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Brugge Style
アーヘンの皇帝の大聖堂
紆余曲折あり、ドイツのハノーヴァーから、ベルギーに入り、最終的にはフランスのカレーまで向かうために、経由地にドイツとベルギー国境の街、アーヘンを選んだ。
アーヘンといえば、ラインで話していた友達は「アーヘンの和約!」と言ったが、共に有名なのは、アーヘンの大聖堂だろう。
ちなみに「アーヘンの和約」は17世紀と18世紀に2つあり、どちらもハプスブルグ家がらみの継承戦争を終わらせるため。
アーヘン大聖堂は、北部ヨーロッパで最古のものである。
8世紀にカール大帝(シャルルマーニュ)が、アーヘンの宮殿教会の建設を始め、こちらに埋葬された。平安時代のころかあ...
ローマ帝国崩壊後、ヨーロッパはさまざまな部族が割拠する混乱状態だった。
フランク族もそのうちの一部族で、まずメロヴィング朝を成立させた。
しかし、フランク族内でも他の部族と同様に内紛や混乱が絶えず、王権は弱体化。
この状態の中で、カール大帝が登場、フランク王国を統一、アーヘンに宮廷のひとつをおいた。
ひとつ、というのは、当時の宮廷は移動式で、なぜなら領内を移動しつつ、王のカリスマ性を示し、伯らの忠誠心を保つための接触をする必要が常にあった。
また道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったため。
面白いなー。メディアって重要なのね。
カール大帝の統一の結果、西ヨーロッパにおける政治的安定が回復し、中世ヨーロッパの形成に繋がっていった。
アーヘンには温泉があり、この温泉が気に入ったのがカール大帝が宮廷をおいた一つの理由だとか!
今残る大聖堂はさまざまな時代につぎはぎにされた建物...
群雄割拠のさまのようにモザイクのように入り乱れ、非常に魅力的な建物だ。
2階部分にカール大帝の玉座があるのだが、ツアーガイドの見学でなければ見学できず、残念...
こちらは大聖堂のそばにある、アーヘン市庁舎。
アーヘンの遺棄された宮殿である、アウラ・レギアの基礎壁の上に建設され、シャルルマーニュ時代のグラヌスタワーも組み込まれている。
14世紀に完成、以来は神聖ローマ帝国の戴冠式が行われるようになった。
ドイツ料理を食べたいと思っていたにもかかわらず、日曜日はヨーロッパ大陸ではお店が一斉に閉まり、あやうく夕食難民になるところだった。
しかし、とても美味しいトルコ料理屋でいただくことができ、なるほどカール大帝の時代、それ以前から文化が行き交う場所であったのだ、と思ったのだった。
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