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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「菏澤学院の学生たちの「中国人の日本語作文コンクール」受賞作文その1」No.2141

2017-12-20 20:05:08 | 中日(日中)交流

毎年、日本僑報社(段躍中さん主宰)が開催する「中国人の日本語作文コンクール」は、

中国で日本語を学ぶ学生たちにとって最大の励みの一つであると同時に、

中国と日本の関係を考え、

両国の関係をより良くするために

日本語を学ぶ自分たちに何ができるかを考える機会を与えてくれています。

年ごとに、そして大学によっても、

学生たちの国家意識の変化は顕著ですが、

ここ山東省菏澤学院の学生たちは、

中日戦争時代の中国国家の経験が

遠くに翳んでいっているような人たちが多いと私は感じています。

そして、これは前任校の学生には見られなかったことですが、

コスプレや萌え系アニメ好きな学生が各学年に必ず存在しています。

おそらく国家による一本(一流)と二本(二流)の大学ランク付けと

関係があるでしょう。

一本の大学生たちの中には、

将来の中国を担う若者としての気概に溢れる学生が多く見られました。

この大学には、

そうした中心から弾き飛ばされた子や、

あるいは、自ら遠心力を発揮して、

中心的価値から遠ざかろうとしている雰囲気を持つ子が何人もいます。

それぞれ、面白く感じます。

さて、入賞作の始めは3位入賞を果たした鄭秋燕さんです。

作文は今年5月、まだ3年生の時に書いたものです。

そのときの鄭さんは、冬休みに故郷で家族と留学を巡って大激論を交わし、

泣く泣く留学を諦めてまもなくでした。


  課題テーマ:〈日本語の日〉に私ができること 

「後輩に伝えたい-自分の努力で周りが変わる-」菏澤学院 鄭秋燕

 

 「どうして日本に留学するのはダメなの?どうして許してくれないの!」

必死に訴える私。それでも、母は頑として譲りません。

「ダメなものはダメ。一年間の留学は少なくとも十万元かかるんだよ。

燕ちゃんの大学の学費で、うちはもうギリギリなの。

それに、燕ちゃんは女の子なんだから、近くにいる方がいいよ。

わざわざ日本に行く必要なんかない。」

 三年生の冬休み、私は以前から胸に秘めていた日本留学について、

両親に相談しました。

でも、意見が真っ向から対立し、両親と私は喧嘩しました。

私はもっと広い世界が見たくて、日本に留学したいと思っていました。

しかし、両親は猛反対でした。


日本への留学は、両親にお金を援助してもらってこそ実行出来ることです。

しかし、「大学を卒業後、福建省に戻って両親の家の近くに就職し、

それから何年か経って結婚する。その後、子供を産んで育てる。」

それが、両親が望む私の人生の道筋です。

(人生はそれだけなのだろうか。これから何十年も生きる私が、

両親の希望にただ、大人しく従うだけでいいのか……)と、

私は自分に問いました。真剣に考えた後、私は

「いや、それだけの人生なんか、私はいらない。」

とはっきり答えを出しました。

日本留学は、今は叶いません。

でも、大丈夫。

中国で日本語を勉強しながら、自分のできることをやっていれば、

必ず、将来日本に留学するチャンスはあります。

 

