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Brugge Style
足るを知る?
満開の花を見ていると過不足ないなあと思う。
先日、友達が振ってくれた話から。
彼女が言うことには、最近よく「足るを知る」と聞くが、モエはこれについてどう思うかと。
わたしはこう答えた。
老子の「足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り」は、あなたが示唆されているように、いろいろな解釈で使われていると思います。
まず、「足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り」はセットなのにもかかわらず、前半の「足るものを知るものは富み」だけが膾炙しているのが問題ですよね。
キリスト教の「『心』貧しきものは幸いなり」が「貧しきものは幸いなり」と曲解され、「奴隷の道徳化」(byニーチェ)されているのと構図が似ていますね。
確かに、持っていないものの数を数えるよりも、持っているものの数を数える方が精神的な安定は得られ、美しい生き方だと思います。人間の欲にはキリがないからです。
しかしそれは道教の「自己の欲望や執着から離れ、自然の流れに従って生きることを追求すべき」という教えが根底にあってこそで、自己の内発的で哲学的な覚醒に留まるべきだと思うのです。
今、わたしが非常に大きな問題だと思うのは、社会の中でより弱い立場の人々が、「足るを知れ」としばしば聞かされることによって、経済的な改善を望んだり、権利獲得の努力や運動をするのは愚かであり、あきめることこそ幸せへの道、と勘違いさせられていることです。
政治家や文化人やインフルエンサーなどが軽々と「みんな、足ることを知ろうよ」などと口にし、人々がそうなのかなあと思わされている「足るを知れ」とは、ニーチェを借りるなら、「生の拡大をさまたげ、本能の発揮を抑え、人間を萎縮させ、退化させる道徳」であるとも言えましょう。
「満足することを知っている者は精神的に豊かであり、それでいて努力する者にこそ志は宿っている」という本来の老子がもっと知られるといいなあと思います。
その場合、後半の「それでいて努力する者にこそ志は宿っている」とは、自己利益の増殖ではなく、他者や公に対して「努力する者にこそ志は宿っている」だと解釈したいのですが、いかがでしょう。
「足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り」は、前半と後半が矛盾しているともいえます。
論理の飛躍を埋めるとすると、前半は自己の内発、後半は他者のためにどう行動するか、と理解すればすっきり落ち着くと思うんです。
自分自身は欲望や執着から離れ、自然に沿って生きる。
しかし、他者がよりよく生きるためには努力を惜しまない。
まさに古代中国の賢人の教え、数千年生き残ってきた倫理、という気がして背筋が伸びます。
ネオリベの政治家に爪の垢を煎じて飲ませたいです。
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