戦争が廊下の奧に立っていた (渡辺白泉) 1939(昭和14)年
「見ざる言わざる聞かざる」で知らんぷりしていよう、とか、
何かを恐れて本来の主張を自己規制していたところで、
目と耳と口を塞ごうとする邪悪な力は、向こうから押し寄せてくるもの。
下に紹介した俳句「戦争が廊下の奧に立っていた」は、
そういう不気味な気配を鋭く五七五に定着させた、ぞっとする名句です。
戦争が廊下の奧に立っていた
1939(昭和14)年、京都大学俳句会で活躍していた、
渡辺白泉という学徒が詠んだものです。
白泉はとくに政治に関与していたわけではありません。
もちろん、左翼でもありませんでした。
戦争を嫌い、平和と文学を愛するごくふつうの大学生だったのです。
ところが、特高警察はこの俳句にまで目をつけ、
「反戦思想の持ち主だ」
と言って、渡辺白泉に治安維持法違反の嫌疑をかけ、投獄しました。
仲間も俳句を作れないほどの言論弾圧を受けました。
いまに伝わる「京大俳句事件」です。
たった一句の俳句にまで弾圧が及んだ暗黒の時代。
そのおぞましい暴力は、まだ大丈夫だろう、と思っている矢先に、
突然に襲ってきたのです。
国民の目と耳と口をふさぎ、
自分たちの思うがままに独裁的な政治をしようという勢力が
居丈高に振る舞っているいま、
すでに不気味な圧力は
あなたの背後にしのび寄っているかもしれないのです。
戦争が廊下の奧に立っていた
戦前、京大生・渡辺白泉がこの俳句を詠んだときには、
もう戦争は廊下の奧どころか、茶の間に軍靴で侵入していたのです。
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渡辺白泉さんの句には、下のようなものもありました。
私たち日本庶民は、知らないうちに戦争が始まったという
超愚かしく、情けない経験を持っているのに、
「日本を存続させるためには戦争も辞さない」という声が聞こえる今日この頃。
また、想像を絶する数の人々が
殺されたり、殺したりしないと目が覚めないんですかね。
私たちは、何のために、歴史を学んだのでしょうか。
・街燈は 夜霧にぬれるためにある
・鶏(とり)たちに カンナは見えぬかもしれぬ
・銃後といふ 不思議な町を丘で見た
・玉音を 理解せし者前に出よ
(渡辺白泉)