(真嘉比南公園にできた戦争遺跡碑。弾痕の残る石壁や発掘された銃剣、銃弾等も展示されている。)
連れ合いが入院をしている病院に毎日通っているが、その途中、新都心から真嘉比の街を通る。今は、区画整理で整然とした街並みが続いているが、私が沖縄に来た当時は、まだこの辺りはこんもりとした丘(大道森・だいどうむい)が連なっていた。
この付近は戦争当時、米軍によってハーフム . . . 本文を読む
4月1日(日)のピースウォーキングの最終目的地は浦添市の前田。区画整理がすすむクマーラモー(森)で、遺骨収集作業に取り組むガマフヤー代表・具志堅隆松氏のお話を聞き、壕の中にも入れてもらった。
(具志堅さんたちの遺骨収集作業には、2年前に真嘉比の丘での作業に参加させてもらったことがある。 ・真嘉比の丘で遺骨収集作業(ブログ 2010.1.10))
嘉数、前田から首里にかけて . . . 本文を読む
(ウォークは、嘉数台地からスタート)
今日は4月1日、67年前、読谷に米軍が上陸した日だ。毎年、この日には、戦跡を歩いて当時のことを振り返るピースウォーキングが行われている。今日は、中部の激戦地、嘉数台地から前田高地を歩いた。約60名ほどの人が集まった。
(嘉数台地に無数に掘られた陣地壕)
(台地から見た普天間基地) . . . 本文を読む
那覇の裁判所の向いに、城岳という小高い丘がある。いつも辺野古アセスや高江の裁判の傍聴に来ながら、なかなか訪れることができなかったところだ。
大戦当時、ここには人工の壕が作られ、1944年の10.10空襲以後、那覇無線通信所の本拠として使われた。1945年3月からは、一時、県庁壕として使われている。全長500mもある大きな壕で、当時は、13ケ所の開口部があったらしいが、今は、蓋をされている . . . 本文を読む
(具志頭城跡からギーザパンタを望む)
20日(金)、久しぶりに30度を超える好天。午後から南部戦跡を訪ねた。摩文仁の丘から少し東に走ると八重瀬町に入る。海岸近くの小さな丘が具志頭城跡。ここは自然の断崖上に、14世紀中ごろに築城された古いグスクだ。
すぐ西にはギーザパンタの断崖が広がる。ここは、大戦当時、南部戦線で追い詰められた多くの住民や日本兵らの「死の終着駅」とな . . . 本文を読む
(正面が恩納岳。右側が米軍の実弾演習で禿山となった金武岳、ブート岳。県道104号線から)
沖縄に来てしばらく経った頃、海勢頭豊のコンサートに行ったことがある。その時聞いた「喜瀬武原」の歌の調べが忘れられない。この歌は、復帰直後に始まった米軍の実弾砲撃演習阻止の闘いの中で生まれたものだ。
平良修さんは、この歌について、「運動の中から私たちが生み出し、静かに深く、激しく高 . . . 本文を読む
(本部半島今帰仁村渡喜仁に残る陣地壕)
明日からは天候が崩れるということで、今日のうちに遠出をしようと、大慌てで、北部に車を走らせた。
名護から北西に走ると今帰仁村に入る。国道505号線から北東に向かうと、すぐに、道路横に大きな壕が見つかった。戦争当時、この近くの運天港は、特攻潜航艇の咬龍隊と第27魚雷艇隊が配置された重要な港だった。咬龍は、5人乗りの特攻潜航艇で、行動持続日 . . . 本文を読む
(アブチラガマの入り口で ガイドの安仁屋さん) 3日(金)の午後、「辻」を歩いた後、南城市の糸数アブチラガマに向かった。 ここは、長さが270mもある大きなガマ(自然洞窟)。当初は糸数集落の避難指定壕だったが、1945年2月、第32軍の「球」部隊の地下陣地として整備された。ガマの中には2階建の家も作られ、発電機を動かして電灯も灯されていたという。3月末には、200名余りの糸数集落の住民らもこのガ . . . 本文を読む
