New アート考察 絵画と写真の狭間 その1
2022-4-29
ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策
<写真が19世紀に発明され普及し始めた頃と時を同じくして、絵画は印象派をひとつの起点として、それまでの伝統的な表現から大きな変革を繰り返し、そのモチベーションには写真の存在が少なからずありました。他方写真は19世紀半ばの誕生の頃より、美術作品として、記録的な目的ではない絵画的な表現が模索され、その意識はその後も現代に至るまで綿々と続いています。現代の作家、柴田敏雄と鈴木理策の写真作品には、人間がものを見て表現するという、近代絵画に共通する造形思考が感じられます。このたびのジャム・セッションは、両作家がその活動の初期より関心を寄せ続けていたセザンヌの作品を起点に、現代の写真作品と絵画の関係を問う試みです。>
この写真展のまえふりには異論はありません。その通りの写真展だったと思います。
鈴木理策(スズキリサク)
東京綜合写真専門学校研究科卒
東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授
彼の言葉<僕が「こう見た」ということより、世界が「こうあった」というのを撮りたい>
彼の作風をロードムービー(旅の途中で起こる様々な出来事が、映画の物語となっている)のような撮り方という人もいる。
一方、後で登場する柴田敏雄(シバタトシオ)氏は東京芸術大学大学院油画卒ということで、画家がルーツの写真家です。彼はドカッと大型カメラをすえて緻密に画面を構成する。明らかに画家のバックグラウンドのうえに乗っている。後程、お二人の方向を当方なりにセザンヌの作品を起点に考察してみましょう。
鈴木理策は色々なシリーズの写真をとっていますが、当方ともろにかぶるのは彼の<水鏡>シリーズです。当方はどの写真家さんも殆ど知らないし、写真展にもほとんど足を運びません。今回は自分の写真に行き詰まって、ほとんど初めて真面目に写真家の展示会に足を運ぶことになったのです。 当方は以前から水鏡や波の表現を追いかけてきました。後程、当方の水鏡や波の表現の写真のごく一部を載せます。同じような方向の写真家がいるものだなと思うだけで、特に驚きを持って彼の作品を見たわけではないのですが、せっかくの機会ですから後程、深堀して考察してみましょう。
彼らの写真の間にポツンポツンと絵画が展示されていました。
ポール・セザンヌ
ピエール・ボナール
ピエール・ボナール
クロード・モネ
クロード・モネ
このあたりの絵画はこの展示会のルーツですから当然の展示です。クロード・モネは日本人に大人気で、こういう大人気の絵を当方は嫌うはずですが、クロード・モネは例外でとても共感しています。彼ほど水面と格闘した画家はいないのではないかと思うからです。悠々と描いているとお思いでしょうが、思い通りに描けなくて、多くの作品を捨ててしまったというエピソードがあるくらい本当はものすごい葛藤の中で描いていたのです。彼が何を考えていたか、なにを苦しんでいたか手に取るようにわかるのです。
ピエール・ボナールは最近になってとても惹かれる画家です。
さて、以下に当方のこれまでの写真をひろって載せます。ただ、鈴木理策氏の方向とよく似ていることを示したかったからです。
伊藤若冲の考え方は <あらゆるものに神は宿る! 私は祈りながらそれをありがたく写し取らせていただくだけです。> 写真を含め、当方の物つくりの基本的はこの考え方です。鈴木理策氏の言とある意味同じかもしれません。 当方は最近この基本の考え方を忘れかけているのかもしれません。それが行き詰まりの大元なのでしょう。
以下、ごく最近の撮影
続きは柴田敏雄作品の紹介から、また明日(多分)。
2022-4-29
ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策
<写真が19世紀に発明され普及し始めた頃と時を同じくして、絵画は印象派をひとつの起点として、それまでの伝統的な表現から大きな変革を繰り返し、そのモチベーションには写真の存在が少なからずありました。他方写真は19世紀半ばの誕生の頃より、美術作品として、記録的な目的ではない絵画的な表現が模索され、その意識はその後も現代に至るまで綿々と続いています。現代の作家、柴田敏雄と鈴木理策の写真作品には、人間がものを見て表現するという、近代絵画に共通する造形思考が感じられます。このたびのジャム・セッションは、両作家がその活動の初期より関心を寄せ続けていたセザンヌの作品を起点に、現代の写真作品と絵画の関係を問う試みです。>
この写真展のまえふりには異論はありません。その通りの写真展だったと思います。
鈴木理策(スズキリサク)
東京綜合写真専門学校研究科卒
東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授
彼の言葉<僕が「こう見た」ということより、世界が「こうあった」というのを撮りたい>
彼の作風をロードムービー(旅の途中で起こる様々な出来事が、映画の物語となっている)のような撮り方という人もいる。
一方、後で登場する柴田敏雄(シバタトシオ)氏は東京芸術大学大学院油画卒ということで、画家がルーツの写真家です。彼はドカッと大型カメラをすえて緻密に画面を構成する。明らかに画家のバックグラウンドのうえに乗っている。後程、お二人の方向を当方なりにセザンヌの作品を起点に考察してみましょう。
鈴木理策は色々なシリーズの写真をとっていますが、当方ともろにかぶるのは彼の<水鏡>シリーズです。当方はどの写真家さんも殆ど知らないし、写真展にもほとんど足を運びません。今回は自分の写真に行き詰まって、ほとんど初めて真面目に写真家の展示会に足を運ぶことになったのです。 当方は以前から水鏡や波の表現を追いかけてきました。後程、当方の水鏡や波の表現の写真のごく一部を載せます。同じような方向の写真家がいるものだなと思うだけで、特に驚きを持って彼の作品を見たわけではないのですが、せっかくの機会ですから後程、深堀して考察してみましょう。
彼らの写真の間にポツンポツンと絵画が展示されていました。
ポール・セザンヌ
ピエール・ボナール
ピエール・ボナール
クロード・モネ
クロード・モネ
このあたりの絵画はこの展示会のルーツですから当然の展示です。クロード・モネは日本人に大人気で、こういう大人気の絵を当方は嫌うはずですが、クロード・モネは例外でとても共感しています。彼ほど水面と格闘した画家はいないのではないかと思うからです。悠々と描いているとお思いでしょうが、思い通りに描けなくて、多くの作品を捨ててしまったというエピソードがあるくらい本当はものすごい葛藤の中で描いていたのです。彼が何を考えていたか、なにを苦しんでいたか手に取るようにわかるのです。
ピエール・ボナールは最近になってとても惹かれる画家です。
さて、以下に当方のこれまでの写真をひろって載せます。ただ、鈴木理策氏の方向とよく似ていることを示したかったからです。
伊藤若冲の考え方は <あらゆるものに神は宿る! 私は祈りながらそれをありがたく写し取らせていただくだけです。> 写真を含め、当方の物つくりの基本的はこの考え方です。鈴木理策氏の言とある意味同じかもしれません。 当方は最近この基本の考え方を忘れかけているのかもしれません。それが行き詰まりの大元なのでしょう。
以下、ごく最近の撮影
続きは柴田敏雄作品の紹介から、また明日(多分)。