熊野古道、世界遺産の旅 その7 (最終回)
ペンタックスK20D、ペンタックス15mm limited
日本最大の村、十津川村にかかる、最大のつり橋が本旅行の売り物の一つです。このツアーはなんとバス3台、130人の参加者なのです。こんなツアーは初めてです。つまり大変人気があるということです。20人以上いっぺんに乗ってはいけないというつり橋ですが、130人がどっとわたり始めると、尋常でない揺れが起きて、高所恐怖症の当方にはとても渡りきる気力がありません。特に意地をはっても意味ないので、さっさと撮影にまわります。
ペンタックスK20D、ペンタックス15mm limited
ペンタックスK20D、ペンタックス15mm limited
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
面白いですね、てっきり15mmが迫力がでると思っていましたが、100mmマクロの方が迫力が出ました。
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
川沿いや山肌のところどころに、集落があります。何で、こんなところに住むのだろうかと思うのですが、住んでいる人はよけいなおせわだと言うでしょう。谷を渡る野猿(一人乗り人力ロープウェイ)だけが、対岸の集落をつなぐ唯一の手段であったりするわけです。
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
熊野はヒノキです。林業が盛んでした。集落は、林業で生まれた集落でしょうか、熊野古道の宿場として生まれた集落でしょうか、平家の落人や戦国時代の落人が密かに隠れて大きくした集落でしょうか。とにかく、なんでこんな秘境に、こんな不便なところに集落が点々とあるのでしょう。 台風で大雨が降るとすぐ陸の孤島になる集落がいっぱいあるのです。4時間ほど、くねくね山道を高野山へ向かって走ります。食事の時間もなく、バス内で<めはりずし弁当>をたべます。さすがにこのくねくね道にはうんざりです。
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
そうこうしているうちに、高野山が近付いてきました。いまにも雨が降りそうな天気です。
<「高野山」とは、八葉(蓮の花)の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺をはじめ117か寺におよぶ。>とネットに説明があった。我々は高野山の壇上伽藍と共に二大聖地の一つである奥の院(世界遺産)にだけ参拝します。
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
高野山は専門のガイドさんが奥の院を案内してくれました。しゃべることしゃべること、 興味深い話ばかりでしたが、ほとんど忘れてしまいました。
ペンタックスK20D、ペンタックス15mm limited
色々な企業のお墓、偉い方のお墓、歴史上の大人物、皇室、公家、大名などのお墓、色々なお墓の説明を受けました。弘法大師の御廟と灯籠堂があります。
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
ペンタックスK20D、ペンタックス15mm limited
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
ペンタックスK5、ペンタックス100mm macro
ペンタックスK20D、ペンタックス15mm limited
この門の上に貼ってるのは、切り紙で、しめ縄の代わりだそうです。この地域では一年中しめ縄が飾ってある家がいっぱいあり、通常のスタイルだそうです。
うまく説明できませんが、とにかく高野山はすごいエネルギーを感じる、他に例をみない空間です。宗教都市というよりは宗教独立国家のようであります。もう一度ゆっくり行くべきところと思いました。
神社だ、お寺だいろいろ回って、頭はグチャグチャになっています。でも高野山はなにかすごく迫ってきます。お土産は、当然ゴマ豆腐。3年間連続モンドセレクション金賞受賞とかいてあります。世界が認めた味ということで、本当に美味しい。一緒に買ったゴマせんべいもおいしかった。
ペンタックスK20D、ペンタックス43mm limited
最後に大門(高野山全体の総門)を通って、大阪に向かって帰路につきました。新大阪までひた走り、ひかりに乗って東京に戻りました。
最後に紀伊半島、信仰の地をまとめてみましょう。ズバリ、ここが信仰の中心地となったのは、紀伊半島が朝鮮半島に似ているからと思います。京都や比叡山も含めて、渡来人は朝鮮の母国を似た風景を意識的に、あるいは無意識に探していたのです。朝鮮半島の南、海に面した山々の奥深く寺院が点在しています。韓国の宗教はアミニズム、日本でいえば神道と儒教が混合し、さらに仏教が入り込んできて、日本とよく似ています。しめ縄や鳥居も渡来人が持ち込んだのでしょう。そのルーツは当然中国雲南省・ビルマなどの奥地ということになります。三足カラスも中国を起源に、渡来人が持ち込んだのでしょう。すべて紀元前の宗教形態です。日本が国家として形を成してきたのは、紀元後のことですから、そのころの天皇は、天皇の起源をありがたいものとする為に、渡来人の母国の思い出を元に神話を作り、母国から持ち込んだと思わせないために、紀元前700年くらいまでさかのぼらせたのでしょう。この渡来人の潜在的DNAが神秘的秘境の高野山、熊野一帯に、聖地を形成していったのでしょう。浄土思想の元に、熊野地域の寺から海の彼方の浄土へ旅立った僧たちの行動は、きっと朝鮮でも似たようなことがあったのかもしれません。(海の彼方というと、なにか起源は南方系で、当方の御先祖がルーツのような気もするのですが?????)
