高麗川物語 その9(最終回)
渡来人に興味を持ったのは、京都にいってからです。楽美術館に行けば、楽焼の創始者である長次郎のお父さんは渡来人であるといわれるし、国宝第一号の広隆寺の弥勒菩薩は朝鮮半島産だといわれるし、湖東三山にゆけば、百済寺は聖徳太子が百済渡来人の為に作ったといわれるし、奈良の唐招提寺に行けば、唐から来た鑑真和上が作ったといわれるし、比叡山延暦寺を作った最澄は滋賀の渡来人の系譜であるといわれるし、どう転んだって、渡来人に頭が上がらない。それでは日本とは何なのだと追及せざるを得なくなったわけです。
気になっている、中国、韓国、日本の関係を表にしてみました(どんぶり勘定の表ですが、おもしろいですよ。是非拡大して見てください)。このように朝鮮半島(中国も含みます)と日本の人の行き来(定着するという意味で)は大きな波を打っているようです(矢印で表しています)。 渡来人というのはただ先に日本に住み着いた人が後から来た人をそう呼ぶにすぎないので、根っこは同じなのかもしれません。歴史はいくつも説があって、なにも人や文化は皆、朝鮮半島や中国から来たわけではない、土着の日本人がこつこつ作り上げた文化がいっぱいあるのだという説もあります。確かに日本文化は皆外来品と決めつけるのは間違いでしょう。土着の日本文化や技術が3までいっていたのを外来文化が10に引き上げ、その後日本が100まで持ち上げたということなのでしょう(この数字は異論があるかもしれませんが)。どこが一番先だというall or notの議論はしたくありません。
高麗郡が出来た716年、今から1300年前がどういう状況であったのでしょうか。 大和王朝から飛鳥時代にかけて、朝鮮半島から人が流れ込み、豪族のような勢力を作り上げていたと思います。 とはいえ当時の王朝は結構、力があり、渡来人が乗っ取るというのではなく、一応、土着の王朝を奉りながら、じわじわと王朝内部にまで勢力を拡大していったのでしょう。実際は、百済、新羅、高句麗などの渡来人達の抗争が王朝内での争いの根源だったのでしょう。聖徳太子自体2mの身長があったといわれていますし、その行動を見ても渡来人系であった可能性が高い。彼は朝鮮系の渡来人の内部抗争を避けるために、直接、唐から文化を導入することを試みたと思います。 この時代は今よりずっと日本と朝鮮半島の関係は密で、むしろ朝鮮半島へ勢力を伸ばしていたようです。陰で動かしているのは渡来人で、自分たちの故郷の奪還だったのでしょう。 推古天皇時代に、百済支援が失敗し、その後大津へ遷都したのは、新羅が攻めてくるのが怖かったという説がありますが、そうだと思います。それほど、朝鮮半島との関係は密だったのです。そんな時、いままでほとんど好きなようにさせていた渡来人が、朝鮮半島の攻撃に迎合するのが怖くなって、高麗郡なぞ作って、きちんとした王朝の監視下に渡来人を置こうとしたという説があり、それは正しい気がします。 高句麗の若光は、滅びた高句麗の由緒があり、能力もあります。若光を長にすえて、これまで散らばっていた高麗人を若光のもとに集結して、若光に高句麗の王位を名乗らせることを条件に、結局、王朝の支配下に置くとともに、武蔵野を開拓させ、貢物を得る。一石三長の策だったのでしょう。
高麗族は同族結婚で純血を守る傾向であったようです。獅子舞の時に関係者にそっと聞いてみました。高麗族の系譜を持つ人が今もいますか? 高麗神社の神主さんは60代目できちんとした若光からの系譜をもっています。それ以外にも一般の方で、高麗族の系譜を持っている方がいます。しかし、純血というわけにはいきませんが。という返事でした。坂口安吾が言うように、渡来人を一か所に集めたからといって、全員が集まったわけではなく、そこからもれた人はいっぱいいるわけで、渡来人DNAは日本全国に広まっていったのです。
後発の渡来人、母国が滅亡して、逃げてきた渡来人は皆が王朝の中に入り込んだわけではなさそうで、秀吉時代の渡来人は特にそうだったのでしょう。渡来人を作って、それまでの日本在来人とは一線を画して暮らしたと思われます。しかし、彼らは技術を持っていたので、それを武器に在来人の中で、ある影響力を持つ集団であったのでしょう。
