毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「アイヌ・・・萱野茂の言葉」 2013年6月14日(金) No.680

2013-06-14 19:19:53 | 
私は和人の子孫だ。
子どもの頃はそれが残念だった。
アイヌ民族の血を引く子は、
目はパッチリと鼻も高く、とても可愛い子で羨ましかった。
大人になったら、もっと残念になった。
和人によるアイヌモシリ侵略の歴史を知ったからだ。
自分が侵略者の子孫なのは、本当に残念だった。
子どもの頃、「北海道旧土人法」というとんでもない名前の法律があった。
1998年にアイヌ文化振興法が出来たのに伴って、ようやく廃止された法律で、
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入

などを中央政府と北海道庁が実行する根拠となった法律である。
これだけでも明治からの北海道「開拓」の内実が分かる。

しかし、それとは別に
和人の子どもだった私は、アイヌ文化の恩恵を受けて育った。
「アイヌネギ=ギョウジャニンニク」「ヤチブキ」は、
和人がアイヌの人たちから食べ方を学んだものだろう。
山を歩き、山菜を採る生活が日常だった私の子ども時代は、
アイヌも和人もなく、
ただ「地の果て=知床(アイヌ語でシレトク)」で生きるヒトの子だった。

「アイヌ ネノアン アイヌ」の著者である萱野茂(かやの しげる)さんは
2006年5月に亡くなったが、
彼がアイヌ民族の人権回復にどれほど力を発揮したかは測り知れない。
下の文章は、1992年に萱野さんが書いたものだが、
私は、今を生きる私たちが、100%噛み締めるべき宝物の言葉だと思う。


