日本文学の冬休みの宿題文を、
今頃ようやく読んでいる。
以下の作品からいずれか一つを読み、感想文を書くというものだ。
「白い人」遠藤周作
「楢山節考」深沢七郎
「人間の羊」大江健三郎
「時間」黒井千次
「草木」中上健次
「楽土」中上健次
「バス停」丸山健二
「蛍」村上春樹
「暑い道」宮本輝
「キッチン」吉本バナナ
この選択条件は、北京大学出版社「日本現代文学選読(下)」
に載っている作品だということである。
私は遠藤周作の真面目な文がたいへん苦手で、
「白い人」も読んで暗い気分になり、収拾がつかなくなった思い出がある。
しかし、他にもどん底に落ち込む可能性の高い‘珠玉の’短編たちの中で、
中国の若者たちがどんな苦渋の選択をするか(^O^)、興味深かった。
丸山健二の「バス停」についての感想文に、
(そうなのか~!)と刺激を受けたものがいくつかあった。
例えば次の文だ。
ーーー「バス停」の感想 (林蘭)
「バス停」を読んで、私は大いに触発された。
まずは、主人公に深い同情を覚え、次に、社会問題を考えた。
農村の青年たちが都市へ出稼ぎに行くということは、
戦後の日本に存在する問題だけでなく、
中国にとっても改革開放以来、大きな問題である。
文章では、2年間都市で働いた主人公は、故郷の家に帰ったとき、
いい身なりや流行の髪型、整った顔立ちになって、高価なハンドバッグを持って、
村のみんなに仰ぎ見られていた。
彼らから見れば、彼女は非常に成功した人間だと言っても過言ではなかった。
主人公は今や、ちょっとした金持ちであった。
しかし、実は、彼女の仕事は光栄なことではなかった。
毎日、酒を飲んで、タバコを吸って、見ず知らずの男をむしゃぶった。
ほかにいい友達もいなかった。
都市では、何時でも自分の力で生きていかなければならない。
主人公を楽しくさせるのは、お金だけだろう。
私から見れば、本当に大変な生活だ。
しかし、彼女にとって、田舎で両親と一緒にいるのは、
わずか三日間だけでも退屈だった。
彼女は最終的に、また都市へ行くと決めた。
にもかかわらず、彼女の心は寂しさが溢れていた。
バス停で母を帰らせた後、思いたくないのに母の姿を思った。
追いかけて行きたくなった。
ところが、彼女はバス停を離れなかった。
彼女は葛藤に苦しんでいたのではないか。
愛が非常に欲しかったのではないか。
私は彼女の気持ちが、完全に理解できる。
今度の冬休みは特に長かった。
農村ではインターネットに接続できないし、娯楽の設備も少ないし、
遊ぶ友達もいなかった。
毎日、ほとんど同じことをして、本当に退屈だと思った。いつも、
「ああ、早く学校に行きたいなあ。やっぱり学校の生活は私にとってふさわしい」
と、独り言をいった。
しかし、いざ学校へ帰るとなると、気持ちは変化した。
家での生活が名残惜しくなり(毎日家族と一緒に生活できればいいのに)と思った。
「都市で暮らしてあたしはいくらか変わったのだ。
けれども、村は少しも変わっていなかった。」
もし、村が何か変わっていたら主人公は、もう少し長期間家にいたのだろうか。
または、もう、都市へは行かないだろうか。
国内外の有名な経済学者によると、国が農業国から工業国に変わるとき、
農民が都市へ出稼ぎに行くという現象は避けがたいことだ。
今の中国では、そういう現象はとても深刻だ。
私の安徽省の故郷では、ほとんど全ての青年たちは都市へ出稼ぎに行く。
彼らにとって、それは仕方がないことだ。
物価は上がるが、農村での収入は上がらない。
つまり、中国の経済は向上しているが、農村は変わっていない。
だから、農民は自分の方法で生活をよくしなければならない。
大部分の人にとっては、都市へ出稼ぎに行くのが唯一の方法だ。
しかし、知識や技術がない彼らは、労働力として、
毎日苦労して同じことをするしかない。
農村の家にいたくてもいられない上に、
都市でも生活状態は非常に苦しい。
小さい部屋に住んで、長時間働いて、社会保障は全然ない。
彼らにとって都市は、「バス停」の主人公のように
お金を与えてくれるところでしかない。
都市は彼らの終着点でもない。
日本では、こうした現象は70年代末から消えてきて、
今は、農民でも、毎日、家族と一緒に幸せな生活を楽しむことができるそうだ。
人口が多い開発途上国の中国はどうだろう。
農村の素晴らしい未来を期待している。
