昨日は財大日本語学科の学生自慢?をしたが、
今日は先生のことを書きたい。
今まで、3年間この大学で働いてきたが、
周囲の大学の日本語教師の方々にお聞きすればするほど、
私は、いい先生たちのいる職場に恵まれたと感じている。
(その1)
昨秋、中国全土を覆った反日の嵐の際、
多くの学校では日本人教師を保護する対策を講じた。
その中でも、江財大は徹底していたと思う。
2週間のタクシーでの送迎(日本語学科の中国人教師がローテーションで付き添い)、
その後の夜の校内日本語コーナー終了後も、全てタクシーで帰宅(現在まで続いている)。
(その2)
日本語教師への執務室提供。
私の前任者までは、執務室を必要としていなかったか、
我慢していたようだったが、
私の赴任時より部屋が提供されるようになった。
初めの部屋は一階の超ジメジメした虫の館で、冬は寒くて我慢できず、
春の梅雨時は入るなり床が濡れていて滑って転ぶほどだったが(誇張じゃな~い!)、
そこから、ジリジリと、
中古の電気ストーブ設置(まもなく故障)→中古のぼろエアコン設置(すぐ故障)
→ややましな中古エアコン設置(まもなく故障)→中古のパソコン設置(湿度がひどくて故障)と、紆余曲折を経て、
今は二階の全くジメジメしていない、蚊も本当に少ない、
壊れていないエアコン&パソコンが設置された、
カビ臭さとは無縁のキレイな部屋(資料室)に引っ越し、快適ライフを送っている。
前前任者の大竹先生は、朝、授業して、午後また授業があるときは、
急いでミニバスか市バスに乗って蛟橋園の宿舎まで帰り、昼食後少し休憩して、
また麦盧園までバスで戻るという日々だったそうだ。
こうした待遇が保障されるようになったのは、
ズバリ、我がボス、日本語学科主任の朱小紅老師のお蔭だ。
(その1)では日本語学科の先生方のみならず、
外国語学院の責任者や、私の宿舎のある外事処主任などと連絡を取り合って
体制をキッチリ作ってくださった。
タクシーでの送迎は朱先生のアイディアだ。
聞けば某N大学などは、タクシーではなく、
赤い2人乗り自転車で迎えに来てくれ、
日本人教師は後ろに乗って自らペダルを漕いで職場に向かったそうだ。
他にも、自宅近くのスーパーで買い物をしてきてくれたり、
キャンパス内のスーパーに付き合ってくれたり、
本当に親身になってお世話いただいた。
今でも、その時のことを思うと、ありがたくてたまらない。
朱先生は、激しい反日行動で私の生活が規制される事態になったことを、
「こんなことになって、申し訳ございません。」
と、自分の所為でもないのに言ってくださった。
中国人にとって「申し訳ございません」というのはそんなに気軽な言葉ではない。
朱先生の熱い心を感じて、ジーンとなった。
(その2)についても、
外国語学院の院長(日本語で言うと、外国語学部の学部長)に対して、
私の待遇改善のために粘り強く交渉してくれたのは朱先生だ。
朱先生が何度も何度も、しつこく交渉してくれなければ、
私はまだ、あの一階の虫の館で、ナメクジとともにジメジメ暮らしていたことだろう。
(その3)
朱小紅先生は、今、自分のクラスの学生が骨折したことで
また、学院と交渉を重ねている。
外国語学院主催のバスケットボール大会での事故なので、
責任は当然大学の外国語学院にある。
しかし、こういうケースで保険代以外の治療費を
大学が全額カバーする姿勢は従来全くなかった。
何とか、学院に責任を取らせるために、
お金のことで自分の学生が泣くことのないように奮闘する朱先生。
こんな先生のいる職場で働くことができたのは、
本当に幸せだ。
朱先生の息子さんは今週末、大学入試の正念場を迎える。
親子で戦ってきたのだ。