「アイヌ・・・萱野茂(萱野茂アイヌ記念館館長)の言葉」

アイヌ民族は自然を神と崇め、自然界と共存共生し慎ましく生きて来ました。

魚、野獣、山菜のどれひとつとってみても必要以上には決してとらず、他の

生きもののために残し、また来年のために置いておくのです。そのような自

然界の巡りをアイヌ民族はよく知っていました。平和なアイヌモシリは、和人

の侵略と開拓によってどんどん荒らされていき、アイヌ民族は一方的に生活

圏の全てを奪われてしまいました。


私はこれまで19回諸外国を訪ね、それぞれの国の先住民族と交流を重ね、

たくさんの話を聞きましたが、日本ほど先住民族の事を何ひとつ考えず無視し

ている国は他にないという事に気づかされました。どの国も侵略した側とされ

た側の間には、何らかの条約があることを知りました。ところがこのでっかい

島、北海道の主であるアイヌ民族と日本政府の間には、条約のかけらもなく、

この事は世界に類例のない暴挙てあります。そしてこの事実は、世界に恥ず

べき事であります。4万5千ヵ所からなるアイヌ語の地名が、北海道はもともと

アイヌの土地であった事を明白自明の事実として、物語っています。ですから

「私達アイヌは、北海道というでっかい島を、日本人に売った覚えもなし貸した

覚えもなし、せめて年貢ぐらい出してもいいでしょう。アイヌの頷有権を認め

ていただきたい」と私は言い続けているのです。



かつて私達アイヌ民族の祖国であるアイヌモシリを侵したのは、あなた方で

はありません。しかし、あなた方の祖先が犯した過ちを正せるのは「今、生き

ているあなた達」です。あなた方の祖先が犯した過ちを正す行為は、決して

恥ずべき行為ではないばかりか、差別のない共生と平等な社会に向けての

出発点であり、日本が国際社会で生きていくための基本であると考えます。



現在世界中で行われている自然破壊の様をアイヌである私はひどく憂慮して

います。巷で「自然保護」が叫ばれていますが、アイヌ語の中に「自然保護」

という言葉はありません。自然、つまり海でも山でも、川でも鳥や獣に至るま

で、もしも□があったなら「人間共よ、自然保護などという大それた言葉を慎

しめ。我々自然は保護される事を望むのではなしに、人間であるあなた達が

ぜいたくをしない限りにおいて、紙にする木材でも、薪でも、家を建てる材料で

も供給できることになっているのだ」と自然の神々はおっしゃるでありましょう。

自然は常に巡っており、生きもの同士がその摂理の中でそれぞれの生命を全

うするはずが、人間共の勝手なエゴや欲望によって、虫達の家や着物を剥ぎ

取り、鳥や動物達の住み家までも奪い去っています。これもまた、侵略です。

ゴルフ場しかり、リゾートしかり、ムダ遣いが原因の森林伐採しかり・・・、例を

挙げればキリがない程どれもこれもです。日本は浪費し過ぎです。天に向かっ

て「面のひっぱがし」です。いずれそれらが、自分たちの顔に降りかかってくる

のです。消費、浪費の大国のまま良き未来を迎える事はありません。


今や、大昔の暮らしに戻る事はできません。ほんの少し数十年昔の姿を思い出

し、ほんの少し戻ればよいのです。夜の明るさも我慢をして、慎ましやかに生活

しようと思ったならば、資本家に対して原子力発電所などというウェンカムィ=

化け物を作る口実は、与えなかったでありましょう。86年、スウェーデンのヨック

モックを訪ねた時、チェルノブイリの事故による、それは恐ろしい話を聞き、そし

て、いつ私共の身に降りかかってくるやも知れません。人類はぜいたくし過ぎ、

もっと明るく、もっと速く、もっと便利に、もっと多くを求め過ぎました。


全ての生きものの生存を可能とする、地球環境の保護こそが、人類が生きていく

条件であり、人間が人間らしく生きていける山を、川を、畑を、村を、町を、子々孫々

に至るまで残さなければならない、と私は考えています。


93年は「国際先住年」です。これは、私達の住むこの地球から、民族的な差別観を

取り除くと共に、侵されて来た先住民族、少数民族の権利回復はもとより、生活や

文化を共に保障する社会を目指すものです。世界の潮流は、少数者がしいたげられ

る時代に終わりを告げる時を迎えており、全ての生きとし生けるものの平和な生存を

約束する、地球環境保護への道に入りました。社会は限りなく求め続けられている

「人間の欲望」を、どう抑制するかの時代にあるのです。これはアイヌも和人も、一人

ひとりが考えて、果たさなければならない事だと思います。



一人ひとりが人間として、正しい歴史を学び直してください。そして、本当の事を知って

ください。日本は、単一民族国家などではない事を知ってください。子々孫々に正しい

事を伝え残し、「人間の住む静かな大地」をよみがえらせ、そして残せる人間の姿で生

きましょう。「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります。アイヌ民族も、ピリ

カシサム(良き隣人)も、心をひとつにして、無知を改め、正しい行動を起こす勇気をもっ

て、大いなる出発をしましょう。それらがペシッ(波紋)となって、世界に拡がりますよう

に、アイヌモシリより心から切望いたします。

「夜明けへの道」 人間家族 特別号 より引用

http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Ainu.htm







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「アイヌの昔話『二つ頭のクマ』完結編」 2013年6月13日(木) No.679

2013-06-13 18:57:25 | 文学
「アイヌ」とは北海道の先住民族である。
アイヌ語で「アイヌ」とは「人間」という意味だが、
〈アイヌコタンでアイヌという言葉はとても大切な言葉で、
行いのいいアイヌだけを「アイヌ」と言い、
病気でもないのに働きもしないで、ブラブラしているような者は
ウェンペ(悪い者)と言うのです〉

と、萱野茂さんは「アイヌ ネノアン アイヌ」の文中、語っている。
和人の松前藩が現在の北海道を侵略する前、
その地は「アイヌモシリ」と呼ばれ、アイヌ人たちの土地だった。
「アイヌ=人間」「モ=静か」「シリ=大地」、即ち「人間の静かな大地」だ。
アイヌの昔話には非常に多くの神々が出てくるが、
人間と神との関係は対等なのが話の内容から分かる。
昨日、少年がシロハリガネムシの神に助けを求めたとき、
「もし、(私を助けないせいで)死んだら、私の屍から出る悪臭は、
霧となって神であるあなたを悩ませるであろう」

と、ほとんど脅迫めいた言葉を発している。
神様も溜まったもんじゃないので、助けに来たが、
その神様の風貌についても、
「そんなに強そうではない若い男」と描写しているのも面白い。

それにしても、ヨモギはすごい。
この地上に一番先に生えた草だとは!(双子葉類で、という意味かな?(^O^))
あの独特の香りを嗅ぐと悪霊が逃げていくというのも納得だ。
頭がスッキリするんだよね、あの香りは。
ヨモギ餅にしても美味しいし~

さあ、あの後少年はどうなったのでしょう。
「二つ頭のクマ」完結編の始まりはじまり。

気がつくと、太陽は西に傾いていました。
姉たちが心配しているだろうと思った私は、何事もなかったような顔をして、
姉たちのところへ大急ぎで戻りました。
姉たちは、
「全く心配をかける弟だ。一体どこへ行っていたの?」
と、私を叱りつけながら、ウバユリを背負って家に帰ってきました。
家でも父や兄たちが、私が家を抜け出し、山へ行ったことを心配しており、
私を連れて行った姉たちが、うんと叱られてしまいました。
父の言うことには、一番末っ子に生まれた私は、神から授かった子なので、
めったに外に出してはいけない子だったということです。
その上、姉たちと私が、人食いグマのいる山の近くに行ったことで、
なお心配していたのでした。

その晩、私は今日の出来事を父たちに一言も話さず寝てしまいました。
ところが次の朝、まだ夜も明けないうちに父や兄たちは、起きてくると、
「昨日の出来事をなぜ黙っていたのだ。
私たちはそれをシロハリガネムシの神様から夢で知らされた」
と言って、太い木の火箸で、私の尻っぺたをぶちました。
「昨日聞かせてくれたら、すぐに神様たちにお礼を言うことができたのに」
と言いながら、父たちはさっそく酒を醸し、イナウを削り始めました。
酒とイナウができると、それをハンノキの神、ヤチダモの神、
シロハリガネムシの神に捧げて、丁寧にお礼を言ったのです。

神は、私が何も知らないうちに、私をして恐ろしいクマに言い掛かりをつけさせ、
私が神々に助けを求めるように仕向けたのです。
こうして神々は、私を使って、見事にクマを退治しました。

その後、私は美しいお嫁さんをもらい、
たくさんの子供に恵まれて、楽しく暮らしていますと、
一人のアイヌが語りました。

文:萱野茂「アイヌ ネノアン アイヌ」(月刊「たくさんのふしぎ」No55福音館書店)
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「アイヌの昔話の中の蓬(ヨモギ)」2013年6月12日(水) No.678

2013-06-12 19:29:57 | 文学
江西省のこの辺りでは、端午節には粽子(ちまき)を食べ、蓬(ヨモギ)を飾る。
以前書いたことがあるが、私は子供の頃からヨモギがヒジョーに好きである。
江西省のこの風習を聞いてたいへん嬉しく感じたのは言うまでもない。
しかし、ヨモギについての話は
我が故郷北海道にもある。
ヨモギは国境を超えて、人々にとっての特別な草なのだな。
(下の写真は、宿舎の外にちょっとだけ生えていたヨモギと、ヒメジョオン)


―大好きなヨモギが出てくるアイヌの昔話―
(アイヌの人々のウウペケレ(昔話)より)

「二つ頭のクマ」
 
父がいて母がいて、大きい姉がいて小さい姉がいて、大きい兄がいて小さい兄がいて、
私は一番小さい男の子でした。
私が山を走り回ることができるぐらいの少年になったころ、
人間6代目ごとに出てくると言われている人喰いグマが、遠くのコタンに出て、
コタンの人たちを攫(さら)っていくという話を、父や兄たちがしていました。
そのクマの姿を見た人はいないので、どんな姿のクマなのか、誰もわからない
ということです。私はいつかそのクマの出るところへ行ってみたいと思いましたが、
誰も連れて行ってくれる人がありません。

