小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

自然教育園日記 その242  Fujifilm GFX100S + GF120mm macroの力

2022-08-28 18:50:35 | 写真日記
自然教育園日記 その242  Fujifilm GFX100S + GF120mm macroの力

2022-8-18
Fujifilm GFX100S + GF120mm macro 最近はこの組み合わせ一本でブラブラ散歩。なんてことない情景を臨場感を持って見せてくれるのはこの組み合わせの力と思う。


ハクウンボク


大画面にすれば迫力ある絵なのですが




ヒョウタン池


ミソハギとカマキリ






水生植物園


タカトウダイの蜘蛛の子




クサギとアゲハチョウ






これが上の元絵。

これだけトリミング拡大しても臨場感が薄れない。
Fujifilm GFX100Sは切り出して絵を作るというやり方が当然のことになってきました。 GF120mm macroもしっかりと対応しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Newアート考察 陶芸家といわれたくない陶作品を作る人達 その2 清水九兵衛/清水六兵衛

2022-08-21 20:47:03 | 写真日記
Newアート考察 陶芸家といわれたくない陶作品を作る人達 その2
清水九兵衛/清水六兵衛

2022-8-20
清水九兵衛/清水六兵衛この人の場合は複雑です。生誕100年記念の展示会が千葉市美術館で2022-4-13~7-3の間開かれていました。現在は京都国立近代美術館で開催されています。京都国立近代美術館での展示はぴったりの気がする。当方はくそ暑いなか千葉まで見に行きました(2022-7-1)。
金属立体彫刻と陶器のクロスオーバーしたポスター作品にさすがの美的センスを感じたからです。



当方は陶器・ガラスクロスオーバー作品を作って来ました。このポスター作品から大人と赤んぼの違いを感じたのです。

以下、当方の陶器・ガラスクロスオーバー作品3点


2019-7-5~19 個展クロスオーバー展(2019-8-3 ブログ)


2019-7-5~19 個展クロスオーバー展(2019-8-3 ブログ)


2020年

このあとコロナ禍でガラス工房に行けなくなって陶器・ガラスクロスオーバーは中断、陶絵画が中心となり現在に至っています。正直言うと、自分の作品の方が温かくて好きです。当然ですかね?

元々当方は彫刻作品に理解がついてゆきません。当方は色が主体なので、色を嫌う彫刻作品が理屈っぽくて冷たくて好きではありません。楽しくありません。 清水九兵衛/清水六兵衛の陶芸作品は切れ込みを使う点は参考になりますが、これまたあまり魅かれません。ハイブリッド作品の一部には反応しましたが。そんなわけで、ポスターから受けた印象に反して、実際の展示会は大きな影響を受けたとはいいがたい。ただし、この展示会は京都国立近代美術館にはぴったりで、京都で見たらまた違った感想になったかもしれません。千葉市美術館が素晴らしくないといっているわけではありません。この美術館は田中一村との出会いなど色々お世話になっている優れた美術館です。


さて清水九兵衛/清水六兵衛に話をもどします。名古屋高等工業学校建築家、東京美術学校附属工芸技術講習所および東京美術学校工芸家錬金部を卒業後、六代清水六兵衛の養嗣子(跡継ぎ)となり、陶芸作家として活躍する(1950~60第一期)がその後、陶芸と決別し清水九兵衛と名乗って金属彫刻家として活躍する(1960-1980第二期), 1980に父六代清水六兵衛が急死して、七代目清水六兵衛を継ぐ。1980-2006(第三期)は昼は金属彫刻家、清水九兵衛と夜は陶芸家七代目清水六兵衛の二重の作家活動を行いました。

彼はきちっとした設計図を引いて、mm単位(あるいはそれ以下)でピシッと立体を作ることが心底好きでした。設計図をいかに正確に引こうが、色も形もどうなるか焼いてみないと分からない陶器は嫌いであると自分で言っています。彼の息子さんは陶芸家ですが、彼も父は本当に設計図通りピタッと合わせることが好きで、これが彼の本質だと断言しています。金属と陶器のハイブリッドもそう続けることは出来なかったと思います、両者は簡単にピタッと合うわけはないのですから。
当方の陶器とガラスのハイブリッドはどれだけ苦労したか。全く膨張率が違うから何度も陶器を作り直さねばならないし、色も予想通り行かないから何度も焼きなおしているのです。

前半に主として陶芸作品(第一期および第三期の陶芸作品)および少々の第二期 彫刻作品(陶芸作品は何故か撮影禁止なので、カタログよりコピー、こちらは小さい絵で参考資料としています)、後半は主として第三期 彫刻作品およびハイブリッド作品を美術館で自分で撮影したものを載せます。


