまねです。
こちらもそれに引き入れられて合唱になれば、その場は最高の気分になれるでしょう。


四つの"もうしん"の"しん"の字には、こころを高ぶらせる"進"と、反対にこころを落ち着かせる"信"があります。
とかくわいわいがやがやと、こころを高ぶらせる話にはさして面白い話もないので、信に絞って、思いつくままにキーがどうすべるかを試してみようと思います。

でははじめに、妄信と盲信、これはどちらが先なのでしょうか。

 

 

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おすすめしません:31 多様性という旗印

2018年01月13日 | つぶやきの壺焼

多様性は、望ましいような、反面厄介ごとを呼び込みそうな、あやふやさのある概念です。

多様性が尊重にあたいするのは、あるものごとが、元来の目的を失わずに行われる場合に限ります。
何でもかまわずいろいろがよいとすれば、その中の一つに底力をもった色があったとき、すっかりそれに塗り替えられてしまうこともあります。

人間が活動する場に、誰でもどうぞの度が過ぎると、言葉たくみに工作できる人が送り込まれ、周りの人の頭の芯に、他国の野望を満たす文化畑が出来上がることもあるでしょう。
そしてその文化畑は丹念に耕され、そこは国とは名ばかりの、大野望が幅を利かせる大市場と化し、もといた人が邪魔になれば、何万人もが一度に処分されることが起こりえます。
強烈な意思を持った人間の凶暴性は、何千年の歴史をもってしても、浄化しつくすことはできていません。

むやみに何かの概念を旗印にすることには、よほどの注意が必要です。

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おすすめしません:30 義務教育での自由優先

2018年01月12日 | つぶやきの壺焼

どうにもならない大人は、どうにもならなっかた義務教育で作られました。
どうにもならなかった義務教育の教室では、どうにもならなかった先生が、生徒に教えなければならないだいじなことを教えてはならないという、どうにもならないことを信じ込んで、時間を過ごしてきました。

信じ込んでいたのは自由の二文字です。
義務教育とは、教育する側とされる側の、教育しなければいけない義務と、されなければいけない義務との結びつきという、上つらだけの解釈で済まされてきたのではないでしょうか。
そこでは、「義務」を教え込む教育であると考えることさえ避けられてきたのではないかと思います。

「義務」を教える、その核心でなければならないのは、日本に国籍をもつには、日本の国民であること、日本の国は日本人のものであることを体中にしみこませることです。
教室で、一度や二度そんな話をしても心の中には入っていきません。
教える人の体中に、それがしみ込んでいて、義務を果たすまごころで教育が行われなければ、義務教育は完成しません。

日本人でない自由など、日本人にはないのです。
もし、公職にそんな人が就いていたら、さっさと追い出さなければいけません。

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おすすめしません:29 GPS 信仰

2018年01月11日 | つぶやきの壺焼

Gold GPS G・・・と、G がつくものには、みな力がありそうです。
Gold は、紙幣という機械を回せば作れるようなものに価値の座を譲り、紙幣もまた電子マネーという正体の見えないものにとって代わられようとしています。
GPS も、通常の生活の場ではその正体を見ることができません。
地球のまわりにあることだけは想像できても、どこにどういうものがどれだけあるのか、正体を知らされることもなく、ただ便利なものと信じさせられています。

先端技術の便利さは、軍事利用価値のおこぼれを授かっていると聞かされてても、そのすべてを「いりません、お断りします」と言い通す生活は、深山幽谷に潜むのでなければできなくなっています。

そのうちに、攻撃能付きの恐ろしい衛星を従えた GPS も現れそうな気がします。
GPS を利用するのでは戦略が計算できてしまうので、GPS によらない戦法も考えられているようです。
PGPS PostGPS とでもいうのでしょうか。

人間が自らの意思を譲り渡すような GPS 信仰に傾倒してしまっては、サルに笑われる日が来るかもしれません。

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おすすめしません:28 二極思考

2018年01月10日 | つぶやきの壺焼

二つのうちどちらかに決めるというのは、人間の素朴な知恵の一つです。
見知らぬ街で歩き出す方向を決めるときにも、北か南か、東か西かという選び方が、迷い心を落ち着かせてくれます。

