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cosi fan tutte
昨夜は英国ロイヤル・オペラ、モーツアルトの『コジ・ファン・トゥッテ』(女なんてみんな同じそういうもの)のオープニング・ナイトへ行って来た。
夫は仕事のパーティーに出るはずだったのが免除され、しかしロンドンのホテルはもう取ってあったので、ついでに泊まった。
うちからロンドン中心へは1時間かからない距離だが、音楽やバレエの公演のあとホテルに泊まるのは、「劇場から劇場型ホテル」への移動で、夢見心地が持続してよい。
一方で、車中で音楽を大音響でかけて自分で車を運転し、街灯の少ないサリー州の道を(真っ暗...)な中を疾走するのもまたいいのである。
『コジ・ファン・トゥッテ』で一番最初に思い出すのはフィリップ・ソレルスの『女たち』だ。
ミソジニーにあふれている。あんな小説はうら若き頃に読んでおいてよかった(たぶんクリステヴァから)。今だったら「このおっさん...ヤレヤレ」という感じで絶対に読み進めないと思う。
ああ、話が次々脱線する...
数ヶ月前に読んだ上田浩二『ウィーン』にオペラ・ブッファの来歴が詳しく書かれていたのを思い出した。
オペラ・ブッファが作成された背景には、当時の欧州の社会情勢を背景に、「国民国家のアイデンティティ」形成を促す意思が強くあったんですって! なんと。
当時、ウィーンで人気があったのはイタリアもの、次にフランスものだったが、自らを啓蒙君主と自認していたヨーゼフ2世は「国民劇」の育成を目指した。
また、中央集権的な統一国家であったフランスと違って、小国分立の状態が続いていたドイツをまとめるためには「国民文化」育成が必要だと考えもされたのだった。
さらに、ハプスブルグ国家の近代化を推し進めるためには多民族国家に「公用語」形成の必要もあったと。
そこでウィーンの国民劇場内では「ドイツ・オペラ」のみの上演が許可され、この3年後にモーツアルトがウィーンへ25歳で乗り込む。彼はドイツオペラの作曲に取り掛かるが、しかし一般にはドイツ・オペラは不人気だった。
ヨーゼフ2世もこれを憂いてイタリア部門復活を認めるが、条件付きで「オペラブッファ(喜歌劇)」のみ。
その後のモーツアルトのオペラがフィガロ、コジなどと喜劇続きなのもこのことと関係しているのだとか。
さらに『コジ・ファン・トッテ』は当時不道徳的すぎると上映禁止になったんですからね...
昨夜のロイヤル・オペラ版は劇中劇に料理し直されていたがエッセンスはそのままで、こりゃ当時の人は相当喜んだろうな! と改めて思った。
SNSはおろか、ネット、テレビも映画もなく、旅行だってそんなに簡単には行けなかった世界で! だからといって彼らの人生がつまらなかったかといえば全然そうとは思えない。かえって今より楽しかったのでは?
フィオルディリージ(ソプラノ)役のSalome Jiciaのすばらしき美声に酔わされ二日酔いになりそうだった。
一番演じ甲斐があるのは女中のデスピーナ(ソプラノ)か。Serena Gamberoniノリッノリでとてもよかった!
男性2人はわたしにとってはあまり(全然)魅力的じゃなかったけど...男なんてそういうもの、か。
(左上の写真はブロンツィーノの《愛のアレゴリー》。今日は11時から18時までナショナル・ギャラリーをうろうろしていて、この絵を見て、あ、昨日の話ね、と思った次第。モエは毎日、芝居・浄瑠璃・イモ・タコ・ナンキン...女なんてそういうもの)
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