第一期1954


第一期1955


第一期1955


第一期1956


第一期1965


第一期と第二期の変わり目 1966


第二期1966


第二期1977


第三期1987


第三期1987


第三期1988


第三期1993


第三期1995


第三期1998


第三期1997


第三期1989


第三期1984




第三期1997
このハイブリッド作品は気に入ったらしく、色々な角度で写真を撮っています。


第三期1997


第三期 1997


第三期2000


第三期1994


第三期1994


第三期2006

この最晩年の作品はルート・ブリュックを思わせるブロック集合で作っています。


第三期2004


第三期2004

このように、最晩年ではブロック集合となり、セラミック、アルミ(?)と透明ガラスブロックとのハイブリッドというように、相性を考えながら、ハイブリッドを追っています。ブロック集合なら寸法のずれを修正しやすい。頭の中の基本として、当方もほぼ同じ方向をとっていると言えます。これらブロック集合に当方は反応しています。



さや堂ホール(旧川崎銀行千葉支店を保存し、ホールとして活用している。 1F)では清水九兵衛/清水六兵衛と現代彫刻家の作品が展示されていました。















最後に、清水九兵衛/清水六兵衛は七代目清水六兵衛となったわけですから自分では陶芸家と言われたくないとは口が裂けても言えないでしょうが、彼は陶芸家と言われても言われなくてもどっちでもいい。主軸は彫刻家だが、ただただ、少しでも陶芸に貢献できればと役割を果たそうとしたのだと思います。

参考文献
生誕100年清水九兵衛/六兵衛カタログ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然教育園日記 その241 次の3連写真をめざして

2022-08-17 15:40:24 | 写真日記
自然教育園日記 その241 次の3連写真をめざして
命にかかわる暑さが続いています。仕事が忙しい事もあり、さすがに自然教育園から足が遠のいています。
写真展の当方の3連写真は本日(2022-8-16)入れ替えの最後で、以下の3作目となりました。夏に春の花でピントがずれたかと思っていましたが、かえって昔を思い出すという意味で、新鮮かもしれないな??




3連写真は貼り付けが毎回ボコボコなり、とても苦戦しています。このデメリット(苦戦)とメリット(効果)のバランスはどちらに傾くか微妙なところです。デメリットを減らして、メリットを増す方向でしばらくは動くつもりです。ということで、ちょっとずつ素材集め
を続けています。

以下、機材は全てFujifilm GFX100S + GF120mm macro
2022-8-10
たまに自然教育園に来ると、緑がやたら新鮮に、魅力的に見える。この日の撮影は結果的に緑ばかりでした。細かい葉っぱの集合は高画素、中判カメラのメリットが出る対象であることは間違いありません。








ヤブミョウガ





2022-8-14
今日はやたらと虫を撮影。中判カメラでの動き物マクロ撮影は難しい。いずれの写真も小さな対象をガンガンにトリミング拡大した結果です。小さな動き物はそう簡単にAFでもMFでもピント合わせができません。なんとかピントが合っているものを載せているにすぎません。なんとかしなければ。







タカトウダイの花は当方にとってとっても魅力的で、<タカトウダイの森>とかいうタイトルでなんとか3連写真に適合させようと思っているのですが、集まってくる小さい虫どもの撮影はこれまた難しい。



















ハギの花にあつまる虫たちもまた一つの村を形成しています。












この花は何という名前でしたっけ? メハジキらしい。 虫の名前はさらにわからない??



2022-8-16

Fujifilm GFX100S +GF110mm 一部extension tubeを用いる。

今日はGF110mmで攻める。GF120mmとの違いが明白で、ボケの作る世界は、引いた絵は柔らかな印象、接近した絵は幻想的な印象が強調される。




キツネノカミソリ











久しぶりにオオコンボウヤセバチ・メスが現われました。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Newアート考察 陶芸家と言われたくない陶作品を作る人達 その1

2022-08-07 16:34:03 | 写真日記
Newアート考察 陶芸家と言われたくない陶作品を作る人達 その1




SNSを使う方は長い文章は読まないと思いますが、あんまりにも当方の陶器作成の遍歴と似ているので載せさせていただきます。
井上氏は美大時代も入れれば少なくとも50年の歴史で有名な方、当方は陶芸教室から始まって10年の歴史のど素人でくらべものにはなりませんが、本当にびっくりしたのです。
同じような考えの人がいるもんだなと。







上記の方法は彼は結局断念したようですが、軽く大きく作る為にはどうしたらいいか、当方も考え続けていることです。 
<描くように造る>
<木や金属の上に土のパーツをのせて形を決めて行く手法>
<パーツをボルトで組み上げた大型作品>
<破片同士を組み合わせた寄せ集め作品>
当方の作品のスケールは彼ほど壮大でもないし、<いまのところは>優れてもいないが方向は同じです。
今、部屋に転がっている当方の作品を3つ載せます。