このどちらかを目指す思考様式も、それにとらわれ過ぎれば、わかりやすい空話に操られやすくなっていきます。

戦争は嫌だと言い続けること、あるいは言わされ続けることが、往く道の幅を狭め、役者としての円熟の極を見せずに終わってしまいそうな人も実在します。

発注の公正を装うため、入札によって見積価格の安さのみを判断基準にするという一極へのこだわりが、広域事業の全般工程の進捗を阻害することもあります。
首長の超現代的行動の影響で、計画されていた全般工程が総崩れになり、挙句の果てに不要な追加工事を組み込むことになったものの、入札に応じる施工業者がないという、三文喜劇の筋書きのような事態を招いた事例もあります。

国政と同方向の動きには、何から何まですべて反対一方という集団が、米軍基地の危険度迷惑度の減る場所への移転にも反対し、わざわざ現状を長引かせる運動を続けています。
現在の基地のうち、相当広範囲な部分を返還するための移動にさえ反対し妨害し、行政に携わる人を脅迫するという、「返せ」「返そう」「反対」と支離滅裂を超えてしまったような、集団行動を擬した個人活動を、ただ反の一字に徹して続ける人もいます。

「思い込んだら命がけ」という歌の文句がありますが、命を懸ける心意気などは見られず、命ある限り一直線の妄信から、みな抜け出しようがなくなっているのです。

とかく、一方一極へのこだわりに、ろくなことはありません。

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おすすめしません:27 同調教育

2018年01月09日 | つぶやきの壺焼

会社に「管理者研修」という長のつく役職に就いた社員を集めて話を聞かせる研修会がかつてありました。
「協調性」が核のようなテーマ設定で、新しい長の座では、本人にもその部下にも、あまり変わったこと突出したことをやってほしくない、させてほしくないという、大躍進を望むことのない会社幹部の内心を鏡に映して見せるような研修会でした。

協調性の実務事例に「標準化」を取り上げた講義のとき、開始直後に受講者の考えを問われ、「標準化は、規定や基準ができたとき、すぐに古くなっていくもの」と答えたら、講師の両眼が一瞬まんまるになり、困ったような顔をされたことを思い出します。

「協調性」はあらゆる大中小の環境に適応する"方法"なので、社員教育にせよ学校教育にせよ、それを目的化してしまうような同調教育は、豆盆栽のような人間を増やしていく効果しかありません。

ものごとへの処し方が、まず「協調性」からという習性ができあがると、無意味なことでもとにかく一緒になって騒ぎ立てたり、皆が黙れば決して口を開かなくなったり、一段上の環境からすれば非協調に見える状態をそろって作っているという、喜劇を演じることになってしまいます。

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おすすめしません:26 べたべた親善

2018年01月08日 | つぶやきの壺焼

手の色も見極めず、握手したがるのは危険です。
手袋は白くても、手の内は赤か黒か、眼を見ればわかります。

めくらめっぽうの、べたべた親善は、いまの地球上では危険です。
とりあえずの友好関係には、10年後の共栄の保証はありません。

よく見かける一の字が二つ並んだ表現が意味することがらには、合わせて一でなく、向こうが一でこちらはゼロというのもありますから。

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おすすめしません:25 見上げてばかり

2018年01月07日 | つぶやきの壺焼

「見上げてごらん」で始まるあの名曲の題名は「見上げてごらん夜の星を」です。
見上げてよいことのあるのは、大自然と、大自然の一部となったかのように動かない人工物だけでしょう。

外交で見上げる姿勢を見せれば、相手からは必ず見下されます。
外交の相手と一緒に見上げるものなどは存在しませんから。

平身低頭は、同じ民族の間で謙譲の美徳が通じる相手に限って有効な態度です。
正々堂々でさえ負けを招くと言う人もいます。

外交目線の tanαはゼロを目指しましょう。

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おすすめしません:24 紳士気取りの外交

2018年01月06日 | つぶやきの壺焼

「紳士協定」というエリア・カザンの古い映画があります。

紳士協定は、公式の手続きや文書によらず、互いに相手が約束を履行することを信用して結ぶ取り決めです。

約束は守られるものという通念が、地球上のどこにでも同じ厚さで広がっていると思っていられる人々は幸せです。
ところが、地球上には、約束はごく自然に守られるものという思いが、全く通じないところもあります。
そこの人々は、約束を結んだ後に目の前に現れた状況への当面の利不利の判断が、約束を守ることよりも優先します。
約束したことが間違いだったと思えば、なにも不自由はありません。
そのほうが自然であると思っている人々に、約束を守ってくださいなどと呼びかけても、相手には決して通じません。

