「いつでも」というもくろみは、実行されないことがあります。
「いつまでに」というもくろみは、期限を守ることが優先されます。
N町で行われる法案審議も、「いつまでに」に縛られれば、審議の内容は淡く薄めになっていきます。
時は、積み重なっていきますが、時計は、人びとの考えや記憶を淡いものにしていく道具にもなるようです。
「いつでも」というもくろみは、実行されないことがあります。
「いつまでに」というもくろみは、期限を守ることが優先されます。
N町で行われる法案審議も、「いつまでに」に縛られれば、審議の内容は淡く薄めになっていきます。
時は、積み重なっていきますが、時計は、人びとの考えや記憶を淡いものにしていく道具にもなるようです。
無人走行の自動車に、座席、窓、ハンドルがあるのは、運転ということへの人間の未練が残っているようで、奇妙に感じます。
A I 戦争時代に、音速を超えたとか、音速の何倍とか、移動能力を課題にするのも、操縦ということへの人間の未練が残っているようで、これも奇妙に感じます。
実用上無意味なことに、知恵を絞り、力をつくすのはなぜなのでしょう。
自動車の場合は、座る人がいなくなる座席のシートのすわり心地、覗く人がいなくなる窓ガラスのまぶしさ軽減、握る人がいなくなるハンドルの手触りに、心をつくし作り続けたい人がいることはわかります。
では、人を驚かすことしかできない超音速飛行には、それを極めたい何があるのでしょうか。
論語の為政第二篇に、七十而従心所欲不踰矩ということばがあります。
七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えずというのですから、五十そこそこでは、心の欲するままにのりをこえたい元気な人もいらっしゃるようです。
スマホで漫画を見ながら高速道路を走る、そういう元気の出し過ぎは、ブレーキのかかるところまで届いていない何かがあるからでしょう。
スマホが悪いのでも、漫画が悪いのでも、スマホで漫画が悪いのでもありません。
時と場合を気にしなくなっているのがいけないのです。
それをなぜ忘れるのか、ことによると、頭のねじに長さの足りないものがあるのかもしれません。
ものごとを説き明かし理解させる、これはマスメディアのはたらきの基本です。
しかし、ものごとには理解などと事を構える必要のないこともあります。
論議の必要のないこと、話を持ち出せば慮外者と責められてよいこともあります。
たとえば、女系天皇という、何やら怪しげな話もその一つです。
千年を超える皇統は、国の在り方の根幹なので、わざわざ理屈をつける必要のないことがらです。
あるがままに受け入れればよいことに、わざわざ曲げた解釈をし、いじりまわして楽しむのは、外国人の珍奇趣味にのみ許されることです。
もしそれをしたければ、どこか外国に帰化してもらうほか、許される道はないでしょう。
「どや顔」は、やり遂げたという顔です。
誰かが何かをやり遂げた場面でなければそれは見られません。
やり遂げる見込みも心算もないのにどや顔は見せられません。
どやに届かないそんなとき、「ような顔」をするしかありません。
「ような顔」というのは、意志だけはありそうな顔です。
その「ような顔」が友を呼び、これが集まる場所があります。
N町というところに、大きな集会場があります。
そこは、「ような顔」がよく映る、見掛け意志の載積場になっています。
XX学と呼ばれていても、学問である必要のないものにときどき出会います。
憲法学もその一つです。
憲法は、それを定めた国の、自国民との約束ごとです。
約束に学問は必要がないので、約束学という学問はありません。
約束ごとは、それが交わされた経緯とその内容がわかればよいので、学問の対象にする必要がないのです。
約束には、永遠に守るものと、期限付きのものがあります。
文章に記されたものもあれば、書かれてない約束もあります。
下手な文章の場合には、解釈が必要なこともあります。
国の約束ごとの解釈は、政治の課題で、学問の対象ではありません。
一週間ほど前に憲法記念日という何を記念するのかわからない日を送ったのを思い出し、憲法は学問の永遠の対象にするものではないと思い返したところです。
竿竹屋の放送で、「20年前のお値段です」という決まり文句が、ごくたまにしか聞かれなくなりました。
何となく続けられていたあの放送が、今では意味の通じないものになっていることに、気付かない人がほとんどいなくなったからでしょう。
世の中の生活の場では、意味のないことはだんだん消えてゆきます。
ところが、国が行っていることには、意味がないのにずっと続いていて、わかっていても止めようと手をつける人がいないという、おかしなこともあります。
驚きの実例があります。
大東亜戦争が終わって取り上げられたサハリンには、当時のソ連の力に抑えられて帰れなかった朝鮮半島の人が、何代もあとまで住みついています。
その人たちに、半世紀を過ぎたいままで、母国に行き来する費用として、日本の国からまだ年間億の単位のカネが支給さてているというのです。
継続は力だけではなく、愚にもなるようです。
骨董は、偽物は見分けられても、本物の確証を示すことは難しいといわれます。
書画骨董とひとくくりに呼ばれることもありますから、絵画もそうなのでしょう。
フェルメールの絵に上塗りをしたひどい人もいます。
その人は、絵具の剥げ落ちたところを直すどころか、絵の構成まで変え、違う絵にしてしまいました。
小さな平面に描かれた絵画のようなものは、どこかに手を加えれば、そのことが履歴に加わり、決して元には戻りません。
ひどい目にあったその絵は、上塗りを落として修復されたと報じられていますが、元の絵らしいものになっただけで戻ってはいないのです。
そんなとんでもないことを、なぜしてしまうのでしょうか、真贋の世界には、魔物が潜んでいるようです。
先憂後楽という北宋の政治家范仲淹のことばがあります。
為政者は、常に民に先立って国のことを心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむよう心得よということです。
いま日本では、為政者らしい人の数は激減し、政治家風であるだけの勤め人が増えてしまいました。
勤め人は、勤めることによって生活を支えます。
政治家風の勤め人は、歳費と呼ばれる活動資金を生活の支えにし、それをできるだけ長く貰い続けられるよう、議席の名札がなくならないよう勤めに励みます。
なかには、歳費は国から支給されるのに、支給元の国を壊そうとする変な勤め人もいます。
常に労に先立って席のことを心配し、席の安定を確かめた後に自分が楽しめるように勤めるという、なんとも前後不確な活動信条をお持ちの方が多いようにみえます。
令和に入って六日目に
ろくでもない記事 気にかかる
悪評高いあの局の
卒業爺さん 招かれて
自慢話を 偉そうに
それが全文記事になり
見出し言葉が またひどい
それが 昨日のランキング
一位とあっては なさけない
令和に入って四日経ち
許せぬことがまたひとつ
他人が困るそのさまを
見て楽しもうとする奴が
命を奪ってその挙句
殺すつもりはなかったと
未成年なら許される
いたずらだからいいだろう
そうはいかぬぞ この餓鬼に
一生かけて償いを
せねばならぬと教え込め
令和に入って三日目に
気になることが一つある
踊りを見るのは 楽しいと
にこにこ見ているそのうちに
こんな楽しいことをする
その人たちに 悪者が
いるはずはないと思いこむ
観光ならばいらっしゃい
文化交流万々歳
町の通りの一角に
居を構えればそのうちに
町全体が外国に
島全体が外国に
令和に入って二日目に
気になることが一つある
近ごろの世の人々は
見せたい気持が先に立ち
むやみに動いて見せたがる
踊って見せて 跳ねて見せ
見てよ 見て 見て さあ見てと
自慢の果てに命さえ
落としてまでも 見せたいか