今夏、日本では自宅でインターネットが使えず、
数日に一度、近所のマクドでやり手のビジネスパーソンのように
キーボードを打ちまくったりするのが、内心とてもはずかしく、
目立たない小型のタブレット型パソコンが欲しかったが、
ノート型が全然壊れていないというのに次々買うのは贅沢である。
ずっとキャリアウーマン風を装い、100円のアイスコーヒーで
2時間粘るという生活が続いた。
当然、YOU TUBEなんか楽しむ場合ではなかった。
一昨日(26日)、朝6時半に大阪の家を出て、昨日未明に南昌の宿舎にたどりついた。
最近いろいろ問題の多い東方航空が大幅遅延した所為だ。
というわけで、昨日は旅行疲れと部屋の掃除だけでグッタリし、
部屋にいながらにしてブログ更新できるというすばらしい環境を得たにもかかわらず、
ついに、そこにまで到達できなかった。
前置きはここまでにして、
前回「はだしのゲン」騒動のことで書き足りなかったことを
少し足しておきたい。
多くの人々も忸怩たるものがあるだろうが、
今回の松江市教委の対応には、
問題が起きたときの日本人の対応の仕方の悪い一典型が現れている。
彼らは問題を公開せず、臭いものに蓋式の事勿れ主義でやり過ごそうとした。
市教委事務局が教育委員会の会議にも付さず、
勝手に独断で各校に閲覧制限を指示したのがこれに当たる。
また、問題が世間に知れ渡り、批判の声が大勢を占めるやいなや、
また、以前に戻すという処置をした。
報道によれば、ただの一般的な「情報公開の原則」という理由で元に戻したようだ。
即ち、一つの情報として「はだしのゲン」を捉えているということだ。
ここで抜けているのは、「平和教育をどう推し進めるのか」という教育委員会の立脚点である。
そもそも、なぜ、松江市立小中学校の8割の学校図書館(室)に、
今までずっとこの「はだしのゲン」が置かれてきたのか。
初めて図書館に「ゲン」を置いた当時の市教委や現場の学校教師たちには、
積極的な反戦平和教育として位置づけるという意志があったはずだ。
市教委は、いくばくかの市民が「はだしのゲン」を置いていることに意義を唱えたからといって、
なぜ、慌てて閲覧制限などしたのか。
まるで今まで置いていたのが、間違ったことであるかのように。
異論はいつの時代にもある。
反戦平和教育の立場で、きちんと説明したらいいだけだったのだ。
自らの教育理念を抜きに、自己保身ばかり考えている市教委事務局の人たちの
顔を想像してみる。
教育界の先輩方がどんな思いで今まで「ゲン」を扱ってきたのか省みることもなく、
ましてやもう一度日本の近現代を検証することもない今の「教育」委員会の方々は、
一体子どもたちに何を教育できるのだろう。
賛否の声の圧倒的多数は「はだしのゲン」を子どもが自由に読めることを
求める意見だった。
ーーーーーーーーーーーーーー
市教委によると、今回の措置をめぐって22日までに市に寄せられた意見は電話722件、メール1614件、ファクス140件、郵便物60通に上った。賛成が約600件、反対が約1800件という。 (朝日デジタル2013年08月26日)ーーーーーーーーーー
この漫画には、描かれてから40年の歴史がある。
中沢啓治さん(昨年12月に死去。)の6歳の時の体験が元になった
自伝的な内容のこの作品は、650万部以上の売れ行き、20カ国での翻訳という実績がある。
これが閲覧制限反対につながっていることは確かだろう。
マイブログのNo.731にコメントを書いてくれた〈ちょこさん〉は、
私の小学校教師時代の教え子だ。
私自身は漫画「はだしのゲン」を授業で取り上げたことはなかったが、
図書館で自主的に読んだのだろう。
私は彼女の次の言葉を、大切な宝物として胸に収めておこうと思う。
子どもの頃はだしのゲンを初めて読んだ時の衝撃は
今でも思いだせる程です。
でも怖いと感じたからこそ「絶対に二度としてはいけないこと」ということが学べたんです。
子ども達に「見せない」「知らせない」ことで
いつかまた悲しい戦争が起きるのではと思ってしまいました。・・・〈ちょこ〉
(ゆっとくけど、私が書くように依頼したのではありませんヨ)
「こどもの頃、そんな過激な描写に触れさせる必要はない」という意見がある。
その意見への反論も前ブログに書いたが、
あるとき私が直接聞いた、次のような保護者の声をあなたはどう思うだろう。
『うちでは動物は飼いません。
動物は死ぬでしょ。子どもに残酷な死を見せることは教育上良くないです。
だから、絶対犬も猫も飼わないんです。』(当時2年生の子のお母さん)
(死は残酷で、悲しいかも知れない。しかし、お母さんもお父さんも
実は動物で、いつ死ぬかわからない存在では?死は避けて通れない事実なのに・・・。
そして、死があるからこそ「生きる」ことも意味があるのだ。
死を迎えるまでの生が輝くのだ)
と今でも思う。
問題の解決方法は隠すことではない。
話し合うことの方が子供はその残酷さ、悲しさを受け止めて育つことができると思う。
子どもの顔を見ながら、その子が受け止められそうな言葉を、脳みそフル回転で、
一生懸命考えながらフォローするのが大人の仕事だ。
大人が語らずして、誰が子どもに教えるのか。
大人は子供への教育を放棄してはならない。
私の長年の教師人生から得た確信である。
