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Brugge Style
百塔のプラハ 黄金のプラハ
スペインの前に行ったチェコの話に戻ります。
わたしが初めてチェコのプラハを訪れたのは91年。
この国はまだ「チェコスロバキア」だった。
現スロバキアの首都のブラチスラバ経由をとり、ロシア製の車に乗ってハンガリーから入ったのだった。
プラハの街の煤けは、89年のビロード革命の後わずかしか経っていないための煤けかと思った記憶がある。
煤煙で汚れた建物や彫像はどこもかしこも真っ黒に汚れており、街灯はごくごく少なく、手入れのされていないあまたの広場と路地。
英語なぞ全く通じず(同行者がハンガリー人でロシア語で会話した)、おもちゃのような車が走り、酔っているのかないのか、どんより動く疲れた顔つきの人々が...
紋切り型イメージ通りの「共産主義社会」だった。
チェコとの縁は、大好きな作家リストの10本の指に入るであろうカフカとミラン・クンデラ、音楽はドヴォルザークくらい...で、あれから27年が経つ。
この4月中旬は毎日25、6度の雲ひとつない晴天続きだったというのを差し引いても、プラハは輝くような街に「変身」していた。
またまたモエが大げさに、と思われるかもしれないが、観光客が目にする部分に関しては誇張なしですよ!
建物のファサードは神様が大洪水でも起こして街丸ごと洗ったかのよう。
街路もとても清潔で建て込んでいない。緑がとても多い。
モルダウが、スメタナの曲のムード通りにゆったり横たわっているのも開放感があって素敵だ。
プラハはロマネスクから現代に至るまで建築の歴史が一望にできるそうで、また建築物の保存状態が驚くほど良好なのだ。
(例えばローマはローマ時代の面影を残す都という印象があるが現代はバロックの街だし、パリはなんとなく絶対王政時代の? と思うかもしれないが19世紀のオスマン様式の街である)
ロマネスクの可憐な教会から大仰なゴシックの尖塔。
ルネサンスのだまし絵:スグラッフィート装飾のある壁(<これが大変好み!)。
当時、教会を訪れるのは娯楽であったろうと想像するに難くないバロックのドラマ性。
そしてミュシャに代表されるアールヌーボー、キュビズム様式から現代建築へ...
広島の原爆ドームを設計したヤン・レッツェルの弟子が設計した原爆ドーム型の建物も!
建物に及ぶ戦争被害が比較的少なく、共産主義時代に放置された結果、手入れもされなければ破壊もされなかったためだろうか、ファサードの美しさは欧州のどの街にも負けないくらい美しく残っている。
神聖ローマ帝国の首都をここに定めたカール4世(ボヘミア王カレル1世)が見たら男泣きして喜ぶにちがいない。
誰もがあたりまえに英語を話し(出会った人で話さない人は、国民劇場のボックス席で隣り合わせたマダムだけだった。彼女の息子さんが通訳して話しかけてくれた)、英語が世界で通じることを基準にするのもどうかと思うが、まあ実際リンガ・フランカなので...
一方、チェコ語は見当がつかないくらい難しい! ナショナルがナロドニで、おお、ナロードニキはナロドニから来ているのか? くらいしか分かりませんでした! 多分勉強しても発音が無理そう!
食事は最近訪れたポルトガルやデンマークの洗練度には及ばなくとも、わたしはローカルな物を食べるのが好きなので問題なし。イタリア料理や地中海料理が多いのはなぜなのだろう。
ホテルだけは西に比べて安いことはないが、その他物価はまだ少し低めで、例えば宿泊したフォーシーズンズのレストランで2人でディナーフルコースを食べて(アルコールなしで)100ポンドくらい。これは安い。
旧市街側は特に直前に帰ったブルージュに負けないくらい観光客であふれかえっていた。
プラハ城のある対岸マラー・ストラナ側は城とカレル橋周辺以外は比較的閑静で、次回はマンダリン・オリエンタル(日本大使館近く)に泊まろうと思う。
とにかくチェコは全体的に見所が多く、時間がいくらあっても全然足りない。
写真を撮るのが下手なわたしが撮ってもどこも様になり(え? なってない?・笑)、フォルダの写真が増える増える...
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