毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「4年生との別れ・・・卒業パーティー」2014年6月8日(日)No.918

2014-06-08 17:17:08 | 中国事情

昨日7日(土)は、

八一公園日本語コーナーの後、

江西省日本人会が帰国者への送別昼食会を開いてくださった。

「やはり日本人同士だと気心が知れてホッとします」

という方もいらっしゃるが、私はそういう感想はいまだかつて持ったことがない。

インターナショナルになり過ぎたのか(笑)、

はたまた、中国が肌に合い過ぎているのか。

日本に戻ると数日でクサクサしてくる、あの感覚を思い出すとちょっと嫌だな。

 

さて、夜の部は4年生の卒業記念パーティーだ。

私はこの日が来るのをひそかに恐れていた。

あの4年生との別れの現場に居合わせたくないのだ。

(出会ったときに挨拶するように、別れる時にも、きちんと挨拶したほうがいいのだろうか。できることなら、すうっと消えてなくなりたいのだが)。

 

そうこうするうちに、陳小雲さんがウォルマートの前まで迎えに来て、

青山湖近くの会場に向かった。

例年になく、卒業パーティーはいくつものアトラクションが用意されていた。

先生方への表彰状、先生方の日頃のしぐさや口癖をとらえた寸劇、

面白い記念撮影の写真上映・・・・・・。

「ええ?林蘭さん、ま~た宿題忘れたって?!あなたは忘れ物の女王様です」

潘梅萍さん扮する私の物真似を見て、

(日本の学校で言っていたのとほぼ同じことを言ってるんだなあ)と我ながら感心した。

 

司会進行は一年生入学当時からのゴールデンコンビ、

周双双さん&陳小雲さんだ。

 

このクラスを担任し、基礎日本語から高級日本語まで徹底した暗誦指導で

クラス全体の実力を引き上げた朱小紅先生。

3年の2学期、閻さんがバスケットボールの試合で大怪我をした際の、

朱先生の大奮闘は忘れられない。

財大日本語学科の老師たちは熱い心の人ばかりだ。


劉慧さんが、クラスの皆から日本人教師の私への手紙を読み上げた。

ここに至り、できれば別れという事態を茶化したい私の悪デレの心はどこかに飛んでいった。

確かに、私も一生懸命彼女ら・彼らのために努力した。

初めは、それが、ちっぽけながら中国人と日本人の関係改善のために

一庶民の自分にできることだと思っていた。

そのうち、中国だの日本だの関係なく、

私が人間の大人として教えたいことを、人間の子どもに伝えるのだ、

という気持ちが強くなってきた。

学生たちも同じように、私を特別な「日本人の」先生から、

ただの先生と思ってくれるようになったのではないか。

国境なんか、ちっちゃいことだ。

 昨夜の会は、そんなことを感じさせてくれた。



劉慧さんが2010年度日語班代表で書いてくれた手紙。

ちょっとひけらかしになるかも知れないが、今日だけは我慢して付き合ってほしい。

――――――――――――――――☆
先生、
時間のたつのは本当に早いものですね。
もう四年間も経ってしまいました。一年生から四年生までずっとご指導いただき、心から感謝いたしております。
一年生のとき、私たちは日本語について何もわかっていませんでした。
初めて日本人先生の授業に出たときの不安や興奮はずっと覚えています。
先生の初めての授業、英語でしゃべったりして、先生の豊かな表情や面白い身振り手振りで、みんな、笑いながら過ごしてしまいました。
先生の優しさや私たちへの思いやりをその時から十分わかって、おそらくその時から、みんなはもう先生のことが大好きになりました。
その時、私たちはよく授業中にゲームをやったりして、勝った人やチームは日本のお菓子を配られることで、みんな、いつもわいわいと騒いでしまいました。

この四年間、先生の授業はいつも面白くて、私たちもとても楽しみながら知識を学びました。知識だけでなく、一人の人間として必要な礼儀やマナーについても先生から教えていただきました。
先生は真剣に私たちのノートを読んで、小さい文章記号まで直してくださり、そして、可愛い「猫」のついた「大変よくできました」「よくできました」「がんばったね」「がんばってね」という評価、まるで先生の笑顔が残されたようなノート、みんなも、きっと忘れられないと思います。
日本の歌、面白いコント、詩、ゲームなど、私たちもできるようになりました。
また、先生がいらっしゃって以来、日本文化、特に、日本の茶道、着物についてのイベントが何度も開かれ、日本語学科のみんなが日本文化について触れるチャンスが多くなり、本当にありがたく思っております。

授業時間以外のときも、私たちと先生はよく一緒に過ごしてきましたね。
一年生のときはまだ日本語が十分わかりませんでしたが、先生や先輩たちと一緒に第二食堂の一階(今は潰れましたけど)で、餃子を作ったことがあります。
先生はまだ覚えていますか。みんなは覚えていますよ。とても楽しかったのです。
でも、あの時先生は少し不満なところがありました。
それは、みんなが後片付けをあまりしなかったことでした。
あれから、みんな 、どんどん後片付けの必要さが分かってきました。
週末にも、よく先生の宿舎にお招きいただき、先生が作ってくださったカレーライスやお寿司は大変おいしかったです。それは先生だけの手作りの味なんです。
それに、みんな、先生の宿舎で気楽にしゃべったり、大笑いしたりして、本当に貴重な思い出になりました。

ああ、私たちと先生のことを、一杯書こうとしてもとても書けません。
先生は元々、一年契約ですね。
でも、私たちのために、私たち日本語学科のために、四年間も南昌に滞在していただきました。
私たちはもうすぐ卒業して、先生も日本にお帰りになって、これから会うチャンスも少なくなりますが、今、みんなの仕事はほとんど日本語関係なので、また日本でお会いすることを楽しみにしています。
 
この四年間、先生は中日友好のために中国にいらっしゃって、きっと大変苦労されたでしょう。
そして、領土問題で、中日関係が悪化する一方の状態で、先生もつらかったでしょう。
授業の中で、先輩の作文を涙ながらに読んでいる先生の顔、ご両親のことを教えてくださったとき、手で涙を拭いている先生の姿、中日関係のことで、先生は何度も涙を流されたことを、私たちは永遠に忘れません。
卒業しても、先生の教えはずっと心に刻んでいこうと思っております。(以下略)
 
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コメント (1)
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