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神戸旧居留地は遠く








上の写真はうちから車で30分ほど行った街にある、教会を改造したガストロパブ。
あまりにすばらしい初夏の天気なので、買い物の帰りにテラスでブランチを。

内部はどのように改造されているかというと、祭壇のあったであろう部分がキッチンカウンターになっており、その奥が厨房、2階の聖歌隊席は客席になっている。
冬は結構寒いが、ステンドグラスから溢れる光は綺麗だ。


この教会がどういういきさつで飲食店として再利用されるようになったのか、また不敬であるというような反対意見はなかったのだろうかなど背景にちょっと興味があるが、教会も信者数を減らしており、取り壊されるよりは残したほうが「まし」という落とし所を見つけたのだろう。

英国の現代建築のみっともないほどの安っぽさを考えると、どんなかたちであれこの教会が残されたのには「よかったねえ!」と壁に向かって声をかけてあげたくなるほどだ。



数日前、神戸の旧居留地にある旧三菱銀行神戸支店、現ファミリアホール(子供服のファミリアね)を取り壊し、タワーマンションになるというニュースをちらっと聞いた。
神戸市、正気か?!

どんなに合理的な理由があったとしても、このニュースを聞いて腹を立てない神戸市民はいないと思う。

神戸の大丸百貨店と海に挟まれた一角は、昭和に思春期を過ごした世代には強い思い入れのある場所である。
どうにかあの浪漫なエリアをそのまま保存することはできないものか...


神戸がだんだんどこにもありそうな街になっていく。

(そんな街にしておいて、「人口が減っている」と嘆かれても...)
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ジョルジョーネかティツィアーノか








ロイヤル・アカデミーで開催されているIn the Age of Giorgione展へ。

ルネサンス・ヴェネツィア派の巨星ジョルジョーネを、師のベリーニ、兄弟弟子のティツィアーノとの関係で語る。


「この絵はほんとうにジョルジョーネの作品なのか」というのが、この展覧会のひとつのテーマだ。

ロイヤル・アカデミーのサイトには、『リトラット・ジュスティニアーニの肖像』(上の写真の男性)が、ジョルジョーネ作品か、ティツィアーノ作品か、観客が投票できるコーナーもある。



ジョルジョーネは高名なわりに、彼の作品だと断定できる作品が少なく(6点だとか)、またその作品の内容が寓意に満ちているというので「謎」の多い芸術家だ。


芸術家...

「芸術家」というのは近代の発明品で、ごく簡単に言うと、19世紀、印象派の作品に箔をつけるために生み出された言葉らしい。
名前をつけられて初めて「実態」は存在するようになるのだ。

ジョルジョーネより前の、初期キリスト教の時代においては、画家や彫刻家は職人とみなされていた。
わたしがとてもおもしろいなと思ったのが、池上英洋著の『ルネサンス 歴史と芸術の物語』で読んだ話だ。


周知のように、キリスト教は偶像崇拝を禁止している。

識字率の低かった時代、キリスト教布教は絵画に頼らざるをえず、イエス・キリストや聖母マリア、聖人を描いた、例えばイコンなどを盛んに生産するようになった。しかし教会はこれらが「偶像」扱いされたら立場的にまずい。そこで、

「イコンに描かれた像それ自体は物体ではなく、よって聖なる崇拝対象でもなく、ただの”聖像を宿す器”にすぎない」(『ルネサンス 歴史と芸術の物語』)

という解釈がなされた。

つまり、イコンに描かれた像は、アーティスト各人が創意工夫をもって個性的に表現したイメージではなく、「聖なるイメージ」という単なる実用品の無限コピーだと見なされていたのである。


しかしやがて「個人の力量に対する関心がクローズアップ」され、絵画や彫刻制作活動が「知的・精神的活動が含まれるがゆえに単なる職人仕事ではない」(高階秀爾著『芸術のパトロンたち』より。この本もとてもおもしろい)と考えられる時代が来た。

人間中心主義、ルネサンス期だ。

「署名するかどうかについては、芸術作品の創造行為がどのようなものと捉えられているかが問題なのです。それが芸術家たち”自身のものである”とはっきり自覚していればこそ、彼らは自分の作品だと主張するわけです。」(『ルネサンス 歴史と芸術の物語』)


ジョルジョーネの時代は画家や彫刻家が署名を入れる入れないの過渡期にあったのだろう。


署名もだが、画家の「自画像」も”自身のものである”とはっきり自覚した作品なのだとか。

ジョルジョーネの自画像、男前なだけでなく、なるほど他の誰でもない「ジョルジョーネ」の自意識が画面から溢れている。
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オックスフォードの塀








先週から今週末にかけてはほんとうにゴージャスもゴージャスな五月晴れだった!


どこが五月晴れ?

という上の写真は、夜8時頃撮ったものだ。


遊びに行ったのでは決してなく(笑)、娘がGCSE(16歳の義務教育終了時にイングランド共通試験を受ける。この結果は一生モノ)のオランダ語を受験するため、試験会場のオックスフォードまで泊まりがけでやってきたのだ。

オックスフォードまではうちからは一時間半の距離、泊まりがけするほどではないのだが、天気がいいのに娘の試験のせいで遠出することもできず、でもこの天気がいつまで続くのか保証はないし、今をちょっとだけ楽しみたかったという...