ここでいう渡来人は現在の韓国人とは必ずしも同じでないかもしれません。朱蒙に出てくる百済・高句麗などの夫余・濊系民族は、現在の朝鮮人、満族、新羅系の人種とは違うのです。夫余系はむしろ日本に移動しているのです。そして日本で縄文系と弥生系(渡来人)の抗争と、渡来人の中での新羅系と百済系の抗争がいりみだれて続くのです。
ふと、当方は韓流ドラマに引きずられすぎているのではないか、韓国が意図的に、韓国が日本のルーツであることをドラマの中にすべり込ませているとしたら。そうかもしれない。直接ドラマでは朱蒙が日本のルーツとは一言も言っていないのですが、朱蒙が日本のルーツであるという説が元々あるわけで、朱蒙のファンを日本に作ることは、その説が日本に受け入れやすくするわけです。それに対して、日本はなにもしない。日本のルーツに関してなんの興味もしめさない。お笑いバカテレビをみて毎日をすごしている。バカテレビを見ない人は見る物もない。
韓国をクソミソに言う日本のコメントと日本をクソミソに言う韓国のコメントがネットで目立つばかりです。他人の喧嘩よりたちの悪い兄弟喧嘩みたいで、悲しいことです。日本も混合民族であり、韓国も混合民族です。そんな白黒はっきりした結論は出ないに違いありません。しかし、世界での日本の位置づけを理解し、これからの日本のありかたを考えるには、日本の歴史を出来るだけ理解しようとするのが当然でしょう。
ルーツの理解は重要ですが、その後の日本は確実に日本独特の文化を創り上げてきました。その過程とこれからの進展がさらに重要なのです。分断されているその流れをいかに日本の中心軸に戻すかが問いかけなのです。陶芸教室のイラン人の先生は、日本の方がずっとましだ、イランはもっとズタズタだといっていました。中東は政権がかわると、仏像がみんな爆破されたりする世界です。日本では京都も熊野も頑張っている。バラバラに存在している日本を、そのルーツからきちんと配列してみようではないでしょうか。そうすれば、その先が見えてきます。
話はぜんぜん変わりますが、ペンタックスK5とペンタックスK20Dの比較はどうなったのでしょうか。ペンタックスK20Dはすでに店頭から消えた商品ですが、2万円くらいで買える一眼レフとして中古市場でマニア向けに商品価値を持っているカメラです。当方の一眼レフの設定は焦点エリアを中心点一本として、露出検出エリアを中心点より少しばかり広くとります。露出を中心点一本にしますとさすがに全体像とずれが大きくなりすぎますが、なるべく狙った場所、中心点に焦点も露出もフォーカスするのです。 説明写真を撮っているのではないので、当然の結果です。このやりかたですと、ペンタックスK20Dはかなり暗めにとれることが多く、撮影後、ほとんど中間の明るさを補正して明るくしています。時間がある時は、カメラの露出設定をプラスにしたりマイナスにしたり動かしたりしますが、今回のようなツアーではいろいろ設定を動かしている時間がありません。ペンタックスK20Dが暗めにとれるということは有名な話ですが、当方にはそれが具合いいのです。暗めの画像を修正した画像はとても当方の好みに合う色になるのです。彫の深い濃厚な色です。ペンタックスK5は同じ設定でもちょうどいい感じの絵が撮れます。しかし、時々ポンと明るすぎる画面になることがわかりました。高野山の杉の木をみてください。全体が暗い杉林にはいると、それに合わせて露出がオーバーになりすぎるのです。露出オーバーになった画像の明るさを修正してブログにのせています(当然現場で修正して撮り直すべきなのですが)。ペンタックスK5の露出オーバーの修正は何とか使える絵になります。しかし、暗めの画僧から修正した絵のほうが圧倒的に好みです。そんなわけで、どんな時でもペンタックスK5はある程度の絵をつくりますが、全体としてはペンタックスK20Dの絵の方が当方の好みなのです。以前ブログに書いた、画質(画像の好み)、K20D>K5>K7、信頼性K5>K20D>K7という印象は今回の旅でも同じ印象を持ったということです。さすがに、連写や高速AFに関してメカ的にK20Dを推薦できませんが、自然の写真を撮ることが目的のほとんどならば、高いから一眼レフに手が出なくてもんもんとしている人は、思い切って中古K20Dを買ってください。K20Dはしっかりしています。古典的ペンタックス技術者入魂の一品と思っています。 エントリー機とは手ごたえが全く違うのです。当方は今でも、K5とK20Dを全く同等の信頼を持って扱っています。K20Dから初めて、コツコツと中古limited レンズを買い込んで、最後にK5なり、その次の商品なりを買うのです。高倍率ズームはタムロンの中古(新品はペンタックス用マウントがないものがけっこうあるので注意)から始めてもいいですが、それで満足することは無理でしょう。今度の旅はlimited レンズ一本でゆきましたが、問題となる画像はありませんでした。やはりK5といっしょに購入したペンタックス18-135mm高倍率ズームは無理です、問題が多すぎます、使えません。
