健康そうに見えたり、笑ったり、怒ったり、不健康そうに見えたり、馬鹿だったり、人間が軽かったり、賢そうに見えたり、あきらめたり、意欲が沸いたり、同性の体を理解したりするのに学習はいらない。
しかし、着物の着方や、文字の書き方や、パソコンの使い方や、上手な化粧の方法や、美味い酒の呑み方や、賢く振舞ったり、効果的に仕事を進めたり、異性の体を理解したりするには学習が必要だ。
私たちは通常、学習しないでもできることと、学習しなければできないことをごちゃ混ぜにしている可能性がある。
学習による対処をして上手くいかなければ、そのインセンティブは消失し違うやり方を又学習するが、学習のない表出は、上手く行こうが行くまいが、問題を残したまま持続する傾向があるようだ。
つまり、いっこうに何かが改善しないと言うことは、その対処に問題があるというよりも、表出に任せて問題を解決しようとする対処姿勢にあるのではないか。
自分のそのまんまのところを変えられないつもりになっている危険性だ。
つもりを知り、学習の健全性を保つことで、学習のいらない表出も次なる学習への対処も一瞬にして、全く違ったものに改善した例を私はいくつか見てきたように思う。
それは、人が「変わった」のだ。
なにも、フェルマーの定理を解けといっているのではない。
むしろ解けているから、つもりなのだ。
学習が必要なことをするには学習が必要だということを理解するだけでいいのである。
学習によらなくても対応できるつもりの自分の横着さを笑う勇気だ。
内なるつもりに、一歩踏み込んでみればきっと誰でも気付くだろう。
人間には、誰にでもそういう学習能力が備わっている。
だから、やればできるのである。