手も足も出ぬが希望を持つ時がある。
手を切ったほうがよいことや、足が出てまずいこともある。
面壁9年の修行を達磨さんはおこなったと聞くが、石の上にも3年程度で人は丸くなったりもする。
達磨大師に弟子入りする為に、自分の手を切って、参禅したというつわものもいる。
手八丁口八丁八面六臂千手観音の如き、希望も大事だが、手はなく足もなきとき、それでもなくさない希望は所謂尊きものであろう。
本当はそんなことを望んでいるのではない。と感じることこそ尊き面目ではあるまいか。
希釈水や希塩酸などと使われるときの、「希」とは薄められるということである。「まれ」ともいわれるその望が尊いのである。
薄い望み、希な望を見出す為に、静かに座ってみよう。
本当の我が面目は、すぐには、なかなか見つからないことに気付く。
所謂、希望なのである。
何を望むや。