朱蒙に出てくる三足烏の図はかなり模様化されています。熊野の八咫烏よりなにやら歴史を感じます。どこかにルーツがあって、色々な変遷を経てこの形になっていったにちがいないという意味です。熊野の八咫烏は、話が先にあって、あとから形ができた。いかにも三足の烏はこんなであろうと作った形に見えます(神社によってそれぞれ少しずつ形が違う)。
日本が八咫烏をサッカーに使っても、韓国人がとんでもなく怒り狂わないのは、このシンボルが今の韓国人のシンボルではなくて、高句麗・夫余・百済系の民族のシンボルだからかもしれません。新羅系と夫余・百済系は混血しているでしょうが、圧倒的に新羅系DNAですから。日本人のほうが夫余・百済系DNAの混じりが多いかもしれません。そういう意味では八咫烏を日本でシンボルとして使うことは自然なのかもしれません。朱蒙に刺激されて、同じような文をネットにかいている方いっぱいいます。朱蒙を見ていない方はだまされたと思って是非みてください。
日本のテレビに韓流ドラマが多すぎるという文句がありますが、韓流ドラマのほうが一生懸命作っているからしょうがない(決して全部まともというわけじゃないですよ)。文句があるなら、日本のドラマも一生懸命作ればいいのです。一生懸命やることをバカにして、だらだらいい加減に生きている人間の視聴率を中心に作っている日本のテレビでいいわけないでしょう。(<仁>はひさびさに面白かった、やればできるのですよ。)
そうそう、朱蒙は中国の韓国侵略行動を阻止することが目的で作られたという説がありますが、これは大いに納得できます。かれらは圧倒的に真剣です。
古代日本の建国の英雄のドラマをつくっても誰も見ないし、周囲の国からたたかれるだけだから、誰も作らない。当方が残された人生で脚本を作ってやろうかな。
今回の旅の戦利品はわずか、真珠のピアスと、那智黒でつくった八咫烏(相当変わった形。熊野那智大社への参道石段の途中の石細工屋さんでやっと見つけた)だけ。シンプルなこと。
ペンタックスK5 ペンタックス43mm limited
家内用お土産:真珠のピアス(1万円)
当方用お土産:那智黒石、八咫烏キーホルダー(名前彫込500円)
本題の、熊野古道について対して、これまでちっとも書いていませんでした。少し調べます(いろいろなブログから情報を頂戴していますので、ブログの作者さん、すみません使わせてください)。
京都からは片道320km, 15日間の旅とあります。往復一か月、人生を振り返るには、あるいは人生の再生を願うには丁度良い距離だったのかもしれません。
熊野古道らしい、コースは大雲鳥/熊野那智大社(那智勝浦町)から小口(熊野川町)/和歌山県 14.5km 7時間のコース 標高800m前後の尾根コースです。以下の説明がついていました。帰り道のような説明になっていますね。海岸周りで来て、本宮へ行くことを兼ねた帰り道として多く使われたのでしょうか。
<熊野三山詣でを終えた旅人は、背後に聳える那智・妙法の山を登り、雲の中を行くがごとき、大雲取・小雲取を越えて本宮へと戻ります。青岸渡寺の裏手から、那智高原を越え、その名の通り、熊野灘を一望できる「舟見峠」へと登った後、死者が赴くといわれる標高約 800~1000mの熊野の山塊を進みます。人跡稀な石倉峠、越前峠、胴切坂等の険しいルートの途中には旅籠跡・茶屋跡が点在し、今も旅人の心を和ませてくれます。熊野三山の神々が集まって談笑した場所といわれる「円座石」を過ぎれば、程なくでゴールの小口に到着。清流「赤木川」沿いに開けたこの集落は、大雲取と小雲取の中継点として賑わった所です。>
我々は、上図の左端のごく一部、大門坂のまた一部を歩いたにすぎません。大門坂熊野古道の途中から(下図600mの1/3も歩いていないでしょう)。バスで那智の滝へいって、さらにバスで神社前バス停に行き、熊野那智大社の参道石段を上がったのです。
熊野古道の全体図です。我々は伊勢神宮から熊野三山をお参りして、高野山へ向かったのです。
すごい図面がネットに出ていましたので、ご参考までに。王子とは参詣途上で儀礼を行う場所とされています。主たる儀礼は奉幣と経供養(般若心経などを読経する)であり、正に、神仏混淆的です。単に物品の補給をおこなった場所とは考えられていません。中世熊野詣において先達をつとめた熊野の修験者によりまず形成され、それが発展して、参詣者の庇護の祈りの場になったようです。これで、秘境の集落の由来の一部がすこしわかった気がします。
<大雲鳥/熊野那智大社(那智勝浦町)から小口(熊野川町)コース>というのは右下の熊野三山から中央下の熊野本宮大社へのコースにあたります。熊野古道はいろいろあって、いやいや面白そうですね。今度は本格的に挑戦してみましょう。