さてここからは彼の作品
年代から言うと逆向きに載せていると思います。

















このような大型の作品はパーツを運び込んで、現場でボルトで組み立ていると美術館の方がいっていました。強く締めすぎれば壊れるし大変だったとのこと。
















これは破片集めの初期の作品でしょう。当方はこれよりさらに10年くらい初期のステージなのでしょう。

方向は同じでも狙っていることは違うので、彼の作品をうらやましと思うことはありません。一つだけうらやましいのはこのような大型の作品を作る場所と環境を持っていること。当方の頭の中では大きな作品を作りたいという強い願望はあれども、現在の仕事場は3畳の小部屋です。組み立てるのだから、作ろうと思えばつくれますが、どこに置くのでしょう。どんどん作ったらその後どうするのでしょう。笠間に窯とスペースを借りなければできません。

前にも書いたように陶芸財団展は当方の15kgの陶絵画ですら美術館の壁に飾ってくれません。40kgの作品はもう応募してくれるなと言われる始末です。 彼の作品なら、何トンでもボルトで組み立てることまで美術館は受け入れてくれるのです。

残された時間はわずかだ、しかし40kgの陶絵画を壁に飾ってくれるようになるまで頑張ろう。

最後に、この井上氏が<陶芸家と言われたくない>と言っているかはしりません。話の流れで勝手にそういう題名にしてしまいました。違っていたらごめんなさい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ対策2022-8-3 <独り言>

2022-08-03 19:40:01 | 日記
コロナ対策 2022-8-3 <独り言>

(当方の専門は科学である。政治経済は専門外だから以下に書くことの証拠はない。わずかな自分の経験の集合から<科学者の勘>で組み立てている<仮説>である、つまり独り言である)

1,コロナ問題の根本は科学者であるはずの尾身氏の集団が政府に科学/ロジックを与えられないからだ。ここでいう尾身氏の集団とは感染研を母体とする自称科学者とか専門家とかいう集団を指している。
科学はパワーバランスの世界とは違うのだ。
尾身氏の集団はコロナの出だしから延々と(一見科学の衣をまとった)パワーバランスの世界でことを処してきた。この集団は本当の科学で血みどろになったことがない人で構成されている。尾身氏の集団は政府がいうことを聞かないからこんなになってしまったといっているが、これまで2つの集団がパワーバランスの言い合いをしてきたに過ぎない。この期に及んで、<各自自分で考えて自衛せよ>しかないのだから、尾身氏のいう内容に何も反論することは無い。しかし、なんてこった!    専門家という言葉だけがうろうろして、科学/ロジックを与えることができる集団と政府がまともなタッグを組めないでいること、あるいは組もうとしていないこと、あるいはそれがどういう意味を持つか全くわかっていないこと(すべてに関して)に、日本の将来に希望の光を見出せない。

2,このパワーバランス・オンリーの世界を作り上げたのは誰だ!!  
当方が推測する安倍氏の考え方は
1)強いものさえ維持すれば世の中安泰だ。強いものとはアメリカ、東京、大企業。 これが一番コスパがよく、一番わかりやすい、一番何も考えなくていい。 最もバカが考えることか、最も賢い人が考えることだ。 
 
2)<現在の憲法はアメリカが作ったから気に入らないから改憲だ>から<旧統一教会は反共産で代々付き合っているから、付き合って当然だ>にいたるまで、親から受けついだことを自分の原点としているにすぎない。彼には一貫した強い志があるとはいうものの、はたして、自分で血をながして得た自分の志はあるのか? 自分で自分の志を作り上げるほどの基本的能力があるようには思えない。

3)故安倍氏は常に目の前のパワーバランスに気を配り、文句の出方を最小限にし、自民党が強くなることを最大限にすることが最大の目標であった。彼にはもともと未来を見越した論理的グランドデザインなど作る能力は無い。現在の平和を国民に与えることにより、国民から最大の支持を引き出し、都合の悪いことはみな先送りするか、もみ消すか。その平和に国民は喜んで入り浸った。彼は平和を演出することだけは間違いなく<天才>であった。
一党が大勝し続けることは異常なのである。刹那の平和演出に、日本中がボケた。この罪は大きい。幸せだったと安倍氏を称賛する人はそうすればいい。当方みたいに、常に現在将来の危険におびえながら、四苦八苦している者にとって、なにもしなくてもいい平和などありえないのだ。それは虚、illusionだ、必ずしっぺ返しが来ると恐怖におびえるのだ。裏ではその恐怖にしっかり手を打ちながら、表では平和を演出するのが為政者だろう。恐怖をごまかすのはうまいが、裏の手を打つ能力がない。

