(やんばるのイタジイの森)
30日(金)、久しぶりに高江に行った。
8月26日のブログで、高江訴訟の口頭弁論で、裁判長が話し合いを提案したことを報告した。
「高江訴訟 裁判長が対話を提案」(8月26日)
しかし、9月21日の進行協議で、国側は話し合いに応じる姿勢を全く見せず、結局、裁判長の努力は実らなかった。12月14日の口頭弁論 . . . 本文を読む
(カライマンのバイオガス施設(2011.9.7撮影))
2004年から2006年にかけて、私は、年間の半分以上をフィリピン・サマールですごし、スラムの環境改善と人々の生活向上を目的としたバイオガス事業に専念した。公衆トイレと豚小屋の糞尿をバイオガスプラントに結び、ホールの台所で、地域のお母さんたちが共同で燃料として利用する施設だ。 カライマンとソルソゴンの2ケ所に開設したバイオガス施 . . . 本文を読む
(私のサマールの宿舎・シーサイドインの屋上は絶好のビヤガーデンだった)
サマールでバイオガス事業を始めた次の年(2005年)の秋、シーサイド・インにできた新築のアパートに引っ越した。窓からは海が一望、朝陽から夕陽まで楽しめる最高の部屋だった。波の音を聞きながら寝つき、深夜に起きると、春から夏にかけては、南十字星が海の上に輝いていた。
(部屋からは、いつも . . . 本文を読む
(ウィ市長のお墓)
今回のサマール行でまずしたかったことは、殺されたウイ市長のお墓参りと、家族への弔問だった。(私とウィの関係、そして、ウィが殺された時の状況については、このブログの本年5月1日、5月3日版を見てほしい。)
・フィリピン・サマールから衝撃の悲報--ウィ市長が殺されてしまった(2011.5.01 . . . 本文を読む
私が活動を続けているフィリピン・サマールには、2002年3月から毎年、3月と9月、京都を中心とした学生グループ(JAPSAM)がワークキャンプに来てくれている。
多い時には、20名を超える学生が来ていたから、延べ人数でいうと、もう、200名ほどの学生がサマールに来たことになる。
今回も9月4日~15日の日程で6名の学生が来てくれた。うち3名は全く初めてのメンバー、そのうちの2人は1回生で . . . 本文を読む
(完成式典を終えて。Yさんを中心に、いっぱいの笑顔があふれる)
9月7日、カルバヨグのイーパオというバランガイ(村)で、子どもたちのためのラーニングセンター(LC)の完成式典が行われた。ここでは、京都サマール友好協会が、1995年からLCを運営してきたが、建物が老朽化し、どうすればいいのか、途方に暮れていたところだった。
そんなとき、JAPSAMのOB、H . . . 本文を読む
(オルモク、当時の激戦の跡を生々しく残すコンクリートハウス)
サン・イシドロから大急ぎでオルモクに向かった。コプラ(ココヤシからの油)の会社の構内に、銃撃を受けてぼろぼろになった3階建てのコンクリート造りの建物が、当時の姿のまま残っている。この建物を訪ねることが、今回のレイテ巡りの最大の目的だった。
ここに立てこもったのは、名古屋・岐阜からの部隊を中心とする . . . 本文を読む
リモン峠からビリヤバ経由でレイテの西北部・サンイシドロに向かった。今回の目的の一つがサンイシドロの港に、今も日本軍の艦船のマストが見えるかどうか確かめることだった。
ビリヤバに入ると正面にブガブガ山が見えた。レイテ戦の最終段階、米軍に追われた日本軍は、ただひたすらこの山を目指して死の彷徨を続けた。レイテにおける日本軍が壊滅したところだ。
当時、日本兵たちはこの山をカン . . . 本文を読む
9月4日、関空を出てマニラ経由でレイテのタクロバンに入った。翌日、車をチャーターして北レイテの戦跡を巡る。大岡昇平『レイテ戦記』の地図が参考になった。
(急峻なレイテ背梁山脈。米軍に追われた日本軍は、こうした山の中の行軍を強いられた。)
(リモン峠から北、カリガラ湾を望む。)
タクロバンから西に1時間半ほど走るとリモン峠に着く。この辺りでは、1944 . . . 本文を読む