日本・ベルギー・英国 喫茶モエ営業中
Brugge Style
去年、リスボンで
去年、リスボンで撮った思い出の写真
これはありもしない過去ではなく、確かにあった過去の写真
リスボン、大好き
通年、どこかへ旅がしたくてお尻が半分浮いているようなモエだが
毎年6月になると特にそわそわする
今日はとりあえずご近所ロンドンへ
みなさまもよい週末を
昨日の写真もだが、古典主義建築のオーダーが異常に好きで
自分の中の何かと関連性があると感じるのはなぜなのだろう...
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
去年、モンテベッロ・ヴィチェンティーノで
ボッテガ・ヴェネタの香水のプロモーション写真が美しすぎて
ありもしない「思い出」をかきたてられ
イタリアに行かねば病にかかってしまった
せめて
大英博物館で開催中のシチリア島に関する展覧会
「シチリア 文化と征服」に行こう
そして今夜はイタリアンにしよう...
みなさんは今年どちらに旅がしたいですか?
(写真はボッテガ・ヴェネタのタンブラー記事より)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
tomorrow's star @ english national ballet
とっても楽しい夜だった!
イングリッシュ・ナショナル・バレエが主催する、Emerging Dancer - Celebrating the Talent of Tomorrow’s Star
バレエ団内の新星発掘コンクールだ。
観客が選ぶ新星ダンサー、審査員が選ぶ新星ダンサー(このコミッティが超豪華で、タマラ・ロホは当然、マシュー・ボーン、ラッセル・マルファント...)が6人のファイナリストの中から選ばれる。
今年からは、年間200回もの公演をこなすコール・ド・バレエへの貢献者を讃える賞も加わった。
今年は「海賊」のアリ役で観客の心を鷲掴みにし、遥か遠くへさらっていった20歳のダンサー、シーザー・コラレス(Cesar Corrales)がノミネートされており、観客が選ぶダンサーは絶対に彼以外にないでしょうと予想してはいたが、結局、審査員が選ぶ賞も彼が持って行った。
おそらくどこからも誰からも文句なしの受賞。
他のダンサーも、特に女性ダンサー3人は非常に優れていたと思う。
日本人の金原里奈さん(2015年ローザンヌのコンクールで5位になった18歳の女性)にも、すっかり魅了されてしまった!
さて、昨夜のショーを全部持って行ったシーザー・コラレス、ご本人も事前のインタビューでしきりに「人を鼓舞したい」と述べていた。
彼は観客を鼓舞することにかけてはもうすでに一流、その跳躍力と舞台映えする華のある雰囲気で、明日、ソロで公演することになってもロンドンの劇場を満席御礼にできるようなカリスマ性の持ち主だ。
まさに「スター」ですな。
彼はこうも言った。「苦しみや辛さは練習の時に。舞台では思い切り自由に踊る」これはほんとうに何事もそうだと思う。
ダンサーの紹介ビデオ内では、それぞれがバレエを始めた動機や、なぜバレエが好きか、バレエを通して何がしたいか、などの質問に答えていて、人を微笑ませたい、幸せにしたい、鼓舞したい...どちらかというと月並みな回答をしている。
言祝ぎたいのは、ダンサーが、そういうありふれた言葉の「回答」とは別枠で、「回答」を踊りで表現できることだ。言語を超えたところを。それができる可能性を秘めているからこそ彼らは特別な新星アーティストなのだ。
若く美しく強きダンサーたちの輝く顔を見て思った。
「世界に何かよきことを贈る」
どんなにささやかなことでも、偉大な術でも。
娘は試験期間中で鑑賞できなかったが、彼女にはぜひそういう人になってほしいし、自分自身もそうでありたいと思う。
来年のコンクールも楽しみでしょうがない。
最後に下世話。会場にはおそらくイングリッシュ・ナショナル・バレエのダンサーだろう、見目麗しい若い男性がたくさんいて、
すばらしい目の保養になった。あのエレガントな佇まいはどんな美貌よりも価値がある。
わたしも昨日の話の続きではないが、鍛えよう...
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
美術館訪問はエクササイズなり
健康診断へ行って来た。
血圧もコレステロール値も結果は上々で、看護婦さんがいつものように褒めちぎってくれた。
そりゃ、アジア人は若く見えますて...
自分自身がうれしかったのは体脂肪率が前回と変わらず19%だったこと。
スポーツ、何してるの? と看護婦さん。
わたしが正直に最近は何もしていないと告白したら、看護婦さんは顔を曇らせた。
庭仕事は? ハイキングは? ヨガは? 本当に何もしていないの? と。
有酸素運動は今後10年のためにぜひとも習慣にしなければならないと切々と説かれた。
そのとおりであると、わたしも大いに反省する。
わたし「あ、でも美術館訪問が趣味で、4時間くらいは平気で歩き回りますね。ハイヒールだと特にかなりの運動量です」
昨日も彼女のヤレヤレという表情を思い出しながら、ヴィクトリア・アルバート博物館をうろうろ、うろうろ、歩きまわって思い出し笑いをした。
美術館訪問はエクササイズですよ。
その後、ナイツブリッジの百貨店2件の中も何フロアも歩き回ったもん。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅
何年か前(2010年)にも話題になった、ティム・バートン監督の「不思議な国のアリス」の続編がこの夏公開されるそうだ。
『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』。
あ、わたしは見ん。絶対に見ん(笑)。
前作でマッドハッターを、心に問題を抱えた人物に仕立て上げたのを発展させ、救世主にして戦士であるThe One、アリスが問題解決に奔走する...
と、あらすじをきいただけで身震いがする。
ティム・バートン監督の一作目「不思議な国のアリス」をわたしはワクワクして見たが、鑑賞後の感想は今も変わっていない。
ルイス・キャロル原作「不思議な国のアリス」が、時間と空間を超えて古典になり、世界中で愛されているのは、あのお話のキモが夢の世界の話だからだ。
目覚めているとき、われわれは因果関係を探し、分析し、意味づけをしようとする。
というのは、現実とはすでに何億万分の1秒前の記憶だからである。
「なぜ」「いかに」「いつ」というふうに、一連の出来事を言語化することなしに、われわれは現実や経験をとらえることはできないのだ(その言語化された一連の「お話」を「自己」と呼んでいるのである)。
だから「マッドハッターの狂気は幼児期のトラウマのせいである」というのは、因果関係を探し、分析し、意味づけることになってしまう。
しかし、自分が夢を見ているときのことを考えたら分かるように、われわれは夢の中ではその内容と自分との間に距離を置かず、すべてをありのままに経験している。
つまりマッドハッターの狂気にも、赤の女王のヒステリーにも、チェシャ猫の笑いにも、デタラメ歌にも、意味はないし、不条理でもない。
この距離のなさが「不思議な国のアリス」の豊かさ、おもしろさだと思うのだ。
わたしは鮮やかな夢を見るタイプで、毎夜のように空を飛び、ハシゴにひっかかったティッシュボックス製の友達の家を「家に入るときだけコツがいる」などと言いながら訪問したりする。
夢の中ではわたしはそれをちっともナンセンスだとは思っていない。
ナンセンスだと判断するのは、娘が「(実際的な目的や意図なしの)抽象的な夢を見るね」と感想を言うときである。
上記したように、「距離がない」ということが夢の世界の特徴であるからだ。
だから主人公アリスも、彼女のワンダーランドで次々と出会う事や人に意味を見出そうとしたり、不条理だと感じたりはしていない。
「『意味』もなければ『不条理』でもない世界の直感的現前が」、ルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」を「本質的な意味で『夢の世界』たらしめて」いる。
あのストーリーを退屈な誰かの夢の話ではなく、すばらしいお話にしているのはそこだ。
それなのに、いちいち登場人物にトラウマや、出来事に意味を配していては、「夢の世界の話」ではなくなってしまう。
それは「不思議な国のアリス」の、あのファンタスティックなエッセンスを何割も損ねてしまうことになならないか?
子どもにハリウッドの既成の「意味」や「分析」を刷り込んで何になるのだろう。
ハリウッド流の「なぜ」「いかに」「いつ」という言語化の仕方を教えて、画一化された「自己」を大量生産しようとでもしているのか(ああ、それがグローバリズムか)。
例えば、善と悪がはっきり白黒に分かれていて「悪者」を倒しさえすればこの世は再び調和が取れるとか、ある人物が屈折しているのはトラウマのせいであるとか、本当の自分探しとか...あ、変な夢を見るのも心に問題があるからって言いたいのか?
「人間がどんな意識や意思をもっていようと、またそれをいかに意味づけていようと、否応なく彼らをまきこみ、強いている生存の構造だけを見ようと」する、そういうお話は人間の成長に不可欠だと思うのだがどうだろう。事実、昔話の多くはそういう骨子でできている。
大人もこの映画を見てまたぞろ「勇気をもらった」などど大絶賛するんだろうなあ...と思うとげんなりする。
太字はすべて柄谷行人著「意味という病」収録の「夢の世界」からの引用です。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ | 次ページ » |