4)政治は未来をみすえた理論的グランドデザインの上にパワーバランスを乗せる必要があるのに、現在の為政者には理論的思考が全く淘汰されてしまった。淘汰したのは誰だ!!  国民の大多数は理論的思考や理論的グランドデザインを描くことは出来ない。安倍氏自身も全くこの領域では無能に見える。まさにこの点が多くの国民に支持される所以だったのだ。両者のなれ合いの中で時は過ぎていった。安倍氏はこの欠如する部分を突かれることを非常に恐れ、その危険性のある者を徹底的に排除した。刹那の安定演出に不都合なことは徹底的に排除した。自民党の大多数はこの流れを支持してきたのだ。国民も支持した、これはとても見過ごせないことだ。残ったのは考えるのも嫌な見たくもない先送り事項の山なのである。しかも、これを論理的計画的に一つづつ片づけるという思考そのものが葬り去られている。

5)岸田氏は自身、小安倍でありながら反安倍ポーズをとることにより、このような潜在的反安部意識を味方にしてきた。しかし、安倍氏がいなくなると、小安倍だけが残った。だれが、残った、考えるのも嫌な見たくもない先送り事項の山を少しでも解決してくれるのか? 当方は安倍氏を買っていなかった。早く安倍氏の作ったillusionの世界を変えてほしかった。そこで対安倍氏をうまくやろとする岸田氏に期待していた。ところが、この期待は過去形になってしまうのか??? 安倍氏の国葬は当方にとってどうでもいい。国葬をきめてからの岸田氏の空虚感のほうが心配だ。対安倍氏で作ったシナリオが崩れて、一人になったときのシナリオがなかったことに気が付いたのでは困るのだ。状況が変わろうが自分のなかに燃えるものをもっていなければならないのだ。菅氏の副総理などという声が沸き起こり、またもや安倍氏の世界から抜け出せない政界がみえる。菅氏も安倍氏の欠陥を正そうとしていたことは認める。だけど、当方はもう安倍氏の世界にずっぽり浸かっていた人はみな消えてほしいのだ。もはや安倍氏を軸に思考する反安倍では日本は先に進まないのだ。

こんな文章を書き始めた動機は、現在のコロナ対策が、なんの論理的デザインもなく、これだけ時間がたったのに、考え方は結局なにも変わらず、ただのモグラたたきを繰り返していることに起因する。昨年あれほど一見期待できることをいっていた岸田氏であったのに、なにも変わらなかったことにたいする<呆れ感>である。最初に医療従事者にワクチンを打つことをしなかった理由が全く見つからない。さらにいまだワクチン接種推進の方法を持っていない。医療体制を改善、改革することもせず、医療制限を打ち出している。感染者全数把握をやめる、やめないはどうでもいい。やめた後のブランBを持ち合わせていないこと、すべてにプランAもプランBも持ち合わせていないこと、結局もモグラ叩きのパワーバランス政治オンリーから何も変わっていなかったことに唖然としているのである。<コロナと経済を両立させる>これはプランではない、パワーバランスによる勝手な願望を言ったに過ぎない。こんなことで、これから日本はやってゆけるのか。 <改憲>どうこうではない、プランAはプランBはプランCは出来ているのか?? これから作るって!!!そんな馬鹿な。プランは常にできていて、常にリニューしてゆくものだ。パワーバランス・オンリーの世界にはプランはないのだ。ただシーソーの漕ぎ方だけが上手くなった。

切羽詰まっている、まず侵略される地域、与那国、石垣、宮古、対馬、隠岐、稚内、釧路、知床などの北海道地域、東京や沖縄本島や米軍基地周辺のまず攻撃される地域等の人々はプランA、プランB、プランCもわからずに改憲の投票をしなければならないのか?

3,中国や、ロシアの目に見える侵略(invasion)だけでなく、目に見えない侵略(silent invasion)が存在することは明らかだ。しかし目に見えない。中国や、ロシアの行ってきた
silent invasionは世界中でぼろぼろ姿を現してきた。大陸から日本へのsilent invasionがあるに違いない。大陸には南北朝鮮も含まれる。目に見えてしまったsilent invasionの例はすでに多く存在する。 拉致問題もこの最たるものだ。 この期に及んでsilent invasionが話題にもならないのはなぜか? マスコミがすでに浸食されて意図的にねじ伏せられているのかと思っていたが、どうやら、ほとんどの日本人の頭の片隅にすらこの言葉は存在していないようだ。何が問題かわからないという某自民党三役の一人は本当にわからないのではないか? マスコミは宗教とつながる政治家をやり玉に挙げて喜んでいるが、ことの本質はもっと深いところにあるのではないか? <silent invasion>の意味も解らないボケぶり。
何の証拠も持ち合わせていないのでこれ以上は何も言うことができないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする