南無煩悩大菩薩

今日是好日也

いにしえのひと。

2007-03-30 | 有屋無屋の遍路。


小野小町は 古(いにしえ)の衣通姫(そとほりひめ)の流れなり。

あわれなるようにして 強からず。

いわば よき女の 悩めるところ あるに似たり。

-古今和歌集、仮名序-




歳を重ねるにつれ、いにしえにあこがれる。

だんだんと。

「あわれなるようにして、強からず」の感性を想うことが、いにしえの女性美への想像を膨らませてくれる。



倒立も前立もならず、肥溜めに落ちた、3年越の草鞋のような私が。

美人のことをあれこれいえた義理でもないが。

「いわばよき女の悩めるところあるに似たり」

なんて文章を見ると、男心がざわめく。



いにしえの衣通姫という人は、小野小町以前までの美人の代名詞だったようで、以後は、古の小野小町の流れなり。といえばよき女性の形容となるのだろう。


少なくとも、現代よりもずっと、古の美的感覚が残っていたであろう江戸・明治期までは、そこいらじゅうにいにしえびとの持つ美しさ、それを見出す感覚が存在していたのではあるまいか。

どうもそれは、「もののあわれ」という感性に結びついたものだったようにも思える。

連綿と受け継がれていたもの。
言葉では表せない、美しさに対する情緒的な、確固とした審美眼があったのではなかろうか。




現代に、いにしえの美しさを感ずることは、可能だろうか?

私らにその感性は残っているだろうか。


感性がなくなれば、そのひとも消えてなくなるに違いない。


いにしえのひと。

コメント
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