約束を守りましょうという呼びかけが、紳士の振る舞いとして共感を呼び、やがて地球上から約束を違えることが消えてなくなっていくだろうと願う人々もいます。
けれども、その一途の思いは、それを思うことが幸せという自分への慰め以外には何ももたらしません。

未開とは言えない国々で、2千年もかけて普遍の原理のようになってしまっていることは、ほかの国からの力で変えてあげようなどと考えても、期待できる効果などありえません。

外交での紳士気取りは、それにあたる人の気分がよいだけのことです。
国にとっても、大多数の国民にとっても、何もよいことはありません。

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おすすめしません:23 権利の濫認

2018年01月05日 | つぶやきの壺焼

アメリカ人とは、自分がアメリカ人だと思っている人である、という話を聞きました。
それならば、アメリカとは、永住する人がアメリカ人である国とも言えそうです。

不思議なことに、日本とは、自分が日本人だと思っていない人も、日本人と認められる国です。
日本には、日本人であることを放棄したような国会議員や学校の教師もいます。

権利濫用どころか、こんなふうに権利濫認を許している制度のおおらかさは、日本にとっても、自分は日本人だと思っている日本人にとっても、危険な平和であると言えるでしょう。

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おすすめしません:22 無条件の上下関係

2018年01月04日 | つぶやきの壺焼

力が同じなら一年生、今年の箱根で往路全区トップを勝ちとった東洋大酒井俊幸監督の選手の決め方に、組織力を衰えさせない、若い力の伸ばし方の要諦を見ました。

上からの命令となればとにかくそれに従う、是非も賛否も言いっこなし、そんな空気の束の上に権威の玉を乗せたような組織は決して長持ちしません。
統率に必要な上下関係が、個の利権拡大や権勢誇示に利用されることは、どこにでも見られます。
それが利用の意思さえもなく、無条件の戒律として当然のことがらのように成り立ってしまったとき、その組織の未来には崩壊に向かう図式しかなくなります。

内に伸びる力の出どころがなければ、侵略や覇権のかたちで外に手を広げるしか辿る道はなくなるでしょう。
上下関係のあり方を間違え内部弾性を失った、できそこないのヒエラルキーが外に示せるのは、虚勢行動でしかありません。

体育会系顧問の先生方にも、どうぞご自分達の頭を鍛えなおす運動をと言いたいところです。

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おすすめしません:21 買っておくこと

2018年01月03日 | つぶやきの壺焼

まだそんなものを使っているのかと思われそうですが、あちらこちらで手元の照明用に、直管の蛍光灯がまだまだ役立っています。

思いがけないところから管球2本が出てきました。
別の棚の上にも、そのあとから買っておいた4本が載せてあります。

こういうものの保管位置は、ここがよさそうと、同じ考えを何年も持ち続けられないので、そのつど決めることになります。
買い置きしたものが自然に溜まります。

今すぐに使わないものを、買ってため込むほど低コスパのことはありません。
演習と称してときどきいろいろなものが消費されるのも、使わずに捨てるに忍びないからでしょう。

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おすすめしません:20 片づけ過ぎ

2018年01月02日 | つぶやきの壺焼

初荷の古い画像がないかと思って探したら、これがありました。

現代の画像は、初荷で探すとほとんどが大型トラック、せいぜい古いものでもオート三輪です。
そのうちに、初荷という言葉にも解説がいるようになるのでしょう。

今では元日からあちこちの店が開いていますが、商売仕事は元日にするものではないという時代もありました。
正月2日が初荷の日、売る人は新しい商品を仕入れる日でした。

新しい商品が入ってくれば場所をふさぎます。
お店の人は置き場の工夫に頭を悩ますでしょう。

何日か前、久しぶりに訪れた店の様変わりにオヤと思いまいた。
多少雑に置かれていた品々が、きっちり片付いているのです。
みな整然と並べられたその空間から醸し出されるのは、「倉庫」に近い空気でした。
整理整頓が「お店」らしさを消してしまっているのです。
これでは覗いたお客もすぐ引き揚げそう、思ったのはそんなことでした。

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