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Brugge Style
M.B版 白鳥の湖
娘が学年末試験勉強の合間に何かDVDを見てもいいですかと言うので、Matthew Bourneの白鳥の湖を見せた。
この「白鳥」はさすがにわからないだろうと今までとっておいたのだ。
が、キャラクター設定が(衣装を含めて)派手でおもしろいし、子どもなりの解釈もあるだろうし、分からないことは分からないままで大人になってから「なるほどそういうわけ」と独自で腑に落ちてもらおう。
古典的な白鳥...のストーリーの方にしたって、未だにオデット/オディールは何者か?という解釈がつきないくらいである(わたしが昨今のオデットで恍惚とするのはSvetlana Zakharova)。
チャイコフスキーの音楽がいいとか、さらに好きだなどとは公言するのに非常に勇気がいるが、やはりこの音楽、舞踊に合わせると「すごい」のである。この音楽以外には考えられない。チャイコフスキー、許しがたき天才。
と、わたしも見入ってしまった。
娘にはやはりディテールが理解不能だったようである。
容姿のいい王子様とお姫様の恋愛を扱うのがロマンティックバレエであり、その他の愛欲の形を扱うことがあるという考えに及ばず、それぞれのキャラクターに付与されている意味が分からなかったようだ。
反対に大人ならば誰でもこの設定にはゲラゲラ笑い、またぐっと絶句するところもあるだろう。
子どもの方が柔軟な価値観を持っていると思いがちだが、経験の少なさゆえ、一元的な原則で解釈するしかない場合があるのだと知った。人間は自分の知っている文脈に翻訳することでしかものごとを解釈できないのだ。
だからいろいろな視座を獲得するために読書にはげむべきであり、自分の視点をカッコに入れてみることが重要であり、かわいい子には旅もさせなけれならないのだろう。
大人のいいところは(一度子どもだったことがあるから)、大人にも子どもにもなって考えることができることかもしれない。
子どもは大人になって考えてみることはできないのである。
....
そういえば今日はブルームズ・デイ...いつかダブリンで過ごしてみたいものである。
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洗練
わたしは「有り難がり」なので、本を読んで感動した箇所に出会うとやたらメモを取るタイプである。
そして、そのフレーズをどこにメモしたのか、出典が何なのか、そういうことをすぐに失念して、いろいろなところを探しまわるタイプでもある。
また、ほとんどの時はメモしただけで満足してしまい、メモの存在自体を忘れてしまう、そういうタイプでもある。
「物が思考の影響を受ければうけるほど、人生の細部は高貴に、洗練され、偉大になる」
というバルザックの言葉は、なぜかメールボックスの中に保存されていた。
誰かに送るつもりだったのか?送りつけられる相手には迷惑なハナシである。
このバルザックの言葉を引っ張りだしてきたのは、キッチンの床大掃除をしていたからだ。
わが家のキッチンは目の粗い石製で、台所の脂汚れ、土足生活ゆえの汚れ、犬の毛などが目地の中にしつこく堆積し、家中で最も掃除が厄介なパートである。
お手伝いさんにも時々細部掃除を頼むのだが、時間の不足や、してくれたとしても清潔感覚のずれなどが浮上してきてすっきりすることがない。
家のことをするのが大好きで、フローリングを洗うのは朝飯前に、のドメスティックな夫も「あなたがそこまですることはないでしょう」と言ってやってくれない。
で、わたしがやるのである。
クレンザーと古い歯ブラシで。
わたしは掃除が全くできない人間だが、やり始めるととことんやってしまう性分でもある。そして一度達成したらメインテナンスができない。とことん汚れたときにとことん掃除...そういう循環でしかできない。
もしわが家の手入れが行き届いているように見えるのならば、それはつい前日、家の中が崩壊寸前であったことを意味する。
で、バルザック...でしたな。
床を拭く姿が美しくないといけない、それが洗練である、という躾をしてくれたのは祖母であった。
だから、ジューシーのジャージを着てヤンキー座り(古っ)で目地をゴシゴシしていても、気持ちだけは縁側をぞうきんで拭き上げる着物姿の自分である(着物姿で拭き掃除謎したことはないが)。
自分の姿は棚にあげ、祖母や、幸田文の姿を思い浮かべながら、近いうちに娘にもこの所作を教えなくては、とメモ(笑)をとるのであった。
妄想の中では、わたしも娘も着物を着て、たすきがけをして微笑みながら黒光りする床を拭いている。
こうしてわたしの人生の細部は洗練されて行くのだ...ああステキ...もちろん妄想の中だけだけど(笑)。
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太陽の季節
天気がわずかに回復した。
気温は20度位だが、マルクトのテラス席ではじりじりと焼けるくらいの日差し。
正面の席の人物相手にしゃべっていると、ああ、まぶしくて眉間にしわが寄る。
だから今日は宝の持ち腐れになっていたトム・フォードのサングラス、象牙色のフレームのホィットニーをかけるチャ~ンス!