私は大学での三年間の過程を思い出しました。

日本語専攻を選択したのは偶然で、ただ漫然と外国語に興味を持っていた私は、

最後の希望順位で日本語学科にたどり着いたのです。

一年生の一学期間勉強しても、私は日本語で人と話す勇気が出ませんでした。

夏休みに、両親は厦門の日本料理店でのアルバイトを探してきました。

でも、アルバイトの時、私は日本人どころか、

見知らぬ中国人にも一言も話せませんでした。

一ヶ月の間、私が言ったのはただ

「いらっしゃいませ」と「少々お待ちください」だけです。

自分でも悔しかったので、二年生の夏休みは、

自分から進んで同じ日本料理店でアルバイトしました。

勇気を出した甲斐があって、その時は、

日本語で話せば話すほど日本語が好きになってきました。

大学の先生以外では初めての日本人とも知り合いました。


この三年間は、恥ずかしくて委縮していた自分が、

勇気を出して日本語を話し、少しずつ自分の世界を広げてきた年月でした。


 今年の五月上旬、大阪から四人の女性講師団が来て、

着物や茶道などを体験させてくださいました。

その時、私はモデルとして花嫁の着物を着て、

外国語学部のみんなの前に立つ機会を得ました。

花嫁衣装を着た写真を両親に送った時、母は

「さすが私の娘だねえ。とても美しかったよ。」

と嬉しそうに言いました。私が、

「ママ、今回はとてもいい体験だったよ。

もっと他のことも体験したいので、私は将来必ず日本に行くよ。」

と言うと、母はしばらく考えて、

「うん、確かに。じゃ、本当に日本に行きたいなら、自分で頑張りなさい。」

と言いました。

着物ショーのおかげで、両親は私の留学への頑固な態度を少し変えました。

これははじめの吉祥です。

その二週間後、私は校内スピーチコンテストで何と、優勝してしまいました。

また、両親はとても喜んでくれました。

こんな私が「日本語の日」にできることは、

後輩たちに自分の三年間の歩みを語ることです。

まず、縮こまらず、勇気を出すことが大切だということ。

もし自分が、日本語が好きなら、日本語学習に集中して努力すること。

それは自分を輝かせ、また、周りをも照らす力を持つこと。

それが三年間で得た私の確信です。

自分の努力を通じて、

身の回りの人に日本や日本語の魅力を感じてもらうことは可能です。

そうすれば周りの人々はだんだん日本に好い感じを持つようになります。

一人の力は小さいですが、同時に、無限大に大きいんです。





 


 


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3 コメント

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あっぱれ! (こきおばさん)
2017-12-21 07:22:45
鄭さんの3位入賞、おめでとうございます。
とてもよく書けている作文ですね。先生の指導の素晴らしさを感じます。
若者の悩みは中国も日本も同じですね。
多分鄭さんも一人っ子なのでしょうね。だとすると親の願いは日本より強いのかもしれません。

どうしても年齢の近い親の気持ちになってしまいますが、これから伸びる若者の気持ちを理解することも親の務めなのでしょうね。
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潜在する力 (ブルーはーと)
2017-12-24 15:51:43
こきおばさん様
ありがとうございます。私がこの大学に赴任した時、鄭秋燕さんは2年生でした。この学年の日本語レベルは未だかつて体験したことがないほど低レベルで(笑)、私は普通の2年生になら要求するいろいろなことを諦めざるを得ませんでした。でも、そんな中でも、学生の何人かは個々に努力を重ねており、鄭さんもその中の一人でした。
3年で、(おや、ずいぶん積極的になってきたな)と彼女の変化に遅まきながら気がつき、その後はとんとん拍子に回転し出しました。「変化のきっかけは何?」と聞くと、自分の(勇気を出そう!)という決意だったそうです。
この学年の学生たちを見ていて、失望する時も多々ありますが(笑)、それを補って余りあるのが、学生の奮闘努力する姿です。それを見たくてまだここに居るという状態です。
多くの学生の潜在力は教師が引き出せる部分もありますが、それはほんの少しで、ほとんどの決定的要因はその子自身の心の中にあります。
教師はただ伴走者です。

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中国の女性の人生 (ブルーはーと)
2017-12-24 16:00:58
こきおばさん様
鄭秋燕さんはお兄さんが一人、アモイかどこかで働いているそうです。鄭さんに聞くと、中国では女性の人生コースはただ一つ、「親の傍に住み、結婚して、子どもを産んで、年取ったら孫の世話」だそうです。
ですので、学生にとっては60歳過ぎている私がこの大学にいるのが実に不思議なようで、「孫の世話はしなくてもいいんですか?」と初めのうちはよく聞いたものです。最近は、(日本人は個人主義だから違うんだ)と理解したようで何も言ってきません。

でも、親の立場からすれば、子どもはいつまでも側に居て欲しいんでしょうかね(自分がそうでもないので一般的傾向が良く理解できていません(笑))。
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