南無煩悩大菩薩

今日是好日也

残すこと。

2009-11-11 | 有屋無屋の遍路。

あかい実がよっつ残っている。


そういえば、赤といえばこの色をその昔象徴色としていた主義主張の国家や陣営があった。

今でも大国が残っているが、その主義の実はそれほど残っていないようにも受け取れる。


原始的なその主義の理想は、

「おのおのが能力に応じて提供し、必要に応じて受け取る」

というもので、最も素晴らしいことのようにも思えた。

しかし、共に産み出す為のその試みは、画餅に終わった。

つぐみ達は、赤い実を全部食べてしまった。


残すことは愛と結びつかないだろうか。

未来も含め、他者の欲求を、自分や愛する人と同じように思いやり、余剰を造り、残す。


そういえば、親父はいつも、寄り合いでもらった弁当に箸もつけずいつも持ち帰って子供への土産とした。

それは、ご馳走に餓えた僕らの一番の楽しみだった。


僕は、何か残せているだろうか。

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ヴィジブルインビジブル。

2009-11-10 | 有屋無屋の遍路。

いつもは気に留めなかった木々が、

色づき始めると、鮮鋭に目に留まる。

ずっとそばにいたにも拘らず、まるで見えていなかったような気持でそれは、可視化される。

不可視なこととは、ないのではなく、見えていないことだ。



何か問題が起きて、

それを解決する人は、尊敬され名声を得る。

しかし、その問題を未然に防いだ人にスポットは当たらない。

問題は起こらないから見えないのだ。

解決するよりも防ぐほうがコストも時間も様々に心も救われ、貢献は高いにも関わらず。


そもそも、よく問題を起こす人とは、見えるかっこいい解決の夢に目が眩んで、見えない地道な予防をながしろにする傾向がある。

勝手に問題を作ってその解決に忙殺される忙しい人は目立つが、じっくりと不屈の闘志で発生の予防に取り組む人々の功績は見えない。


平穏とは、そんな見えない活動に支えられている。



そんなインビジブルな美しさを、紅葉と共に静かに思ってみたい。

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たぶん小菊。

2009-11-09 | 酔唄抄。

私は酔っ払いの馬鹿である。


しかし誰もわかっていない。


もしも酔っ払うことができなかったら、私はもっと馬鹿なのだ。





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桜花菊花の志。

2009-11-07 | 有屋無屋の遍路。

おまん。知っちゅうかよ。

日本を洗濯しちゃるがよ。

太平洋は広いがぜ。こんまいこと言いよったらいかん。


無頓着でありながら、繊細。

武張っていながら、チャーミング。

泣き虫ながら、反骨。

縁に恵まれ、運を尽く。


回天の時を走った、稀代のペースメーカー、坂本の龍馬。

予選での輝かしい活躍に期待は高まるも、残念ながら、新時代のレースには出走できなかった、悲運の名馬であったか。

もう少し、走る姿を見たかった。


競走馬においては、負けが込むまでに引退させないと、種馬としての価値が落ちるという。

おまん。ほんとうはどうやったがぜよ。

けんど、おまんばぁ、今でも大勢に惜しまれる人もめったにおらん。


「男のロマン」というイコンにおいて、がきんちょでも感じた、このオーラははっきりとした憧れであった。


ええかよ。結果は周りが決めるきに。

おまんは、前を見いや。

走りたい処を走れるばぁ走ったらどうぜよ。

生きちょったら、どこぞでみんな死なぁよ。

どうなっても、なんちゃのことないき。


どんな時でも、自助自噴のアドバイスをくれそうな偶像を残してくれた。
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対処と表出のつもり。

2009-11-06 | 有屋無屋の遍路。

健康そうに見えたり、笑ったり、怒ったり、不健康そうに見えたり、馬鹿だったり、人間が軽かったり、賢そうに見えたり、あきらめたり、意欲が沸いたり、同性の体を理解したりするのに学習はいらない。

しかし、着物の着方や、文字の書き方や、パソコンの使い方や、上手な化粧の方法や、美味い酒の呑み方や、賢く振舞ったり、効果的に仕事を進めたり、異性の体を理解したりするには学習が必要だ。

私たちは通常、学習しないでもできることと、学習しなければできないことをごちゃ混ぜにしている可能性がある。


学習による対処をして上手くいかなければ、そのインセンティブは消失し違うやり方を又学習するが、学習のない表出は、上手く行こうが行くまいが、問題を残したまま持続する傾向があるようだ。

つまり、いっこうに何かが改善しないと言うことは、その対処に問題があるというよりも、表出に任せて問題を解決しようとする対処姿勢にあるのではないか。

自分のそのまんまのところを変えられないつもりになっている危険性だ。

つもりを知り、学習の健全性を保つことで、学習のいらない表出も次なる学習への対処も一瞬にして、全く違ったものに改善した例を私はいくつか見てきたように思う。

それは、人が「変わった」のだ。


なにも、フェルマーの定理を解けといっているのではない。

むしろ解けているから、つもりなのだ。

学習が必要なことをするには学習が必要だということを理解するだけでいいのである。

学習によらなくても対応できるつもりの自分の横着さを笑う勇気だ。

内なるつもりに、一歩踏み込んでみればきっと誰でも気付くだろう。

人間には、誰にでもそういう学習能力が備わっている。

だから、やればできるのである。
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いい関係。

2009-11-05 | 有屋無屋の遍路。

双子地蔵が笑っている。


通常、哀怒の表情をしている地蔵は見かけない。

人は困苦は共に分かち合えても、楽福を共に分かち合うのは難しい生き物だという。

笑っている。とはそういうことだろう。

やがて、双子は成長しそれぞれの道を歩む。

大人の双子地蔵を私は見たことがない。


酒飲みは二人連れ添うと、両方がべろんべろんになることはほとんどない。

どちらかが先に酔っぱらうと、片方は、どうしても酔えない。

カップルとしてのバランスが本能的にとられる。



お喋りな人と、お喋りの苦手な人がいい関係になると、双方は努力によって歩み寄る。

片方は喋りすぎないことに、片方はなるべく喋るように、努力する。

相対的な努力が、人に思いやりと成長を持たらす。


そんなこんなのいい関係を創れる人たちは、小さな幸せをたくさん持つことになる。


双子地蔵は、笑っている。

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邂逅。

2009-11-04 | つれづれの風景。

隣のトトロかとおもえば、木彫りのタヌキであった。

「いつでも誰かがきっとそばにいる。」と謳ったのは平成ぽんぽこであった。

木目年輪を上手く生かしている。

金玉袋のシワの感じもよろしい。実際は縦じまだが。

菅笠の重みがよく現された耳の部分など細部もなかなか。

古くからのみやげ物やのショーウィンドウにあったが、売り物ではないという。

代々そこに突っ立ってきた、トトロのようなタヌキ。

おぬし。名はなんと申す。と聞けども答えることもない。

「思い出しておくれ、素敵なその名を。」
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十分条件。

2009-11-02 | なんとなく落書。

その腹に 何が不足ぞ なく蛙。
-詠み人知らず-


雷の音が聞こえたときには、もう鳴り終わっているように、現実について思うときにはもうその現実は、終わってしまっている。

不足を思うのは、お腹が現実で満たされていないと思う過食性の疑いもある。

自分の腹に手を当ててみる。

ありゃまぁかしこ、これで十分ではないか。
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