毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「麦盧園への『トトロの道』無残…」 2013年12月13日(金)No.821

2013-12-12 20:25:27 | 中国事情




3年半の間、これらの木の下を歩き親しんできたが、
もう、通れない。
まるで通り魔に遭ったようにむごい折られ方をした木々が、苦しんでいた。
深い致命傷を負った人々を見る思いだ。
誰がこんなことをしたのか!



麦盧キャンパスに入っていくと、事態が分かった。
清掃スタッフの人たちが、誰かに命じられて慣れない枝払いをしているのだった。
樹木の世話をする専門家ではない。
見ていて(その枝を切ってどうする!)と叫びたくなるような作業の有様だった。



情け容赦なく切り捨てられ、屍のように累々と横たわる枝枝。


ずいぶん成長している太い枝も多い。枝先には葉が茂り、冬、そして次の春の準備もしていたのに…。


もっとこまめに世話を受けていたら、こんな滅茶苦茶乱暴な手術をされなくてもよかったのだ。
何の計画性もない行き当たりばったりのやり方。
きっと誰かエライ人が「枝が邪魔で通れん!切ってしまえ」
などと言ったのだろう。
胸が塞がる。

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「小田嶋隆の『うんざりするほど当たり前のこと』」 2013年12月12日(木)No.820

2013-12-12 20:25:27 | その他情報
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ警句」の記事を全文貼り付けさせてもらう。
彼の文に共感するワタシやアナタは、
この気持ちを3年後まで保持し続けられるだろうか。
何しろ忘れん坊の天才、日本民族の一員なのだ。
案外、安倍晋三がいみじくも言うとおり
「国民はPKOの時、この秘密保護法よりもっと大規模に反対したが、
今は誰も文句を言わない」パターンで、
粛々と政府の言いなりになっている可能性も否めない。
自分が日本民族であるということは、
自分の記憶力に自信が持てないということだと、ハタと気づいた今日この頃である。
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うんざりするほど当たり前のこと 小田嶋 隆2013年12月6日(金)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20131205/256782/?P=1

参院国家安全保障特別委員会の中川雅治委員長(自民党)は12月5日、
特定秘密保護法案の採決を強行し、同法案は、自民、公明両党の賛成多数で可決された。
これを受けて、政府、与党は、遅くとも会期末の12月6日までに、
参院本会議で同法案を可決成立させる意向なのだそうだ。



率直に申し上げて、うんざりしている。
時期として手遅れになってしまったが、一応、思うところを書いておく。
タイミングのことを言うのなら、5カ月前の段階で既に手遅れだったと思う。
さらに言えば、当件に関して、手遅れでないタイミングは、
そもそも存在していなかったのかもしれない。
自民党にフリーハンドを与えた以上、この日の来ることは既定路線だった。

これまでにも、当欄で特定秘密保護法案をとりあげる機会がなかったわけではないのだが、
その度に、先送りにしていた。
理由は、ひとことで言えば、うんざりしていたからだ。
前半では、まず、私がこの話題を扱うことにうんざりしていた事情について述べることにする。
もしかしたら、それを言っているだけで紙数が尽きるかもしれない。
それでもかまわない。大切なのは、私がうんざりしていることの中身だからだ。

とにかく、結論としてあらかじめ言っておきたいのは、
今回のこの法案は、われわれがうんざりし続けてきたことの結果として
私たちの前に立ちはだかっているということだ。
無力感は人を無力にする。実にもってロジカルな話だ。
そして、このことのもたらす無力感は、ますます私たちを無力にする。
私は、いま、心の底からうんざりしている。

「お前の個人的な感情を吐露することに何の意味があるんだ?」
と考えておられる向きもあることだろう。
たしかに、読者には関係のない話に聞こえるかもしれない。
しかしながら、私は、同じ時代に生きる個々人の個人的な感情には、
普遍的な意味が含まれるはずだと考えている。

時系列の話をするなら、特定秘密保護法が可決成立することへの反応としてうんざりするより先に、
私はずっと前からうんざりしていたわけで、ということは、話の順序からすれば、
私がうんざりしていたことの結果として法案が成立したというふうに受けとめなければならない。
私はそのように考えている。

