30年以上も沖縄戦で亡くなった方々の遺骨を掘り続け、遺族のもとに返そうとする献身的な活動を続けておられるガマフヤーの具志堅隆松さんからお話を聞く機会があった。辺野古新基地建設反対に新しい視点を教えてもらい、深く考えさせられたので紹介したい。
具志堅さんは、この県議会に「沖縄県によるキャンプ・シュワブ内建設工事承認のやり直し」を求める陳情書を提出された。その理由は、「キャンプ・シュワブ内建設工事承認に関する審査には、大浦崎収容所の埋葬遺骨の存在が欠落しており、埋葬遺骨の調査・発掘に関する審査を含めたやり直しを要請する。」というものだ。
(大浦崎収容所)
具志堅さんは、「要請の背景」として次のように書かれている。
「沖縄戦時、北部地区には米軍により多くの住民収容所が設営されていた。現在のキャンプ・シュワブも当時は大浦崎収容所と呼ばれ、主に本部、今帰仁、伊江島の住民が収容されていたのである。各地の収容所では劣悪な食糧事情と猛威を振るったマラリアの流行により大量の死者が続出し、そのためほとんどの収容所には埋葬地が併設されていたのである。大浦崎収容所にも埋葬地の証言があるが同地は戦後の早い時期に米軍基地となったため未収容遺骨が残されている可能性が高い。
沖縄県は普天間基地のキャンプ・シュワブへの移設に伴う建設工事を承認するに当たっては『建設工法』や『環境対策』などは審査したのであろうが『埋葬遺骨』の存在については欠落している。現在の承認のままであれば戦争犠牲者の埋葬遺骨への対応策の無い土木工事になってしまう。埋葬遺骨の調査・発掘に関する審査を含めた工事承認のやり直しをするべきです。」
具志堅さんにお話しを伺った次の日、辺野古の海上行動が早く終わったので名護市教育委員会に行き、『キャンプ・シュワブ内文化財調査報告書』を入手した。辺野古ダムの下流、美謝川沿いに大浦崎収容所があったことが記されている。ここに、伊江島、今帰仁、本部の人たちが収容されたという。「今帰仁区域の墓地は、今では米軍の水陸両用装甲車が出入りする大浦湾に面した砂浜近くにあったという。」(沖縄タイムス 2014.9.11 「シュワブに残る人の営み」)と言われているが、この砂浜は、今回、浮桟橋が設置されたところで、防衛局が陸上部でのボーリング調査を実施したところだ。
(『キャンプ・シュワブ内文化財調査報告書』より)
『沖縄県史第9巻』には次のような記載がある。
「久志村の強制的移動地域は、山の中に指定されて、木の葉などで仮小屋を作って、地べたに寝ていた様子を、委しく大勢の人たちが語っている。住も悲惨だが、それよりも酷なのは食糧である。青いものは全部食べ尽くして、浜辺に打ち寄せられたホンダワラなども、朝早く行かないとほかの人が取ってない。味付けは海の塩水、田圃にある浮草の類もすっかり取りつくして、ヨモギの葉、桑の葉みたいな食べやすいものは、何処に行ってもむしりとられて無かった。それで老人と幼児は栄養失調で死ぬ、戦争では助かったのに、この強制的移動の戦犯行為では、マラリヤも流行して、一日に1で30人ぐらい死ぬという様子を多くの人が語っている。
このアメリカの強制的移動戦犯行為は、理解に苦しむ。現在軍用地の辺野古岬から13号線までの間には、本部や今帰仁の人たちも強制的移動をさせられていたそうであるが、赤土の禿げた地べたに収容されて、あの広い不毛の地は死人を埋めた土饅頭で埋め尽くされていたという。」(P54)
新聞報道にあった具志堅さんのコメントが忘れられない。「戦争の犠牲者の遺骨の上に、新たな戦死者を生む基地を造る。これ以上の死者への冒涜はない!」
具志堅さんの活動については、以前、遺骨収集活動に参加させてもらった際のブログを参照されたい。