中秋節(日本と違い、一家団欒の日と決まっている)、
午前11時前に、学校に残って毎日図書館で自習している4年生の4人が
お土産を持って、かねてより約束していたサンドイッチ作りにやってきました。
メインのお土産はこれです。
柚子、日本では「文旦」ですね。
中秋節には月餅と柚子を食べるのが中国の習慣なのだそうです。
いつも、寮と図書館の往復でくたびれている彼女たちにとって、
作って食べることは楽しかったようです。
サンドイッチは菏澤では、全く認知度が低い食べ物で、4人とも初めて作るとのこと。
サンドイッチとカレーライスで景気をつけて、
午後2時前、彼女たちはまた、図書館目指して去っていきました。
その後、私はキャンパス前のバス停に出かけました。
卒業生の楊芬さんと待ち合わせしていたのです。
バス停に向かうキャンパス内の道は、ここ数週間ですっかり秋模様に変化しました。
(毎日バラバラと落ちる大きな落ち葉はきれいに掃かれ、道路はすっきりしています)。
道端では柚子など果物を売る女性と、道路の掃除スタッフが
お喋りしていました。
服装を見てお分かりの通り、上着が必要な曇ったり降ったりの寒い日でした。
月見はまったく論外です。
さて、二人が着いたところはここです。
冀(河北省)、魯(山東省)、豫(河南省)周辺区を網羅する革命記念館が
菏澤市内にあるのでした。
「冀魯豫辺区革命記念館」の右に小さく書いてあるのは「江澤民」の文字です。
国慶節と中秋節が重なった今日の午後4時、
訪れる人は広い館内にポツリポツリといるくらいで、
決して込んではいませんでした。
この地域の抗日の歴史を知ることができるのでは?
と思い、楊芬さんに頼んでやって来たのです。
しかし、抗日戦争の生々しい写真や記事はほとんどありませんでした。
「抗日英雄」「対国民党軍戦争の英雄」のプロフィールが
正面入り口を入ったところにずらりと並んでいたのを幾つか写真に収めました。
(写真の前に立つのは楊芬さん。
毎年、国慶節は実家のとうもろこしと大豆の収穫作業でいそがしいのに、
私との約束を果たすために駆けつけてくれたのです)。
下の4人は抗日戦争で亡くなった方たちです。
下は国民党軍との内戦で1948年、亡くなった菏澤出身の方です。
顔写真を見ると、
戦争で死んだ伯父さん(母の兄)の顔と重なりました。
みんな、若くして亡くなってしまいました。
戦争がなかったら、人生を謳歌して生きることができた人たちです……。
しかし、付け足すと、
中国・日本双方とも戦争によって命を失った人たちだとは言え、
中国側の死者たちはまさに日本の侵略から国を守るためと、
内戦に勝利するために戦った「英雄」たちです。
しかし、日本側の死者たちのほとんどは、
日本国指導者の命令で民間人が兵士として駆り出されて、
他国侵略の尖兵として突っ込んでいかされた挙句に死んだものですから、
「日本を守るために」戦った英雄であるとか、
彼らの「尊い犠牲の上に今の平和な日本がある」とは言えません。
日本の今は、この戦争に徹底的に負けた結果、
マッカーサーの連合軍が日本に来て、
それまでの日本の方向性を大きく変え、
「戦後民主主義」の時代を迎えて今日に至ったのです。
この「尊い犠牲」論ほど、納得できないものはありません。
①他国侵略を「尊い」と言えるのか。
②多くの兵士が「犠牲になった=死んだこと」で「敗戦→GHQの指導→戦後日本」
というコースを辿った、ということはつまり、
「兵士が犠牲になってくれたおかげで敗戦が実現し、日本が戦後を歩めた。
だから尊い」のか。意味が分からない。
③命は尊い。当然だ。しかし、国家の犠牲になって庶民が命を失うことが
尊いというのは、全く話が違う。
「尊い犠牲」と持ち上げるのは
国家が外交の舵取りに失敗し、戦争に突入したことを
摩り替えて、誤魔化しているに過ぎないのではないのか。
・・・・・・頭の中で行きつ戻りつする思いです。
結局、日本側の死者たちは、
「国の指導者の間違った判断に翻弄されて
たった一つの尊い命を失った犠牲者以外の何者でもない」、
それが私の結論です。
ところで、
下の写真で、矢印の若者は誰と誰でしょう。
鄧小平(政治委員)と劉伯承(野戦軍司令員)です。
下は、中国共産党中央の指示で、
山西省・河北省・山東省・華南省の内戦を
指導しに出発する前に撮ったツーショットですって。
鄧小平さん、若いですね!
こんな若者たちが抗日戦争と内戦を戦い抜いて
1949年10月1日、中華人民共和国建設日を迎えたのですね。
下の説明文に注目しました。
写真は何がなんだか判別できないのですが、
「1945年10月から1946年1月13日まで、華北・山東・華南区部隊は全力で
日偽残余勢力を粛清した。--10月29日山東西南重鎮-菏澤市解放」
と書いてあります。
楊芬さんに『日偽残余勢力』とは何を指すのか聞くと、
「菏澤は小さい地域なので、日本軍の大部隊は別のところに移動していき、
小さい部隊だけ隠れて残っていた。それを指しているのではないか。」
とのこと。
もしそうなら、その小部隊は取り残されたと言うことでしょう。
他の部隊はとっくに日本に帰ってしまった後も、
孤立無援で1946年1月13日まで戦い、或いは逃げ惑っていたということになります。
しかし、別の人の意見も聞いてみたほうがいいような気がします。
「日偽残余勢力」って、実際はどうだったのか、
同じ菏澤出身の李先生にも聞いてみることにします。