そんなある日、姉たちがウバユリを掘りに山へ行くという話を聞きました。
私は誰にも気づかれないように、強い弓と毒を塗った矢を入れた矢筒を、
山へ向かう道の脇に隠しておきました。それから、姉たちが家を出ると、こっそり
ついて行って、途中隠しておいた弓と矢筒を背負うと、姉たちに追いつきました。
姉たちは私を一人で返すわけにもいかず、一緒に連れて行ってくれました。
しばらく行くと、ウバユリが葉と葉を重ねるように生えているところに着きました。
姉たちは私に「ここにいるんだよ」と言うと、そこに袋を置いてウバユリを掘り始めました。
私は弓を持ち、矢筒を背負うと、山へ向かって走り出しました。

姉たちの姿も見えない、声も聞こえないところまで来ると、広い湿地がありました。
何やらゴチャゴチャと歩いた跡があります。よく見るとクマの足跡です。
そこで、ゆっくりと用心深く進んで行くと、湿地の中ほどにハンノキとヤチダモの木が
2本並んでいました。2本の木は、まるで腕を組み、肩を寄せ合っているように見えました。
立ち姿の美しい、見るからに神様らしい木でした。
私はその木の下で丁寧にオンカミ(礼拝)をしながら、
「私は今から恐ろしい人食いグマを退治に行くのです。
立ち木の神様、どうぞ私を守ってください」
と言いました。すると、私の言葉が分かったように、2本の立ち木は枝を震わせました。

なお進んで行くと、湿地のはずれに白いものがうず高く積まれているのが見えました。
近づいて見ると、人間の骨の山でした。古い骨は風雨に晒されて真っ白になり、
新しい骨にはまだ赤い血がついていました。
ここが人食いグマの住処に違いありません。これほどたくさんの人を殺すとは許せない。
退治してやる。そう心に誓いながら近づいていくと、
穴があり、中で何かが動く気配がしました。
私はサッと穴の口の上へ行くと、ドシンドシンと足を踏み鳴らし、大声で怒鳴りました。
「さあ、出て来い、化け物め!どんなわけがあってこんなにたくさんの人を殺したのだ。
たくさんいる神々も、知っていながら放っておいたとすれば許さないぞ!」
すると、穴の中から歯ぎしりの音に混じって、ゴザを編む時に使う小石を袋に詰めて
大地に叩きつけたような、ものすごい足音が聞こえてきました。
「さあ、出て来い!」とさらに怒鳴ると、
その声に弾かれたようにクマが飛び出してきました。

なんと、それは今までに見たこともないクマでした。
前と後ろに頭があって、それぞれの頭の額には、アット゜(註)を織る時に使う
ヘラのような角が生えている化け物グマです。
化け物グマは、まっすぐ私の方へ向かってきました。私は弓につがえていた矢を1本、
ビシッと放ちました。矢はクマの身体に当たったのに跳ね返ってしまいました。
矢の跳ね返り具合を見ると、普通ではありません。
よく年寄グマがすると言われていることですが、
身体に松脂を塗り、土の上を転がって、また松脂を塗る。
そして、今度は落ち葉の上に寝ると、クマの毛が松脂と土と落ち葉で固まり、
鎧のようになって、矢が通らなくなるのです。 
こういうクマを倒すには、ただ1ヶ所、足の付け根を狙うしかありません。
そこには松脂が付いていないので矢が刺さるものだと
父や兄が話していたのを聞いたことがありました。

一の矢でしくじった私は、逃げながら追ってきたクマを目がけて、さらに1本、2本と
矢を放ちましたが、やはり跳ね返されてしまいました。
今にも跳びつかれそうになったちょうどその時、向こうの方に、
さっきのハンノキが見えました。私は自分より先に言葉を走らせ、助けを求めておいて、
最後の力を振り絞って、ハンノキに向かって走りました。

追ってくる化け物グマの吐く息で髪も乱れ、背中も熱くなったとき、
ようやく、ハンノキの下に着きました。
「神様、助けてください」と祈りながら下枝に跳びつくと、
足をくるっと枝に巻きつけ、さっと枝の上に立ちました。
追って来たクマは力余って走り過ぎましたが、すぐに引き返して来て木の上を見上げ、
額の角を振り立てて、ハンノキに突き掛かってきました。
1回、2回と、木に角をたてると、木は大きい板や小さい木切れになって飛び散りました。
柔らかいハンノキはたちまち細くなって、今にも倒れそうになりました。
私は隣のヤチダモの木の飛び移ろうとしましたが、ハンノキがグラグラ揺れるので、
なかなかできません。そのうち、ハンノキはメキッメキッと音をたて始めました。
このままでは、いずれ化け物グマの餌食になってしまうと思った私は、
絡まり合っている2本の木の細い枝を足場に、1歩1歩とヤチダモの木へ渡り始めました。

クマはなおも、角を振り立てて板や木切れを飛ばし続けています。
もうこれまでと、私は目をつぶってヤチダモの枝へと飛び移りました。
が、片足を枝から踏み外し、落ちそうになりました。
その足に化け物グマの吐く息がかかりましたが、私は何とか足を枝に絡ませ、
枝の上に立ち上がることができました。
その時、ハンノキがドサアッと倒れました。

化け物グマはいよいよ猛りたって、今度は、ヤチダモの木に向かって突進を始めました。
2度、3度と繰り返すたびに、硬いヤチダモの木も、
根元から割り板のような木切れが飛び散ります。
私は身体を枝にしっかりと巻きつけ、背中の矢筒から矢を抜き、
1本、2本と矢を放ったのですが、矢はクマに当たってもカチンと跳ね返るばかりです。
ヤチダモの根元もだんだん細くなってきました。