高麗美術館の創立者、鄭詔文さんはほとんど日本で育ったのですが、母国を訪れたいといつも思っていました。ところが母国は北朝鮮となって、彼は結局一度も母国を訪れることなく亡くなったのです。高麗美術館のビデオをみると、鄭詔文さんが司馬遼太郎と渡来人の痕跡をたどる話が出てきます。渡来人の技術として鉄細工があり、鉄細工職人の集団があったそうです。それを追って二人で新潟へ旅をします。新潟に着くと鄭詔文さんはまず電話帳をめくって、百済とか朝鮮半島系の名前を探すそうです。そして、確かに、百済という苗字の、渡来人の系譜を保存している鉄職人を探し当てるのです。渡来人が故郷をおもって、自分たちの苗字を百済としたのです。
さて、ことは複雑です。日本人はすべて渡来人なのか、渡来人は天皇も含め、日本の中枢を握っているのか、いや渡来人は、一線を画したであり、それが拡散しつつ在来人と混合していったのか、高麗族もその一部だったのか、坂口安吾のいうように武士とは深く潜行し、日本化した渡来人、サナギから蝶に変身した姿なのか、日本を舞台とした百済と新羅の抗争は、いまでも続いているのか、弥生に追われた縄文はどこへいってしまったのか。日本化した渡来人は今でも朝鮮半島に望郷の念を持ち、あわよくば併合したいのか、生き残った縄文人は、そんなごちゃごちゃはどうでもいいから、静かに生きたいのか、それとも、またもや大海を目指して、フロンティアを開拓して行くのか。
今回、韓国を訪れて、文化的ルーツとしてどうしても頭が上がらないと思っていた、朝鮮半島は、その李朝時代の貧しさ、めちゃくちゃな王朝内部の殺し合い、権力闘争、人民への圧政などが透けて見えてきました。李朝鮮王朝を滅ぼしたのは日本かと思いきや、秀吉が昌徳宮を焼いたのでなくて、朝鮮の民が焼いたのだ、李朝は大日本帝国が滅ぼしたのでなくて、朝鮮人が李朝を拒否したのだ。 決してall or notの話で、日本が関係無いと言っているのではありません。日本が李朝の滅亡に大きくかかわってきたのは間違いありません。 ことは単純でないということです。当方はいまだよくわかりません。 日本の総理大臣になりたい方が高麗神社にお参りするという不思議が、その複雑な日本人DNA(内在するもの)のフェノタイプ(実際に表現されること)の一部であるのでしょう。
次のブログは上高地、紅葉の旅です。いよいよ本格的風景写真への挑戦です。ご期待ください。 高麗川物語で疲れたので、2,3日休養です。
渡来人に興味を持ったのは、京都にいってからです。楽美術館に行けば、楽焼の創始者である長次郎のお父さんは渡来人であるといわれるし、国宝第一号の広隆寺の弥勒菩薩は朝鮮半島産だといわれるし、湖東三山にゆけば、百済寺は聖徳太子が百済渡来人の為に作ったといわれるし、奈良の唐招提寺に行けば、唐から来た鑑真和上が作ったといわれるし、比叡山延暦寺を作った最澄は滋賀の渡来人の系譜であるといわれるし、どう転んだって、渡来人に頭が上がらない。それでは日本とは何なのだと追及せざるを得なくなったわけです。
気になっている、中国、韓国、日本の関係を表にしてみました(どんぶり勘定の表ですが、おもしろいですよ。是非拡大して見てください)。このように朝鮮半島(中国も含みます)と日本の人の行き来(定着するという意味で)は大きな波を打っているようです(矢印で表しています)。 渡来人というのはただ先に日本に住み着いた人が後から来た人をそう呼ぶにすぎないので、根っこは同じなのかもしれません。歴史はいくつも説があって、なにも人や文化は皆、朝鮮半島や中国から来たわけではない、土着の日本人がこつこつ作り上げた文化がいっぱいあるのだという説もあります。確かに日本文化は皆外来品と決めつけるのは間違いでしょう。土着の日本文化や技術が3までいっていたのを外来文化が10に引き上げ、その後日本が100まで持ち上げたということなのでしょう(この数字は異論があるかもしれませんが)。どこが一番先だというall or notの議論はしたくありません。
