(本部半島今帰仁村渡喜仁に残る陣地壕)
明日からは天候が崩れるということで、今日のうちに遠出をしようと、大慌てで、北部に車を走らせた。
名護から北西に走ると今帰仁村に入る。国道505号線から北東に向かうと、すぐに、道路横に大きな壕が見つかった。戦争当時、この近くの運天港は、特攻潜航艇の咬龍隊と第27魚雷艇隊が配置された重要な港だった。咬龍は、5人乗りの特攻潜航艇で、行動持続日 . . . 本文を読む
(京都新聞 2011.4.27朝刊(Fax))
3月の中国・梅里雪山行に同行された京都新聞・F記者の連載「友の眠る山 中国・雲南 京大登山隊遭難20年」が、今日から始まった。これから5回続くという。
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3月の梅里雪山行には、京都新聞のF記者が同行されたが、彼女の「カメラは見た---京大登山隊遭難の地を訪ねて」という特集記事が、23日(土)の京都新聞夕刊に掲載された。
中央には、あの大雪崩の写真。すごい迫力だ。
「友の眠る山 京大登山隊遭難20年」という連載は、27日の朝刊から始まる。
以下、文章部分を転載する。
「絡まりあった真っ白い龍が、ゆっくりと山肌をなめて下界へ降りてく . . . 本文を読む
(峠を越す前日(28日)、初めて梅里雪山の連峰がその全容を見せてくれた。左から、メツモ(6054m)、ジャワリンガ(5470m)、プジョン・ソンデブーショ(6000m)、そして、右端が最高峰・カワクボ(6740m)。地元の伝説では、これらの山群は、一つの家族だと言われている。カワクボが王様、メツモがそのお后様。その両側の大小の頂は、二人の子どもや護衛の将軍たちだという。)
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ユイポンで大雪崩を目撃した16日の午後、宿の主人に、珍しい宗教行事があるよと誘われた。家族、親戚や親しい友人など、死んだ人々のために食事を捧げる行事だという。井上たちのこともあるので、是非、参加させてもらおうと、村の小さな売店で、お菓子やお酒などをいっぱい買って出かけた。
上村の一番奥の家には、村の人たちがほとんど集まっていた。庭先では、男たちが座り込んでマニ車を回している。中に入れてもらう . . . 本文を読む
3月27日、久しぶりに晴れ間が出たので、ミンヨン氷河に向かった。
谷に沿って緩やかな山道を2時間ほど歩くと、太子廟という小さなお寺に着く。この辺りで標高2940m。正面には、ミンヨン氷河が圧倒的な迫力で迫り、その上に、梅里雪山の主峰・カワクボ(6740m)が、朝陽に照らされて輝いている。ユイポンの峠で見て以来、ずっと雨や雲り空だったので、10日ぶりに見るカワクボだ。
(太 . . . 本文を読む
3月16日、午前11時過ぎ、峠の展望台で梅里雪山を眺めている時、あっと気がつくと、ベースキャンプに使われていた谷の辺りで、大きな雪崩が発生したのに気がついた。あわててカメラを向ける。
実に大きな雪崩だった。雪煙は、ベースキャンプの谷いっぱいにモクモクと舞い上がり、そのままあふれて樹林帯を下り始めた。幅もかなり広い。まるで、白い大津波が山を駆け下りているような不思議な光景だ。やがて、雪煙は、ユ . . . 本文を読む
3月15日、車で、メコン河の急峻な谷沿いの道にヒヤヒヤしながら、西当(シータン)の村へ。そこから、馬を2頭連れて、梅里雪山に最も近い山奥の村・雨崩(ユイポン)に向けて歩きはじめる。この道は、1990年11月、井上たちの第2次登山隊が辿った道だ。
この季節には珍しい雪のため、途中で馬を返し、昼頃、標高3750mのナゾヤ峠に着いた。峠の周囲には、タルチョや祈祷の旗(ラテ)で、カラフルに飾られてい . . . 本文を読む
3月11日、京都新聞のFさんと2人で関空を出発。上海を経由し、深夜、昆明へ。翌朝のフライトは大幅に遅れて、昼前にやっとシャングリラに着いた。ここはもう標高3276m、デチェンチベット族自治州の中心地だ。粉雪が舞い、寒さに震えあがる。
当初は、すぐに、峠の先の街・デーチンに向けて出発する予定だった。しかし、飛行機が遅れたことと、峠が雪のため、閉鎖されているかもしれないということで、この日は、ペ . . . 本文を読む
(梅里雪山の最高峰・カワクボ(6740m))
3月11日から31日まで、中国雲南省にある梅里雪山(6740m)を訪ねた。
以前のブログにも書いたように、この山はちょうど20年前、京大学士山岳会の日中登山隊が初登頂を目指したが、1991年1月3日の深夜、突然の大雪崩が第3キャンプを襲い、17人が死亡するという、日本のヒマラヤ登山史上最大の惨事と . . . 本文を読む