矢はとうとう残り1本になってしまいました。
この矢は、矢筒の魂とも、矢筒の守り神とも信じられている矢で、
どんな時でも、最後の最後まで、矢筒に残しておくものなのです。
私はこの最後の矢に全ての望みをかけて、弓につがえ、
まるで綱をつけて振り回されているように動き回るクマの、動きに合わせて、
矢の先を回し、狙いすまして、矢を放ちました。

神の助けもあったのでしょう。
矢は矢羽根も埋まるほど、クマの足の付け根にブスッと刺さりました。
クマは一瞬ひるんだように見えましたが、前より一層勢いを増して突進してきました。
これは、矢に付いた毒の効き目で一時だけ力が増したからです。
このままでは、毒が効いてクマが死ぬまでに、ヤチダモの木が持たない、と思ったとき、
まさか私がそんなこと言うとは思わなかったのに、私の口からこんな言葉が飛び出したのです。
「この湿地を守るために、天の国から降ろされたシロハリガネムシの神よ、
私を助けてください。もし、ここで私が死んだら、私の屍から出る悪臭は、
霧となって神であるあなたを悩ませることでしょう」

すると、白い小袖を重ね着した、あまり強そうにも見えない若い男が、
どこからともなく、ヨモギの槍を持って現れました。
この男が、襲いかかってくるクマを軽く2度か3度、その手にした槍で突くと、
不思議なことに、化け物グマの体は見る見るうちに溶けて、
白骨になって崩れ落ちてしまいました。
クマが溶けるのを見ると、若い男は、すうっと消えてしまいました。
この男こそ、シロハリガネムシの神様だったのです。
あれほど恐ろしい化け物グマを、ヨモギの槍1本で溶かしてしまった
シロハリガネムシの神様の強さに、私はすっかり驚いてしまいました。

それに、ヨモギの効き目にも驚きました。
ヨモギは、一番初めにこの地上に生えた草なので、ヨモギで作った刀や、
槍には、魔力があるとは聞いていたけれど、
これほどの力があるとは思ってもいませんでした。
(続く)
萱野茂 文「アイヌネノアンアイヌ」(月刊「たくさんのふしぎ」福音館書店)


(註)アット゜:アイヌの伝統的織物。「ト゜」は日本語にない文字だが、歯を噛み合わせ、舌を上の歯に押し当てて息を吐き出す発音を表す。





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「中華と日本のコラボ料理パーティー」 2013年6月11日(火)No.677

2013-06-11 20:35:02 | 中国事情
端午節休みの今日、2年生6人が故郷の料理を作ってくれるということで、
材料を持ってやって来た。
下の写真は河南省や山西省でよく作られる蒸し饂飩(うどん)。
2年生の楊文雅さん・王聡ゆさんは河南省出身で、
二人とも、家の手伝いをしている子たちなので、こんな大作ができる。
蒸した饂飩にササゲ豆やトマトが入っていて美味しい。
味の決め手はトマトの酸味だという。


焼きナスの炒め物作りに時間が掛かり(何しろこだわりの料理人たちなので(^O^))
11時過ぎから作り始めて1時頃ようやくお食事会が始まった。
時間をかけて作っただけあって、焼きナス(といっても日本で言えばナスの天ぷら)とトマト、玉ねぎ、ピーマンやらの炒め物は、なかなかの出来具合だった。
王聡ゆさんと二人でせっせと作ってくれたこだわり派の譚松さんは、
「ネギがあればより美味しい」とか「トマトの酸味がもっと欲しかった」と、
立派な料理人発言をしていた。なるほど、言われたらそのとおりだ。
それにしても、今日の料理は超豪華。


蒸し饂飩にちょっとだけごま油を入れると、これまた美味しい!


食べながら、ためになる話・面白い話がいろいろあったが、
それは後日紹介することにして・・・。


お腹いっぱいになりました。


夕食にもう一度蒸して食べた蒸し饂飩。
味が染みて、さらに美味しくなっていた。
ついでだが、中国では食前、箸を縦に置くのが作法とのこと。
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「日本の人たちは福島甲状腺ガンの勃発を知っているの?」2013年6月10日(月)No.676

2013-06-10 14:02:14 | 原発事故
日中戦争や太平洋戦争の間、ずっと、日本政府は国民に
「この戦争は正義の戦争だ。日本は勝ち続けている。」
と言い続け、国民を騙していた。
国民の多くは、1945年の敗戦までその大本営発表を鵜呑みにしていた。

今、それと同じ状況が、日本国内で起きている。
17万4千人の福島の子どもたちのうち、
12人が甲状腺ガンであることが確定し、
さらに15人にガンの疑い(細胞診検査)があるという。
(6月5日福島健康管理調査委員会の発表)
ここで言う「疑い」とは
福島健康管理調査委員会責任者:鈴木真一福島医大教授によると、
「細胞診検査の制度(確率)は9割」だという。
つまり、17万4千人のうち27人弱の子が甲状腺ガンであるという結果が出たのだ。

注)従来の発症率は、未成年100万人に1人程度と公表されている。
また、年齢を15歳から19歳に限った場合、全国発生率は100万人に5人(1975年から2008年)、
年齢15歳から24歳における平均全国発生率は100万人に11人(1975年から2008年)というデータもある。

未成年全体の100万人に1人という平均と比較すると、
この17万4千人当たり27人弱の発症は約155倍
になるのは、小学生でも計算できる。
従来の全国平均の155倍もの発症率で、
福島の子どもたちが甲状腺ガンに冒されているという事実。

これはあらゆる新聞、テレビ、雑誌、ネットニュースのトップに扱うべき事実である。
にもかかわらず、メディアはそうしない。
国民は、この重大な意味を知らされていない。
地元福島の新聞には下のような記事が載った。