いい結果が出ることを祈っている。
今日は先生のことを書きたい。
今まで、3年間この大学で働いてきたが、
周囲の大学の日本語教師の方々にお聞きすればするほど、
私は、いい先生たちのいる職場に恵まれたと感じている。
(その1)
昨秋、中国全土を覆った反日の嵐の際、
多くの学校では日本人教師を保護する対策を講じた。
その中でも、江財大は徹底していたと思う。
2週間のタクシーでの送迎(日本語学科の中国人教師がローテーションで付き添い)、
その後の夜の校内日本語コーナー終了後も、全てタクシーで帰宅(現在まで続いている)。
(その2)
日本語教師への執務室提供。
私の前任者までは、執務室を必要としていなかったか、
我慢していたようだったが、
私の赴任時より部屋が提供されるようになった。
初めの部屋は一階の超ジメジメした虫の館で、冬は寒くて我慢できず、
春の梅雨時は入るなり床が濡れていて滑って転ぶほどだったが(誇張じゃな~い!)、
そこから、ジリジリと、
中古の電気ストーブ設置(まもなく故障)→中古のぼろエアコン設置(すぐ故障)
→ややましな中古エアコン設置(まもなく故障)→中古のパソコン設置(湿度がひどくて故障)と、紆余曲折を経て、
今は二階の全くジメジメしていない、蚊も本当に少ない、
壊れていないエアコン&パソコンが設置された、
カビ臭さとは無縁のキレイな部屋(資料室)に引っ越し、快適ライフを送っている。
前前任者の大竹先生は、朝、授業して、午後また授業があるときは、
急いでミニバスか市バスに乗って蛟橋園の宿舎まで帰り、昼食後少し休憩して、
また麦盧園までバスで戻るという日々だったそうだ。
こうした待遇が保障されるようになったのは、
ズバリ、我がボス、日本語学科主任の朱小紅老師のお蔭だ。
(その1)では日本語学科の先生方のみならず、
外国語学院の責任者や、私の宿舎のある外事処主任などと連絡を取り合って
体制をキッチリ作ってくださった。
タクシーでの送迎は朱先生のアイディアだ。
聞けば某N大学などは、タクシーではなく、
赤い2人乗り自転車で迎えに来てくれ、
日本人教師は後ろに乗って自らペダルを漕いで職場に向かったそうだ。
他にも、自宅近くのスーパーで買い物をしてきてくれたり、
キャンパス内のスーパーに付き合ってくれたり、
本当に親身になってお世話いただいた。
今でも、その時のことを思うと、ありがたくてたまらない。
朱先生は、激しい反日行動で私の生活が規制される事態になったことを、
「こんなことになって、申し訳ございません。」
と、自分の所為でもないのに言ってくださった。
中国人にとって「申し訳ございません」というのはそんなに気軽な言葉ではない。
朱先生の熱い心を感じて、ジーンとなった。
(その2)についても、
外国語学院の院長(日本語で言うと、外国語学部の学部長)に対して、
私の待遇改善のために粘り強く交渉してくれたのは朱先生だ。
朱先生が何度も何度も、しつこく交渉してくれなければ、
私はまだ、あの一階の虫の館で、ナメクジとともにジメジメ暮らしていたことだろう。
(その3)
朱小紅先生は、今、自分のクラスの学生が骨折したことで
また、学院と交渉を重ねている。
外国語学院主催のバスケットボール大会での事故なので、
責任は当然大学の外国語学院にある。
しかし、こういうケースで保険代以外の治療費を
大学が全額カバーする姿勢は従来全くなかった。
何とか、学院に責任を取らせるために、
お金のことで自分の学生が泣くことのないように奮闘する朱先生。
こんな先生のいる職場で働くことができたのは、
本当に幸せだ。
朱先生の息子さんは今週末、大学入試の正念場を迎える。
親子で戦ってきたのだ。
いい結果が出ることを祈っている。