高麗郡が出来た716年、今から1300年前がどういう状況であったのでしょうか。 大和王朝から飛鳥時代にかけて、朝鮮半島から人が流れ込み、豪族のような勢力を作り上げていたと思います。 とはいえ当時の王朝は結構、力があり、渡来人が乗っ取るというのではなく、一応、土着の王朝を奉りながら、じわじわと王朝内部にまで勢力を拡大していったのでしょう。実際は、百済、新羅、高句麗などの渡来人達の抗争が王朝内での争いの根源だったのでしょう。聖徳太子自体2mの身長があったといわれていますし、その行動を見ても渡来人系であった可能性が高い。彼は朝鮮系の渡来人の内部抗争を避けるために、直接、唐から文化を導入することを試みたと思います。 この時代は今よりずっと日本と朝鮮半島の関係は密で、むしろ朝鮮半島へ勢力を伸ばしていたようです。陰で動かしているのは渡来人で、自分たちの故郷の奪還だったのでしょう。 推古天皇時代に、百済支援が失敗し、その後大津へ遷都したのは、新羅が攻めてくるのが怖かったという説がありますが、そうだと思います。それほど、朝鮮半島との関係は密だったのです。そんな時、いままでほとんど好きなようにさせていた渡来人が、朝鮮半島の攻撃に迎合するのが怖くなって、高麗郡なぞ作って、きちんとした王朝の監視下に渡来人を置こうとしたという説があり、それは正しい気がします。 高句麗の若光は、滅びた高句麗の由緒があり、能力もあります。若光を長にすえて、これまで散らばっていた高麗人を若光のもとに集結して、若光に高句麗の王位を名乗らせることを条件に、結局、王朝の支配下に置くとともに、武蔵野を開拓させ、貢物を得る。一石三長の策だったのでしょう。
高麗族は同族結婚で純血を守る傾向であったようです。獅子舞の時に関係者にそっと聞いてみました。高麗族の系譜を持つ人が今もいますか? 高麗神社の神主さんは60代目できちんとした若光からの系譜をもっています。それ以外にも一般の方で、高麗族の系譜を持っている方がいます。しかし、純血というわけにはいきませんが。という返事でした。坂口安吾が言うように、渡来人を一か所に集めたからといって、全員が集まったわけではなく、そこからもれた人はいっぱいいるわけで、渡来人DNAは日本全国に広まっていったのです。
後発の渡来人、母国が滅亡して、逃げてきた渡来人は皆が王朝の中に入り込んだわけではなさそうで、秀吉時代の渡来人は特にそうだったのでしょう。渡来人を作って、それまでの日本在来人とは一線を画して暮らしたと思われます。しかし、彼らは技術を持っていたので、それを武器に在来人の中で、ある影響力を持つ集団であったのでしょう。
高麗美術館の創立者、鄭詔文さんはほとんど日本で育ったのですが、母国を訪れたいといつも思っていました。ところが母国は北朝鮮となって、彼は結局一度も母国を訪れることなく亡くなったのです。高麗美術館のビデオをみると、鄭詔文さんが司馬遼太郎と渡来人の痕跡をたどる話が出てきます。渡来人の技術として鉄細工があり、鉄細工職人の集団があったそうです。それを追って二人で新潟へ旅をします。新潟に着くと鄭詔文さんはまず電話帳をめくって、百済とか朝鮮半島系の名前を探すそうです。そして、確かに、百済という苗字の、渡来人の系譜を保存している鉄職人を探し当てるのです。渡来人が故郷をおもって、自分たちの苗字を百済としたのです。
さて、ことは複雑です。日本人はすべて渡来人なのか、渡来人は天皇も含め、日本の中枢を握っているのか、いや渡来人は、一線を画したであり、それが拡散しつつ在来人と混合していったのか、高麗族もその一部だったのか、坂口安吾のいうように武士とは深く潜行し、日本化した渡来人、サナギから蝶に変身した姿なのか、日本を舞台とした百済と新羅の抗争は、いまでも続いているのか、弥生に追われた縄文はどこへいってしまったのか。日本化した渡来人は今でも朝鮮半島に望郷の念を持ち、あわよくば併合したいのか、生き残った縄文人は、そんなごちゃごちゃはどうでもいいから、静かに生きたいのか、それとも、またもや大海を目指して、フロンティアを開拓して行くのか。
今回、韓国を訪れて、文化的ルーツとしてどうしても頭が上がらないと思っていた、朝鮮半島は、その李朝時代の貧しさ、めちゃくちゃな王朝内部の殺し合い、権力闘争、人民への圧政などが透けて見えてきました。李朝鮮王朝を滅ぼしたのは日本かと思いきや、秀吉が昌徳宮を焼いたのでなくて、朝鮮の民が焼いたのだ、李朝は大日本帝国が滅ぼしたのでなくて、朝鮮人が李朝を拒否したのだ。 決してall or notの話で、日本が関係無いと言っているのではありません。日本が李朝の滅亡に大きくかかわってきたのは間違いありません。 ことは単純でないということです。当方はいまだよくわかりません。 日本の総理大臣になりたい方が高麗神社にお参りするという不思議が、その複雑な日本人DNA(内在するもの)のフェノタイプ(実際に表現されること)の一部であるのでしょう。
次のブログは上高地、紅葉の旅です。いよいよ本格的風景写真への挑戦です。ご期待ください。 高麗川物語で疲れたので、2,3日休養です。