小野小町は 古(いにしえ)の衣通姫(そとほりひめ)の流れなり。
あわれなるようにして 強からず。
いわば よき女の 悩めるところ あるに似たり。
-古今和歌集、仮名序-
歳を重ねるにつれ、いにしえにあこがれる。
だんだんと。
「あわれなるようにして、強からず」の感性を想うことが、いにしえの女性美への想像を膨らませてくれる。
倒立も前立もならず、肥溜めに落ちた、3年越の草鞋のような私が。
美人のことをあれこれいえた義理でもないが。
「いわばよき女の悩めるところあるに似たり」
なんて文章を見ると、男心がざわめく。
いにしえの衣通姫という人は、小野小町以前までの美人の代名詞だったようで、以後は、古の小野小町の流れなり。といえばよき女性の形容となるのだろう。
少なくとも、現代よりもずっと、古の美的感覚が残っていたであろう江戸・明治期までは、そこいらじゅうにいにしえびとの持つ美しさ、それを見出す感覚が存在していたのではあるまいか。
どうもそれは、「もののあわれ」という感性に結びついたものだったようにも思える。
連綿と受け継がれていたもの。
言葉では表せない、美しさに対する情緒的な、確固とした審美眼があったのではなかろうか。
現代に、いにしえの美しさを感ずることは、可能だろうか?
私らにその感性は残っているだろうか。
感性がなくなれば、そのひとも消えてなくなるに違いない。
いにしえのひと。