こういう話をしていると、
「貴殿は法案を熟読した上で見解を述べているのか?」 
という感じ問いが投げかけられて来る。
この種の質問は、もうずいぶん前から、完全にテンプレ化している。 
結局、何らかの政治的イシューについて発言する人間を見つけると、
必ずその専門性を問う人々が現れることになっているわけで、彼らは、回答を求めているのではなくて、
どちらかといえばいちゃもんをつける材料を探しているのだ。
で、多くの場合、この種の問いかけに対して、私は、 「もちろん、詳しくなんか知らないよ」
「直感で言ってるだけだけどそれが何か?」 という感じのレスポンスを投げ返すことにしているのだが、この問題については少し違う。
私は、特定秘密保護法案に関しては、応分の知識を持っている。

この秋以降、昨年来かかわっているさる民放局の番組(CS放送)で、
特定秘密保護法を扱った企画を3回扱っている。
で、ゲストとして招いた与野党の国会議員や、法律家、ジャーナリストに、直接話を聞く機会を得た。
弁護士の海渡雄一氏、ジャーナリストの大谷昭宏氏、総理補佐官の礒崎陽輔参議院議員、
自民党の中谷元衆議院議員、社民党の福島瑞穂副党首の各氏だ。

当然、これだけの専門家と話すのだから、事前に勉強しないわけには行かない。
だから、法案の条文については、4月の改定前の段階のものから、直近のものまで、
何度も目を通している。
つまり、私としては珍しいことに、この問題については、時間と手間をかけて情報を蓄積しているのだ。
にもかかわらず、私は、特定秘密保護法案に関して、これまでにどの媒体にもまったく原稿を書いていない。
なぜか。

ここで、話はアタマに戻ってループする。
私は、詳しく勉強すればするほど、発言することの空しさに圧倒されて、
何も言う気持ちがなくなってしまった。もう一度言うが、私は、うんざりしたのである。 
特定秘密保護法の問題点について、条理を尽くして語ることそのものは、
そんなに骨の折れる仕事ではない。
やればできる。
 
ただ、真面目に書けば書くほど、それは、新聞の特集コーナーで書かれていることの焼き直しになる。 
特定秘密の指定について恣意的な運用が可能であること、
行政府の権限を無限に拡大する恐れがあること、
情報開示の方法と原則について明確な規定を持っていないこと、
第三者のチェックが周到に排除されていること、
条文の中に共謀罪とほぼ同等の規定がこっそり書き込まれていること、
「適性検査」という信じがたい人権侵害規定が含まれていること、
想定されている同盟国(米国)に対して無力なこと、
罰則規定が重すぎることなどなど、書こうと思えば書くべきことはいくらでもある。

ただ、そういうことは、私が書いても仕方がないと思ったのだ。
専門家の解説をかみくだいて解説する仕事は、新聞のようなメディアがやれば良いことで、
実際に彼らは、この一カ月ほどの間に、その種の記事をかなり熱心に配信してくれていた。 
でも、手遅れだった。
新聞は、この種の政治課題については、稟議を通してから鳴らす津波警報みたいに、
手遅れになったタイミングではじめて騒ぎはじめるケースが多い。
その方が読者の胸を打つと思っているのだろうか。
それとも、記者というのは、後知恵だけが選択的に発達するべく訓練されるものなのだろうか。
 
特定秘密保護法案についての記事を書く気持ちになれなかったもうひとつの理由は、
「活動家」みたいな仕事をしたくないと考えたからだ。
言い換えれば、現時点で自分がこの話題について原稿を書くと、
反対運動を展開している活動家が書くみたいな文章になる気がして、
その文章の色気の無さ(というのか、硬直した文体)に、わがことながら、
あらかじめうんざりしてしまったわけだ。
 
もちろん、法案に反対する気持ちはいまでも持っている。
ただ、反対の気持ちは気持ちとして、私の心のより深い部分には、
反対しても無駄だというあきらめの気持ちが広がっている。
一方であきらめの気持ちを抱きながら、
反対の気持ちだけをまっすぐにぶつけることを繰り返していると、
その文章は活動家のアジ演説みたいなものになる。
私は、それがいやだったのだ。
 
さかのぼって言えば、私は、参院選がああいう結果に終わった時点で、
既に、色々なことを投げ出す気持ちになっていたのだと思う。
このことを、
「政治的な怠慢だ」
と、なじる人々がいることはわかっている。
事実、怠慢ではあるのだろう。
どんな事態に陥っても、倦まずたゆまず、
まっすぐに顔を上げて前進するのが正しき市民の選ぶべき態度であるのかもしれない。