「8歳以下は0人でよかったね~」
「原発事故の影響じゃないんだって。よかったよね~」

と言っているとしか思えない記事だ。
(いや、あの、それで終わるつもり???)
と誰しも思うだろう。
平均より155倍もの発症率を
「とにかく、たいしたことないんだって。良かったよね~」
と、大本営発表に加担し、
国民をゴマかすつもりのマスコミ。
どこまで庶民を馬鹿にするのか。

為政者も、これらのマスコミのヒトたちも、
自分の身に降りかからなければ、誰が死のうとどうでもいいのだ。
戦時中、軍隊の上層の人間たちは、美酒を飲み、たらふく食べていたが、
その時、戦い現場に追いやられた庶民の男たちたちは、痩せこけて、
日々、他人を殺すか、さもなくば自分が死ぬかの選択しか許されなかった。
さらに、戦場の慰安婦たちは、一日何十人もの男の慰み者になるか、
舌を噛んで死ぬかの選択しか許されなかった。
支配者にとって、庶民の命なんか虫けら同様の意味しかないのだ。
今も、全く、全く、全く同じだ。


福島の子どもたちが、
「ぼくはおとなになれますか?」
と尋ねる声は、誰が聞くべきなのか。
原発を作って稼働させてきた、
そして、それを許容してきた大人たち全てに向けられた言葉なのだ。
今は、全国の子どもたちにガン検診を実施しなければならない事態ではないのか。
国内の子どもの数が減って困っているなら、
せっかく生まれて、育ちつつある子どもたちの命を大切にしないとダメじゃないか。
日本、しっかりしてよ!







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「清明節と端午節を一緒くたにいただく」 2013年6月9日(日) No.675

2013-06-09 20:22:05 | 中国事情
三日間の端午節休暇が明日から始まる。
そのために昨日・今日は労働日で、今日は私も授業があった。
代替であろうと、なんであろうと、
日曜日に労働をすると、私は頭痛・肩こり・樋口一葉みたくなる。
不服なので精神的にド~~~ッと疲れるのである。

宿舎に帰って何か簡単に食べられそうなものは・・・と、冷蔵庫を開けると、
あった、あった。
清明節のとき、お墓参りで景徳鎮に帰った劉慧さんが
自分で作った餃子風ヨモギ餅(ああ、名前を忘れた。劉慧さん、このブログを見ていたら教えて~)を、お土産で持ってきてくれたものだ。
お客さんと一緒にパーティーで食べようと冷凍しておいたのを
すっかり忘れて出さなかったんだった。
これも、(自分ひとりで美味しくいただきなさい)という神の思し召しかも。
というわけで、ヨモギ餅を蒸して食べることにした。
さらに冷凍室には、
まさに端午節の食べ物として有名な粽子(ちまき)もなぜか1つだけあった。
そういうわけで、今日は清明節と端午節を一気にお祝いした。
(「子どもの日」におせち料理を食べるようなもので、
食の伝統がぶち壊しになりかねない。
みんなは真似をしないでね~

劉慧さん手作りの「餃子風ヨモギ餅」


中身はピンボケでよく見えないけど、筍、肉などが入っていて、
しかも、私の大好きなヨモギ(蓬)の香り・・・。ああ、幸せ~


この粽子(ちまき)は、南昌市内の某有名手作り店のであ~る。
肉が入っていてこれも美味しかった!
笹の葉が贅沢に二重になっている。太っ腹だ。
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南昌日本語コーナーに90歳の学徒」 2013年6月8日(土) No.674

2013-06-08 22:13:15 | 中国事情
今日、一人で八一公園の日本語コーナーに行った。
財大生はテスト真っ最中、
しかも今日・明日は来たる端午節休暇(10日~12日)の振替授業で、
財大生どころか、どこの学生も来ていなかった。
江西科技学院3年生の張葉妃さん以外は・・・。
張さんとマンツーマンでぺちゃくちゃ喋っていると、
その後、博堅先生が到着、
さらにその後、一人の涼しげな風情の年配の方がいらっしゃった。
その方は、旧満州帝国新京(現長春)野戦病院院長で外科医だった
蔵学科(ぞう がっか)さんとおっしゃる方だった。
不思議な清潔さを感じさせる風貌、
満州国の学校で強制的に学ばされた見事な日本語。
お歳は90歳だという(つまり、1923年生まれ?)。
日本語コーナーに行くと、
本当に歴史の生き字引のような方々にお会いする機会がある。
80歳の博堅先生がちょっぴり若者に見えたりして。(^O^)

しかし、今日の本物の若者代表、科技学院の張葉妃さんも負けてはいず、
博堅先生の質問に、
ロシアのゴーリキー、プーシキン、トルストイ、
フランスのビクトル=ユーゴー、中国の魯迅、どこかの国のアンデルセン、グリム兄弟、
と、まるで名前当てクイズみたいにやたら名前を挙げて応酬していた。
張さんは日本のアニメはほとんど見ないが、
宮崎駿の作品は全部観たと言う。
『河童のクウと夏休み』をリコメンドすると
「それももう観た」との返事。
(クルクル)←舌を巻く音。
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「日本語が好きで、好きで・・・」 2013年6月7日(金) No.673

2013-06-07 22:02:33 | 中国事情
日本語学科の多くの学生たちは、
将来の就職に有利であると考えて日本語を学んでいる。
そうした学生たちの中で、ときどきだが
「日本語が好きで、好きでたまらない」
という学生に出会う。

初めてその言葉を聞いたときは、耳を疑い、
その言葉をも疑った。
ほかの国ならいざ知らず、
ここは中国、近・現代史に刻まれた深い深い傷は
「日本語が好き」という言葉と相容れないのでは、と
日本語を教えている自分からして思うのに、
なぜ、そんな風に感じることができるのだろう。