どんだけ欲望に忠実やねんということですな。

しかしこのプランは大正解で、天気のいい中、テラス席でお茶を飲んでいるだけでも楽しかった。



オックスフォードにはこの超有名大学が鎮座しているせいだろうか、知的な会話をする外国人と居合わせることが多く、「知」に異常に憧れるわたしは妙に落ち着く。

街なかは、道側から眺めているとベージュの石で建てられた五風堂々たる塀がずっと続き、ああこれはカレッジの建物なのだな...ということはわかるが、ここがオックスフォードでなかったら素通りしてしまうかもしれない。

「バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする」と

養老先生(バカの壁)を思い出す。


そういえば以前このように書いたことがあった。

”知のメタファー”な街”


「威厳に満ちた頑丈そうな建物が次の角まで続いている。その壁の連なりの一部に小さめのドアが口を開けている。かすかに光が漏れている。そのドアを入ると暗い渡し部分があり、その先には日に満ち満ちた明るい中庭が相当の広さで広がっているのだ。
これは絶対「知」のメタファーである。」

「「知」の外側は、手がかりのないどこまでも続く頑丈でのっぺらな壁のような風体をしており、のっぺらであるがゆえにその向こうに何かがあると気がつかないこともあれば、素通りして済ますこともできる。
(だからしばしば「自分はよく知っている」と自己申請する人ほど世間が狭くものを知らないという矛盾が起こるのだ)

しかし志次第では「知」への「入り口」を見つけられる。

そして蒙昧な状態(暗い渡し)を通過すると、その向こうに別の世界が開けていると知ることができるのである(「知」はカバラを持ち出さないまでも常に神を中心にした強烈に明るい光で表現されるのであるからして)。


この入り口を見つけられる能力を「学力」と言うのだと思う。

オックスフォードはこういう街である。
学力の高い生徒が集まっているのもなるほどと思うのである。」
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家の中に、木蓮








木蓮の花が大好きだ


庭師が剪定してくれた
ブサイクに伸びた枝を
家の中の日当たりのいいところに活けた
(こんな大きな花瓶が一般家庭にあることに驚いていた)


枝は水平に伸びていたので、水平に飾れたらよかったのだが
それこそ適当な花器がなかったのだ

3メートル長さがあるダイニングテーブルの上に
センターピースとして横長に飾ったら
どんなに素敵だったろう!


花はもうとうに散ってしまったが
葉っぱはまだ青々としていて
陽に透けて輝いている
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frankenstein




ロイヤル・バレエの新作「フランケンシュタイン」。

ロイヤル期待の若き振付家、リアム・スカーレットが初めて製作したフルレングス・バレエだ。


ワールド・プレミア前のリハーサルを見た。


「え、ロイヤル・バレエは今夜これを公開していいの?」

と、いうのがわたしの感想...



ロイヤル・バレエ「フランケンシュタイン」は、多くの人がまずハリウッド映画の映像で知る、あのフランケンシュタインの話だ。

イギリスの小説家メアリー・シェリーのゴシック小説「フランケンシュタイン」が原作。

ちなみに緑の顔色で四角い頭をし、首にボルトがささっている怪物はハリウッド映画のイメージであり、またこの怪物自体をフランケンシュタインと呼ぶのも、「ヴィクター・フランケンシュタインが創造した怪物」が約まったものだ。この怪物に名前はない。



マッド・サイエンティストであるヴィクター・フランケンシュタインと、彼が創造した怪物を通して、神とは何か、人間とは、愛とは、死とは、創造とは、精神とは、家族とは、友情とは、社会とは、孤独とは、科学とは何か...を問う(問うことができる)話だ。

リアム・スカーレトはそこに目をつけたのだろう、古典バレエが今まで一貫して語り続けてきた「神とは、人間とは、愛とは、死とは...」という、人類にとって重要なメッセージを豊富に盛り込んだものの、盛り込みすぎて収拾がつかなくなったのか、盛り込み優先順位を間違えたのか、とにかくものすごく「薄い」出来。

それら全部を、制約のある容器(舞台というスペース、バレエというアート・フォーム、そして上演時間)の中に放り込み、どうでもいいようなことをくだくだ説明しすぎために、ひとつひとつが薄まり、ストーリー展開や登場人物像の魅力もうすーくなってしまっていうように感じた。
「説明しすぎ」はロイヤル・バレエの特徴のひとつで、時々それが悪い癖だと思う。


例えば神を演じて怪物を創造してしまったヴィクター・フランケンシュタインの動機や葛藤は、もっとファウスト的複雑さであるはずなのに、単に憂鬱で不安を抱えたつまらない男にすぎなかったし、彼の妻になるエリザベスにもこれといった役割がない(他の登場人物もみなそんな感じ)。

小道具も、人間らしさのシンボルに使われている「亡くなった母親の写真の入ったロケットペンダント」の使い方もゆるく、怪物をまさにクリエイトしようとする瞬間の、あの安っぽいカリカチュアみたいな装置には微苦笑を禁じ得なかった。



古典バレエが生き残ってきたのには理由があると思う。
上にも書いたように、神とは、人間とは、愛とはを問い、人間に成長を促すからだ。

その点でいうとストーリー的には「フランケンシュタイン」はものすごくいい作品になる可能性があると思う。
もっと焦点を絞って、登場人物も減らし、しょうもないワンパターンの舞踏会や酒場のシーンを削ぎ落としたらどうだろうか...と。


でもまた期待して見ると思います(笑)。
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