が、政治的な勤勉さは、なにより選挙の時に発揮しなければならないはずのものだ。
選挙の時点で、与党にあれだけの圧倒的な議席を与えてしまった以上、
結果が出た後に選挙民としてできることは非常に限られている。
デモ?
まるで無駄だとは言わないが、私は乗れない。無力感で一歩も前に進むことができない。
「でもと言う前にやるべきことをやっておきなさい」
 と、マザーテレサも言っている。
 いや、これはウソだ。
 マザーテレサが言ったことにすれば、
たいていのことはもっともらしく聞こえるということを例示してみただけ。はい。ウソです。
「デモを打つ前に、デモを打たなくても良い政権を選んでおきなさい」
 と、私は、そう思っている。
 
次回こそは正しい選択をしなければならない。
私がいまさら法案に反対する言葉を口にしたくないと思ってしまうのは、
メディアに対して不信感を抱いているからでもある。
特に地上波のテレビに対しては、 「いまさら反対みたいな顔をしないでくれ」 という気持ちを持っている。 
彼らは、参院選を控えた時点の様々な番組で「『ねじれ解消』を果たせるのかどうかが、
この参院選の課題です」みたいな言い方を繰り返していた。
このことはつまり、与党が衆参両院で過半数を確保している現今の状況を、
新聞テレビをはじめとしたマスメディアが、参院選前の時点で、
半ば待望していたことを意味しているわけで、であるとすれば、彼らは、
いまさら自民党が数の力で成し遂げようとしていることを批判する資格を持っていないはずなのだ。
 
衆参両院の与党が「ねじれ」状態を呈していた2007年以降、政局は常に混迷の中にあった。
多くの法案の議決に、不必要とも思える時間と手間がかかり、
審議や決断の過程が非効率このうえない形で進行しているようにも見えた。
だからこそ「決められる政治」というキャッチフレーズが生まれ、
それをマスコミが後押しする機運が盛り上がっていたのだと思う。
この点について、議論の余地は無い。
そして、有権者が本当に「ねじれ」の解消を望んだのであれば、
彼らは、そのことの結果を受け容れなければならないはずなのだ。 
仮に「ねじれ」が解消して、「決められる政治」が実現したら、
与党が大胆な政治手法を採用してくるであろうことは、
当然といえば当然の、十分に予想できたはずのなりゆきだ。 
少なくともマスメディアの中にいる人々は、自民党の圧勝が予想されていた参院選を控えて、
「ねじれ解消」というフレーズを自分たちが合唱していた時点で、
今日あることを予期していなければならなかったはずだ。
 
自民党が選挙民を裏切ったと言うことはたやすい。
実際、彼らは、選挙前の時点で、
日本版NSCや特定秘密保護法の成立を公約として挙げていたわけではないし、
集団的自衛権を容認するべく国家の大方針を転換することもアピールしていなかった。
それどころか、TPPに関しては、多くの選挙区の議員が反対する旨を訴えて議席を獲得していた。
 
以上の点を蒸し返してものを言うなら、
自民党ならびに公明党が有権者をだまし討ちにかけたのだと言って言えないことはない。
でも、「ねじれ」が解消される状況が実現されれば、
自民党が、長年あたためていた懸案を一気に上程しにかかることは、
一人前のアタマを持った市民なら、本当はわかっていなければいけないことだった。
私は、わかっていた。
強行採決は、暴挙だし、品のないやりざまだし、背信行為でさえある。
とはいえ、それでも、最低限、違法ではない。 
というよりも、強行採決が可能な議席数を与えてしまった時点で、
われわれは、与党を罵ることはできても、彼らの考えを改めさせることはできないのである。
どんな暴挙であれ、ルールの枠内にある限りにおいて、実効性を持っている。
ボクサーに向かって
「殴るなんてひどい」
と言ったところで、何の意味もない。
 
私にできることは次の選挙の時まで、今日起きたことをよく覚えておくことだ。
私は、いま「私たち」という主語を使わなかった。
ひとりひとりの「私」が、個人としてふるまうほかにどうしようもないと考えたからだ。
もう少し率直に言うと、私は、「私たち」という設定にうんざりしているということだ。
しばらく一人にしておいてくれ。
読者のみなさんにも、一人で考えることをおすすめしておく。
(文・イラスト/小田嶋 隆)

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