今頃ようやく読んでいる。
以下の作品からいずれか一つを読み、感想文を書くというものだ。
「白い人」遠藤周作
「楢山節考」深沢七郎
「人間の羊」大江健三郎
「時間」黒井千次
「草木」中上健次
「楽土」中上健次
「バス停」丸山健二
「蛍」村上春樹
「暑い道」宮本輝
「キッチン」吉本バナナ
この選択条件は、北京大学出版社「日本現代文学選読(下)」
に載っている作品だということである。
私は遠藤周作の真面目な文がたいへん苦手で、
「白い人」も読んで暗い気分になり、収拾がつかなくなった思い出がある。
しかし、他にもどん底に落ち込む可能性の高い‘珠玉の’短編たちの中で、
中国の若者たちがどんな苦渋の選択をするか(^O^)、興味深かった。
丸山健二の「バス停」についての感想文に、
(そうなのか~!)と刺激を受けたものがいくつかあった。
例えば次の文だ。
ーーー「バス停」の感想 (林蘭)
「バス停」を読んで、私は大いに触発された。
まずは、主人公に深い同情を覚え、次に、社会問題を考えた。
農村の青年たちが都市へ出稼ぎに行くということは、
戦後の日本に存在する問題だけでなく、
中国にとっても改革開放以来、大きな問題である。
文章では、2年間都市で働いた主人公は、故郷の家に帰ったとき、
いい身なりや流行の髪型、整った顔立ちになって、高価なハンドバッグを持って、
村のみんなに仰ぎ見られていた。
彼らから見れば、彼女は非常に成功した人間だと言っても過言ではなかった。
主人公は今や、ちょっとした金持ちであった。
しかし、実は、彼女の仕事は光栄なことではなかった。
毎日、酒を飲んで、タバコを吸って、見ず知らずの男をむしゃぶった。
ほかにいい友達もいなかった。
都市では、何時でも自分の力で生きていかなければならない。
主人公を楽しくさせるのは、お金だけだろう。
私から見れば、本当に大変な生活だ。
しかし、彼女にとって、田舎で両親と一緒にいるのは、
わずか三日間だけでも退屈だった。
彼女は最終的に、また都市へ行くと決めた。
にもかかわらず、彼女の心は寂しさが溢れていた。
バス停で母を帰らせた後、思いたくないのに母の姿を思った。
追いかけて行きたくなった。
ところが、彼女はバス停を離れなかった。
彼女は葛藤に苦しんでいたのではないか。
愛が非常に欲しかったのではないか。
私は彼女の気持ちが、完全に理解できる。
今度の冬休みは特に長かった。
農村ではインターネットに接続できないし、娯楽の設備も少ないし、
遊ぶ友達もいなかった。
毎日、ほとんど同じことをして、本当に退屈だと思った。いつも、
「ああ、早く学校に行きたいなあ。やっぱり学校の生活は私にとってふさわしい」
と、独り言をいった。
しかし、いざ学校へ帰るとなると、気持ちは変化した。
家での生活が名残惜しくなり(毎日家族と一緒に生活できればいいのに)と思った。
「都市で暮らしてあたしはいくらか変わったのだ。
けれども、村は少しも変わっていなかった。」
もし、村が何か変わっていたら主人公は、もう少し長期間家にいたのだろうか。
または、もう、都市へは行かないだろうか。
国内外の有名な経済学者によると、国が農業国から工業国に変わるとき、
農民が都市へ出稼ぎに行くという現象は避けがたいことだ。
今の中国では、そういう現象はとても深刻だ。
私の安徽省の故郷では、ほとんど全ての青年たちは都市へ出稼ぎに行く。
彼らにとって、それは仕方がないことだ。
物価は上がるが、農村での収入は上がらない。
つまり、中国の経済は向上しているが、農村は変わっていない。
だから、農民は自分の方法で生活をよくしなければならない。
大部分の人にとっては、都市へ出稼ぎに行くのが唯一の方法だ。
しかし、知識や技術がない彼らは、労働力として、
毎日苦労して同じことをするしかない。
農村の家にいたくてもいられない上に、
都市でも生活状態は非常に苦しい。
小さい部屋に住んで、長時間働いて、社会保障は全然ない。
彼らにとって都市は、「バス停」の主人公のように
お金を与えてくれるところでしかない。
都市は彼らの終着点でもない。
日本では、こうした現象は70年代末から消えてきて、
今は、農民でも、毎日、家族と一緒に幸せな生活を楽しむことができるそうだ。
人口が多い開発途上国の中国はどうだろう。
農村の素晴らしい未来を期待している。