(名護小学校にある第1護郷隊の碑) 台風も、名護の辺りではかなりの被害があったようだが、那覇ではほとんど何事もなく済んでしまった。 今日は、台風一過。午後からは太陽も出て、空にはうろこ雲が現れた。風も、心なしか、爽やかになってきたようだ。 8月28日の学習会で、陸軍中野学校と護郷隊のことを学んだが、30日に名護に行った際、名護小学校の第1護郷隊の碑を訪ねた。護郷隊は、当時の名護国 . . . 本文を読む
(夕食その① うりずん豆のテンプラ) 28日(土)の午後は、沖縄市で開かれた反住基ネット沖縄の学習会「陸軍中野学校と沖縄戦」へ。 当時、沖縄北部や八重山などの離島には、陸軍中野学校出者が42名配置され、山中のゲリラ戦を担う遊撃隊(護郷隊)、住民監視なとを行う離島残置諜者などに別れて活動していたという。 護郷隊は、北部の14歳から19歳の少年ら約800名によって組織され、武 . . . 本文を読む
(名護・屋我地島のハンセン病療養所、愛楽園の正面入口) 27日、1フィート運動の会が、愛楽園で初めて沖縄戦の映画を上映するというので、参加させてもらった。愛楽園自治会も共催なので、きっと大勢の入所者の方が集まるだろうと楽しみだ。今も、247名(2010年6月現在)の方がここで暮らしておられるという。 愛楽園には、前回の名護市長選のポスター張りの際に来たが中に入るのは初めてだ。正面入口は広々として . . . 本文を読む
(久米島・宇根の集落に残る防空壕) 6月4日~6日、沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会が主催する久米島戦跡巡りに参加させてもらった。 久米島では、大戦当時、鹿山曹長を隊長に、30数名の日本軍が駐屯していた。沖縄での組織的な戦闘が終わった6月26日、米軍が島に上陸。その後、鹿山部隊は、4回にわたって、スパイときめつけた21名の住民を虐殺。生後数カ月の乳児まで惨殺し、家に火をつけるというこの凄惨な . . . 本文を読む
(65年前の今日、米軍が上陸した読谷・渡具知の海岸から歩きはじめた。) 65年前に沖縄本島読谷村に米軍が上陸したこの日(4月1日)、4日間をかけて、読谷から南部の喜屋武岬まで歩こうという沖縄戦体験ピースウォークが始まった。 私は、明日、京都に帰るので、初日だけの参加。3月26日には沖縄で地上戦が始まった慶良間・阿嘉島を歩き、そして4月1日の今日は、本島に上陸した読谷を歩いたことになる。 (読谷・渡 . . . 本文を読む
今日は、素晴らしい快晴。糸満のうまんちゅ市場に買い物に行く途中、付近の戦跡を訪ねる。 アメリカ軍最高司令官・バクナー中将が、1945年6月18日、この付近を視察中、狙撃されて死んだ。アメリカの軍史上、司令官クラスの初の戦死者だったという。 司令官を殺されたアメリカ軍は、その報復として、日本軍に猛烈な攻撃をかけ、おびただしい犠牲者が出た。(「白梅之塔」上の壕) (「白梅之塔」下の壕) 県立第2高 . . . 本文を読む
(外地(ふかじ)島の展望台から望む慶良間の海。この季節、鯨がよく現れるという。 65年前の3月、この真っ青な海を米軍の艦船が埋め尽くしたのだ。) 今日は、風も収まり、穏やかな日和になった。1フィート運動の会のメンバーらは、午前の高速船で那覇に戻ったので、私は、一人、昨日行くことができなかった慶留間島を訪ねた。 1945年3月26日、米軍は、慶留間島にも、戦車20台余と兵士200人で上陸した。 . . . 本文を読む