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街の(個人的な)印象




週末ロンドンへ。

世界の大都市。

「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるもの全てがあるから。」

わたしみたいにロンドンに行ったら疲れる者は人生に疲れている者なのだろうか。たぶんそうなのだろう。


...


今後しばらく住まうことになった英国のこの家周辺に来てみて、衝撃的に思ったことがいくつかある。

その最たるものはなんと言っても「外国ナンバーの車が全く走っていない」ということだった。

パン屋の少なさや、インド料理屋の多さに衝撃を受けるよりも、外国ナンバーの走っていなさ、ですよ(笑)。

未だにベルギーナンバーのわたしの車は目立つ。ジャンクションで意地悪をされないかヒヤヒヤする(こんな心配をするのはわたしがベルギーで外国ナンバーに意地悪をしていたからだろうか・笑)。


ブルージュは例えば世界都市ロンドンとは比べ物にもならないほどの小さい街であるが、外国ナンバーの車とベルギーナンバーの車が半々くらいの割合で走っている。それが古くさい街並とちょうど「調和のとれた感じ」をかもしだしているのだ。
ブラッセル中心部も、そういえばそんな雰囲気だ。
外国ナンバーが多いのには、観光地かどうかといこともあるが、地理的な事情、つまり「島国」か「大陸で他国と国境を多く接しているか」という違いもある。そう考えてみると米国は「島国」っぽいのかもしれない。


また、ブルージュは小さい田舎街ながら、パリコレのランウェイに出ていた服を着てそこらを歩いていても違和感のない街だ。わたしが生まれ育った神戸市の東端も、考えてみたらそうだ。
でもここは違う。ここはどこを歩いている人にも自分の家の居間からだだ漏れしてきたような雰囲気しかない。

これはブルージュが観光都市であるだけに日常生活をする場と非日常の場が混ざり合っているからではないかと思う。劇場的な場が多いか少ないか(全くないか)。そしてわが神戸市東灘区の山の手も、住民がテイストを競い合い見せ合う、実にそういう街なのである。


ブルージュはとにかく「見られる」ことに特化した街だ。

中世から近世にかけての建築物が調和をとって並んでいるのも(驚くのは街の中心部のみならず、最も寂れたような裏道に並ぶ家でさえもファサードの手入れがされているということだ)、個人商店の店先も、石畳が広がるのも、鐘の音も、チョコレートの香りも、どぎつい看板が排除されているのも、あるいは天候までが(笑)、観光客にとって美しいか美しくないか、という基準だけで設定されているかのように思えるのである。

ブルージュの誇り高くも媚びたような雰囲気の源はその辺にあるのかもしれない。



「いちげんさん」の割合が多いか少ないか(あるいは皆無か)、「見る/身られる」ことを意識しているかいないかによって街の雰囲気が変化するならば、これは将来住む街選びをする時に参考になるかも...



こんなことを考えながら新生活を始めた。
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