同色のサマードレスと10センチのサンダルでお出かけ。
ああ、まぶしい。
...ワタシのサングラスはなぜか頭の上でカチューシャになったままなのだ。
鼻梁が低く、頬骨が高い顔にぴったり合うサングラスを見つけるのはこちらでは難しい。
鼻梁に合わせたら頬にくっきりフレームの跡がつく(加齢とともに皮膚についたシーツの跡とか、消えないんですな...)。頬骨に合わせると鼻の位置で止まず、ずり落ちてくる。
かと言って細いメタルフレームのノーマルなサングラスではかなり昔の人風味である。
あるスジで聞いたらば、やはりアジア向け商品は型が違うのだそうだ。
洋服は昔から日本製があまり合わないのだが...関係ないか。
後頭部が後ろに出ていて、額から鼻が出ている隣の席のおねえさん、下着のひもと脇の肉が丸見えのタンクトップはやめて欲しいけど、サングラスはめっちゃ似合うなあ...
あ、あのお兄さんも寝起きの風情なのにサングラスかけたら俳優さんみたいやん...
みなさん強い日差しの下、サングラスに守られてにこやかである。
わたしはこんなええのん持ってるのになあ...まぶしいなあ。
(笑)。
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thicker than blood
先日、わたしはB型で...という記事を書いたら、何人かの方が、今日本では血液型のハナシが再び盛り上がっているということを教えて下さった。
特にB型の本が売れていて、購買者の中心はB型本人(なんでも世間のB型はB型な自分が大好きらしい)と、懐が深いO型なのだそうだ。
なるほど、わたしの友人の9割方はO型、1割弱がAB型である(夫と親友Y)。
A型にはまるで科学反応であるかのように避けられる。
なんでやろ~?
わたしはB型の男性が苦手だ(笑)。
わたしの苦手なB型男性気質をわたし自身も有していて(<気づいてないのである)、それがA型に避けられる原因なのであろう、と推理できる。
反対にそのB型男性気質を気にならないのがO型である。
『「B型だから...」で何でも許されると思っているB型』
嘘~。
「B型だから...」で、単に避けられているのだと思うわあ(笑)。
申し訳ございませんねえ。
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この人を見よ
ブルージュの聖血礼拝堂に、いやになるほどありふれた「この人を見よ」の像がある。
凡庸な表現方法は暗い狭い教会の中で目立つこともなく、制作者の名前も記されていない作品である。
洗礼者ヨハネのシンボルを確認するために教会の中に入って、ぐるっと回って、この木偶の坊のようなecce homoの前になんとなく立っていると、
「まあ、この人は、どんな悪いことをしたんでしょうねえ...」
という、消え入りそうなやさしい日本語が聞こえた。
お年を召された女性の声だった。
非難めいたトーンの全くない、「お母さん」の声であった。
わたしは会釈をして、彼女の前を通り過ぎた。
のどと鼻と目の奥がジーンとした。
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