「どうして好きなんですか」
と聞くと、
「自分でもわからないんです」
「ただ、ただ、日本語を話したくてたまらないんです」
という応えが返ってくる。
彼女ら、彼らの特徴は、
非常に真面目に集中して学習する子たちだ、ということだ。
スタートは個々様々な理由があるにしても、
とにかく始めてしまったからには、ひたすら一生懸命頑張るタイプだ。
その子達の多くは、
日本語学習のスタート地点では、英語がかなり得意だったという。
しかし、2年、3年と日本語ばかりに集中しているうち、
外国語イコール日本語になって、英語は日常会話もろくにできないほど
後退してしまうらしい。
全身、すっぽり日本語のシャワーを浴びているうちに
感覚的にすうっと入った状態になるのだろうか。

母語以外の言語を自由に話すことができたら、
それはとてもカッコイイ。
そうした感覚は中国でも同じだ。
日本語の達人たちは、クラスメートや後輩からの尊敬の的になる。

そうした日本語の達人たちのほぼ全員は、
日本人や日本文化に胸を開いて受け入れてくれる。
言語を学ぶということの「奇跡」を思わずにはいられない。

今日は、そんな日本語学習の達人の一人、
卒業したばかりの洪文芳さんと、
同じく卒業生の劉宏威さん、羅浩さん、劉鶴さんが
3年生の後輩たちに進学や就職についての自分の体験を話しに来てくれた。
先輩から後輩への精一杯のアドバイスの会も、
これで3回目だ。
卒業生たちが急に大人に見える時期がまたやってきた。
もう、お別れだ。





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「江西財大日本語学科自慢ー朱小紅先生編」 2013年6月6日(木)No.672 

2013-06-06 21:40:41 | 中国事情
昨日は財大日本語学科の学生自慢?をしたが、
今日は先生のことを書きたい。
今まで、3年間この大学で働いてきたが、
周囲の大学の日本語教師の方々にお聞きすればするほど、
私は、いい先生たちのいる職場に恵まれたと感じている。

(その1)
昨秋、中国全土を覆った反日の嵐の際、
多くの学校では日本人教師を保護する対策を講じた。
その中でも、江財大は徹底していたと思う。
2週間のタクシーでの送迎(日本語学科の中国人教師がローテーションで付き添い)、
その後の夜の校内日本語コーナー終了後も、全てタクシーで帰宅(現在まで続いている)。

(その2)
日本語教師への執務室提供。
私の前任者までは、執務室を必要としていなかったか、
我慢していたようだったが、
私の赴任時より部屋が提供されるようになった。
初めの部屋は一階の超ジメジメした虫の館で、冬は寒くて我慢できず、
春の梅雨時は入るなり床が濡れていて滑って転ぶほどだったが(誇張じゃな~い!)、
そこから、ジリジリと、
中古の電気ストーブ設置(まもなく故障)→中古のぼろエアコン設置(すぐ故障)
→ややましな中古エアコン設置(まもなく故障)→中古のパソコン設置(湿度がひどくて故障)と、紆余曲折を経て、
今は二階の全くジメジメしていない、蚊も本当に少ない、
壊れていないエアコン&パソコンが設置された、
カビ臭さとは無縁のキレイな部屋(資料室)に引っ越し、快適ライフを送っている。
前前任者の大竹先生は、朝、授業して、午後また授業があるときは、
急いでミニバスか市バスに乗って蛟橋園の宿舎まで帰り、昼食後少し休憩して、
また麦盧園までバスで戻るという日々だったそうだ。

こうした待遇が保障されるようになったのは、
ズバリ、我がボス、日本語学科主任の朱小紅老師のお蔭だ。
(その1)では日本語学科の先生方のみならず、
外国語学院の責任者や、私の宿舎のある外事処主任などと連絡を取り合って
体制をキッチリ作ってくださった。
タクシーでの送迎は朱先生のアイディアだ。
聞けば某N大学などは、タクシーではなく、
赤い2人乗り自転車で迎えに来てくれ、
日本人教師は後ろに乗って自らペダルを漕いで職場に向かったそうだ。
他にも、自宅近くのスーパーで買い物をしてきてくれたり、
キャンパス内のスーパーに付き合ってくれたり、
本当に親身になってお世話いただいた。
今でも、その時のことを思うと、ありがたくてたまらない。
朱先生は、激しい反日行動で私の生活が規制される事態になったことを、
「こんなことになって、申し訳ございません。」
と、自分の所為でもないのに言ってくださった。
中国人にとって「申し訳ございません」というのはそんなに気軽な言葉ではない。
朱先生の熱い心を感じて、ジーンとなった。
(その2)についても、
外国語学院の院長(日本語で言うと、外国語学部の学部長)に対して、
私の待遇改善のために粘り強く交渉してくれたのは朱先生だ。
朱先生が何度も何度も、しつこく交渉してくれなければ、
私はまだ、あの一階の虫の館で、ナメクジとともにジメジメ暮らしていたことだろう。

(その3)
朱小紅先生は、今、自分のクラスの学生が骨折したことで
また、学院と交渉を重ねている。
外国語学院主催のバスケットボール大会での事故なので、
責任は当然大学の外国語学院にある。
しかし、こういうケースで保険代以外の治療費を
大学が全額カバーする姿勢は従来全くなかった。
何とか、学院に責任を取らせるために、
お金のことで自分の学生が泣くことのないように奮闘する朱先生。

こんな先生のいる職場で働くことができたのは、
本当に幸せだ。
朱先生の息子さんは今週末、大学入試の正念場を迎える。
親子で戦ってきたのだ。
いい結果が出ることを祈っている。





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「江西財大日本語学科の『アホアホ・パワー』」 2013年6月5日(水) No.671

2013-06-05 20:19:36 | 中国事情
こう言っては自慢ぽいが、
江西財経大学は江西省ではトップランキングの大学だ(そうだ)。
日本語学科の学生たちにも
(ああ、教師の望む答えを上手に言えるなあ)と
感心する学生が多い。
それらの学生たちは、もちろん絶対ハメを外さない。
常に正統派の答えを言うので、面白くないとも言えるが、
外さない答えがソコソコ返ってくることに
満足も覚える。
しかし、そんな江西省的優等生の多い江西財経大学日本語学科にも、
起爆剤的『アホアホ・パワー』を発揮する学生が生息しているのを
今日発見した。

今日は二学期末テストの初日。
1年生の会話テストだった。
2,3人で創作会話をするよう数週間前に指示しておいた。
10組中、9組が創作した会話を点検してくれるように
メールを送ってきたり、執務室である資料室に直接来たりしたので、
私は事前に内容を知っていた。
さらに、その9組は発音・アクセントチェックも依頼してきたので
今日は、非常によく知っている内容で、
実力もほぼ完璧に把握していた。
1組を除いては・・・。

その1組とは、はっきり言って実力的に最も心配な3人の寄せ集まりだった。
どんな会話をするのか、ぶっつけ本番で今日に臨んだ3人は、
全員男の子で、授業では常に教室の最後尾にひっそりと座っていた人たちである。

発音・アクセントはどうしようもない。
しかし、会話は今まで聞いたどのグループのより生活感覚あふれる
面白いものだった。

題して「寮生活」。
A: あれ、Bさんの寮の部屋は誰がいますか。
(突然とんでもない単語が!)
B: Aさんはボンクラですね。C、D、Eさんですよ。
A: ああ、そうですか。寮はどんなルールがありますか。
C: 女性は男性寮に来られます。でも、男性は女性寮に行ったらダメです。
  不公平ですね。
A: ひどい。私たちは悪い人じゃない!
B: 部屋で靴を履いてはいけません。
A: ええ?どうして?
C: 足の味が良くないですから。夏は特に。
B: そうです。
  そうそう、大声で歌ってもダメですよ。
A: 下手な歌はうるさいですからね~。
・・・・・・・・・

とまあ、こういう話が5分弱続くのである。
足の味が良くないって、一体・・・。
そう言えば、思い出した。
小学校でも、意図せず人の笑いを引き出す子どもたちは
あまり成績がいい子たちではなかった。
しかし、私は彼ら、彼女らがどれほど可愛かったことか。
もちろん、さんざん笑わせてもらったんですけど~(^_^;)


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「詭弁の弄し方② 安倍晋三の場合」 2013年6月4日(火)  No.670

2013-06-04 20:17:41 | その他情報
安倍晋三は今の日本の総理大臣だ。
私は海外で、日本の悪口をできるだけ言わないようにしている。
私の故郷のある日本をよく思ってもらいたいからだ。
そうは言っても、
ときにはどうしても、言わざるを得ない場合がある。
それを言わないと、日本という国が誤解されると思うときだ。
安倍晋三やら橋下徹やらを日本人皆が支持していると勘違いされないように、
日本の恥を敢えて話題にするため、重い口を開かざるを得ないのだ。

4月22日に安倍首相は参院予算委員会で
「戦前の日本による植民地支配と侵略」について謝罪した村山富市首相「談話」(1995年)について
「安倍内閣として、村山談話をそのまま継承しているわけではない」
と答弁し、さらに翌23日にも同委員会で、
「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」
と発言した。
村山談話を否定したこの安倍晋三発言に対して当然、
「非を認めぬなら未来はない」と中国、韓国の反発は大きかったが、
安倍は安倍で、「脅しに屈せず」とか言って頓珍漢に突っ張っていた。
で、これだけならいつものことだが
今回は同盟国アメリカからも厳しい批判が沸き起こった。
ニューヨーク・タイムズは
「日本の不必要なナショナリズム」と厳しい口調で批判した。
その後、橋下大阪市長の慰安婦必要発言が続き、
それに対して、批判は既に世界規模でなされている。
安倍首相はその流れに対して、
下記の如き詭弁を弄した。

 安倍晋三首相は(5月)15日の参院予算委員会で、
第2次世界大戦を含めた過去の中国との関係について
「日本が侵略しなかったと言ったことは今まで一度もない」と明言した。
過去の植民地支配と侵略を認めた村山富市首相談話に関しても継承する考えを示した
村山談話をそのまま踏襲しないなどとした従来の発言を軌道修正した。
首相の一連の歴史認識発言に中国、韓国が反発米国内にも疑問の声が上がっており、
収拾を図る発言とみられる。
(共同通信)2013/05/15(水)

蛇足的だが、もういい加減にしてほしい日本の政治家の恥さらしは
さらに猪瀬東京都知事のトルコ差別発言へと引き続く。
もう、猪瀬の詭弁まで取り上げる気にはなれない。

今、日本は、世界中から非常に注目されている。
(もちろん、悪い意味で)
この状態をどう打ち破るか。
て言うか、こんなめちゃくちゃでは打ち破れるかな、
と弱気になる。
多くの良識ある日本国民はどれほどがっかりしたり、
呆然としたりていることだろう。
そうは言っても
国民は国民で考えるしかない。







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「トロント姉妹のお父さんー朱紹文氏」 2013年6月3日(月) No.669

2013-06-03 17:48:44 | 中国事情
昨日の続き。
朱柔(ローズ)・朱真(ジェーン)姉妹は深い教養のある女性たちだった。
1946年と1948年生まれの二人は、覚えきれないほどの肩書きがあって、
そういうのに疎い私は何回聞いても覚えられない。
どうもスミマセン状態だが、
歴史の激動期を生きたご両親の子どもとして、
下放やら留学やらカナダ移住やらと、波乱万丈の人生を歩んできた。
二人の話を聞いていると、
中国では歴史が自分のすぐ傍で息づいているのを
またしても感じる。
(日本の多くの人々は歴史というものを
全て江戸時代か平安時代みたいに思っている気がするが、
ここでは逆に、人々はつい昨日のことのように歴史を認識している)

二人のお父さんのことを調べてみた。
奇遇なことに日本僑報社
(作文コンクールでいつも応募しているお馴染みの交流出版社)の
日本僑報電子週刊 第295号 2003年04月02日(水)発行に次のような文が!


●特別転載★『あのころの日本』を読んで/東京都日中副理事長片岡健

留学生活を送る中国青年たちの琴線に触れた恩師、街、庶民‥‥
─若き日の留学を語る─
『あのころの日本』を読んで

 この本はおおむね昭和の初期から日中戦争の少し前頃にかけて日本に
留学した、中国人16人の体験談を口述筆記でまとめたものである。取材
対象は留学生といっても趙安博、米国均、林林、蕭向前などのそうそう
たる顔ぶれで、みな当時の大陸侵略の風潮と軽視偏見の中で耐え抜いて
勉強し、中国に戻ってから各界の指導的な立場で活躍した人々である。

 一読してとりわけ強い印象を受けたのは、一高・東大で経済学を専攻
した朱紹文の話。のちに東大総長もした大河内一男に師事し、同期に隅
谷三喜男や中曽根康弘がいたというのも奇縁だが、大変勉強熱心で優秀
な学徒だったことが窺える。

 昭和19年5月になんらの容疑もないのに特高警察に捕らえられ、残虐
非道な拷問を体験したすえに、奇跡的に無罪釈放になったくだりが昨日
のことのように詳しく語られる。


という行があった。そう言えば、二人の話の中にも
お父さんが日本にいたときに特高に逮捕されたという言葉があった。
1945年、中国に帰った朱紹文氏は、
その後経済学者としてたくさんの大学で教えた。
中華人民共和国建国後、
反右派闘争で大変な辛酸を舐めたが、
「He's survived.」ということで、
2011年まで、ほぼ97年の人生を生き抜かれた人である。

「あの頃の日本」―若き日の留学を語るー    
鐘少華編著 
竹内実監修 
泉敬史・謝志宇訳 
日本僑報社刊     定価2800円 
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「台湾と中国(本土)の雰囲気」 2013年6月2日(日)No.668

2013-06-02 22:35:15 | 日記
昨日(6/1)、中国系カナダ人の姉妹の話を聞く機会があった。
お姉さんはトロント大学で中国語などを教え、
妹さんはトロントのノバスコシア銀行で銀行スタッフに経済学を講義していたという
たいへんアカデミックな60代の姉妹だ。
二人のお父さんは、日本の一高に留学し、その後旧東京帝国大学に進学して、
大河内一男助教授(当時)のゼミ学生だった。
同級生に中曽根康弘がいた(一緒に写っている写真があった)。
他にも都留重人や大塚久雄、隅谷三喜男と共に
それぞれツーショットで写っている写真も見せてもらい、
何たる顔ぶれ!と空いた口がふさがらなかった。
妹さんは東京女子大大学院に留学したが、
その時の身元保証人は大河内一男さんだったという。
そんなにも高名なお父さんなのに、
私は朱○○と、名字しか覚えていない。<(ToT)>・・・註

で、その姉妹は、今回カナダのトロントから
生家のある北京→四川省九寨溝→台湾→江西省南昌市へと
長旅を続けて、明日また北京へと移動するそうだ。

私は台湾に行ったことがない。
メインランドと比べてどうだったかを聞くと、
意外に「ん~、まあまあだった」とあまり積極的な評価ではなかった。
今回、二人は非常なる期待を持って台湾に行ったそうだが、
「なんかちっちゃくまとまってつまらない感じだった」とのこと。
比べてメインランドは「南昌ですら」台湾より活気があって人々のパワーを感じると。
なるほど。
となると、もし二人が今の日本に渡ったら、
台湾とどっこいどっこいの印象ではないだろうか。
そう言うと、経済学者の妹さんは
「いや、日本には台湾にはない潜在的可能性が、まだあると思う」と。
そんなものがあるとしたら、
それはどういう形象をとって現れるのだろう。
〈日本の潜在的可能性〉
あると言われたらそんな気になってくるから、
実に私という人間は単純だ。

註:この文を書いた後、電話で確認したら、
お名前は「朱紹文」氏でした。yahooで検索すると
いろいろ情報が出てきました。それについては、また日を改めて書きます。
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「日本国憲法第9条にノーベル平和賞を」 2013年6月1日(土) No.667

2013-06-01 21:56:01 | その他情報
誰がこういうことを次々と考えるのか、
面白いですねー。
大江健三郎さんの発言が一般庶民の心にスウっと入っていくとしたら、
それは彼の全身から「ノーベル賞作家」という光が燦然と
輝いているせいもあるのではないかと感じる私は、
なんでも使えるものは使うべきだと思う。
(個人的には、あの大江さんの難しい文は決して嫌いではないんですけど
村上春樹のように一般受けするとは到底思えないので)

「ノーベル賞」に光り輝く憲法第9条。
アベシも案外日本が国際的に褒められちゃったとかいって
喜ぶかも。
ここ南昌では下のサイトを開くことはできなかったけど、
日本国の人たちにはできるでしょう。
ぜひアクセスしてみてください。

市民社会フォーラムMLから(薔薇または日だまりの猫さんブログより)
----------
憲法改正をめぐって不穏な動きが続きますが、
憲法9条にノーベル平和賞を送ってほしいというウェブ署名について、
友人から教えていただきました。

下記のリンクからご署名になれます。
今、第一期とあわせて2000筆ほどの署名となっているようですが、
これは結構効果的な運動方法ではないかと思います。

どうぞ、処方面にご紹介ください。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
宛先:ノルウェー・ノーベル委員会 The Norwegian Nobel Committee :
第二期:日本国憲法-第9条にノーベル平和賞を授与してください
"Please award the Nobel Peace Prize to Article 9 of the Japanese Constitution."

http://www.change.org/
ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%9C%9F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E7%AC%AC9%E6%9D%A1%E3%81%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%B3%9E%E3%82%92%E6%8E%88%E4%B8%8E%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84-please-award-the-nobel-peace-prize-to-article-9-of-the-japanese-constitution?utm_campaign=autopublish&utm_medium=facebook&utm_source=share_petition
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