数日に一度、近所のマクドでやり手のビジネスパーソンのように
キーボードを打ちまくったりするのが、内心とてもはずかしく、
目立たない小型のタブレット型パソコンが欲しかったが、
ノート型が全然壊れていないというのに次々買うのは贅沢である。
ずっとキャリアウーマン風を装い、100円のアイスコーヒーで
2時間粘るという生活が続いた。
当然、YOU TUBEなんか楽しむ場合ではなかった。
一昨日(26日)、朝6時半に大阪の家を出て、昨日未明に南昌の宿舎にたどりついた。
最近いろいろ問題の多い東方航空が大幅遅延した所為だ。
というわけで、昨日は旅行疲れと部屋の掃除だけでグッタリし、
部屋にいながらにしてブログ更新できるというすばらしい環境を得たにもかかわらず、
ついに、そこにまで到達できなかった。
前置きはここまでにして、
前回「はだしのゲン」騒動のことで書き足りなかったことを
少し足しておきたい。
多くの人々も忸怩たるものがあるだろうが、
今回の松江市教委の対応には、
問題が起きたときの日本人の対応の仕方の悪い一典型が現れている。
彼らは問題を公開せず、臭いものに蓋式の事勿れ主義でやり過ごそうとした。
市教委事務局が教育委員会の会議にも付さず、
勝手に独断で各校に閲覧制限を指示したのがこれに当たる。
また、問題が世間に知れ渡り、批判の声が大勢を占めるやいなや、
また、以前に戻すという処置をした。
報道によれば、ただの一般的な「情報公開の原則」という理由で元に戻したようだ。
即ち、一つの情報として「はだしのゲン」を捉えているということだ。
ここで抜けているのは、「平和教育をどう推し進めるのか」という教育委員会の立脚点である。
そもそも、なぜ、松江市立小中学校の8割の学校図書館(室)に、
今までずっとこの「はだしのゲン」が置かれてきたのか。
初めて図書館に「ゲン」を置いた当時の市教委や現場の学校教師たちには、
積極的な反戦平和教育として位置づけるという意志があったはずだ。
市教委は、いくばくかの市民が「はだしのゲン」を置いていることに意義を唱えたからといって、
なぜ、慌てて閲覧制限などしたのか。
まるで今まで置いていたのが、間違ったことであるかのように。
異論はいつの時代にもある。
反戦平和教育の立場で、きちんと説明したらいいだけだったのだ。
自らの教育理念を抜きに、自己保身ばかり考えている市教委事務局の人たちの
顔を想像してみる。
教育界の先輩方がどんな思いで今まで「ゲン」を扱ってきたのか省みることもなく、
ましてやもう一度日本の近現代を検証することもない今の「教育」委員会の方々は、
一体子どもたちに何を教育できるのだろう。
賛否の声の圧倒的多数は「はだしのゲン」を子どもが自由に読めることを
求める意見だった。
ーーーーーーーーーーーーーー
市教委によると、今回の措置をめぐって22日までに市に寄せられた意見は電話722件、メール1614件、ファクス140件、郵便物60通に上った。賛成が約600件、反対が約1800件という。 (朝日デジタル2013年08月26日)ーーーーーーーーーー
この漫画には、描かれてから40年の歴史がある。
中沢啓治さん(昨年12月に死去。)の6歳の時の体験が元になった
自伝的な内容のこの作品は、650万部以上の売れ行き、20カ国での翻訳という実績がある。
これが閲覧制限反対につながっていることは確かだろう。
マイブログのNo.731にコメントを書いてくれた〈ちょこさん〉は、
私の小学校教師時代の教え子だ。
私自身は漫画「はだしのゲン」を授業で取り上げたことはなかったが、
図書館で自主的に読んだのだろう。
私は彼女の次の言葉を、大切な宝物として胸に収めておこうと思う。
子どもの頃はだしのゲンを初めて読んだ時の衝撃は
今でも思いだせる程です。
でも怖いと感じたからこそ「絶対に二度としてはいけないこと」ということが学べたんです。
子ども達に「見せない」「知らせない」ことで
いつかまた悲しい戦争が起きるのではと思ってしまいました。・・・〈ちょこ〉
(ゆっとくけど、私が書くように依頼したのではありませんヨ)
「こどもの頃、そんな過激な描写に触れさせる必要はない」という意見がある。
その意見への反論も前ブログに書いたが、
あるとき私が直接聞いた、次のような保護者の声をあなたはどう思うだろう。
『うちでは動物は飼いません。
動物は死ぬでしょ。子どもに残酷な死を見せることは教育上良くないです。
だから、絶対犬も猫も飼わないんです。』(当時2年生の子のお母さん)
(死は残酷で、悲しいかも知れない。しかし、お母さんもお父さんも
実は動物で、いつ死ぬかわからない存在では?死は避けて通れない事実なのに・・・。
そして、死があるからこそ「生きる」ことも意味があるのだ。
死を迎えるまでの生が輝くのだ)
と今でも思う。
問題の解決方法は隠すことではない。
話し合うことの方が子供はその残酷さ、悲しさを受け止めて育つことができると思う。
子どもの顔を見ながら、その子が受け止められそうな言葉を、脳みそフル回転で、
一生懸命考えながらフォローするのが大人の仕事だ。
大人が語らずして、誰が子どもに教えるのか。
大人は子供への教育を放棄してはならない。
私の長年の教師人生から得た確信である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます