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Brugge Style
ミケランジャロの聖母子像を見る
ブルージュの聖母教会には、おそらく国宝級のミケランジャロの聖母子像がある。
礼拝的、一回性、オーラ(ベンヤミン)...誠に至上の芸術作品と呼ぶにふさわしい像だ。
例えば先日書いた、つまらない「この人を見よ」像とは何が違うか。
まず顔が全く違う、と思う。
「この人を見よ」像は、土産物屋に判でついたように同じものがいくつもある、そんな顔をしている。
だがこの聖母は、他に何ものも決して代わりになれない顔をしているのだ。
他には...
やっぱすごいんだよね~、オーラが(どうぞ軽薄な口調で)。
なんと貧しい言語運用能力よ(笑)。オーラがすごいのはホントだけど。
おそらく、芸術を含めた、ものやことの真の価値をストレートフラッシュに言い当てる「神の言葉」のような言葉を人間は持っていないのだ。
人間の限界とは言葉の限界なのである。
いや、しかし、もしも真の価値をずばりと言い当てる唯一の「神の言葉」を人間も持っていたならば、人間が何万ものさまざまな言葉を持つ意義はなくなる。
「神の言葉」を持たないからこそ、わたしたちはわたしたちの言葉をどんどん豊かにする。小説や詩や...そういうものを使って。
小説や詩で豊かな世界...なんとすばらしい世界なんだろう。
わたしには小説も詩も書けないけれど、この世には古今東西萬巻の書がある。
初めに言葉があった
言葉は神と共にあった
言葉は神であった
この言葉は、初めに神と共にあった
万物は言葉によって成った
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった
....
そういうことか~。
とも考えられるワケね。
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