■メイン写真
ひときわ存在感を放つ又兵衛桜
■今回のコース
大宇陀狭間バス停→高天原→阿紀神社→天益寺→西山岳→経ヶ塚分岐→おご乃明神→
又兵衛桜→大宇陀温泉あきのの湯→道の駅大宇陀(大宇陀バス停)
宇陀の又兵衛桜を観に行くついでに山歩きができないかと、かねてチェックして
おいた西山岳へ出かけた。
麓(大宇陀狭間)から見た西山岳。天益寺の桜が美しい。
まずは阿紀神社のすぐ南にあるパワースポット「高天原」へ。
石段の跡が残るだけだが、ここは阿紀神社の旧社地だ。
天智天皇の第二皇女が壬申の乱の折、大海人皇子とともに東国に脱出するとき、
通りがかったこの地を自らの和名「高天原廣姫」にちなみ高天原と名付けたという。
南向きの神明造りで、伊勢神宮と同じ建て方の社殿をもつ阿紀神社。
キリッとしたたたずまいがいい。
崇神天皇(第10代)の頃の話。磯城の瑞籬(みずがき)の宮殿内に天照大神と大国主命を
共に祀っていたが、あまりにも神威が強すぎたため、大国主命を三輪山に、天照大神を
笠縫邑(檜原神社)に移した。
しかし、天照大神にさらにふさわしい御鎮座地を探すため、垂仁天皇(第11代)の第二皇女・
倭姫(やまとひめ)にそれを託した。倭姫は最終的に伊勢の地を見つけるのだが、
その途中、阿騎野の照巣に社殿を建て、4年間滞在したという。
200mほど北へ移り、天益寺(てんやくじ)のシダレザクラに立ち寄る。
ここは阿紀神社の元神宮寺で、宇陀松山藩の第3代藩主・織田長頼(信長のひ孫)が
眼病平癒を祈願し参籠した。
寺の創建は鎌倉時代にさかのぼるが、平成11年に火事で焼けてしまった。
左に古い建屋が見えてきた。松源院だ。
ここは京都の大徳寺の最高顧問を務め、禅宗界の長老と言われた立花大亀が、
明治の廃仏毀釈で廃された大徳寺塔頭寺院の松源院を、禅寺としてここに再興したもの。
車道を渡り、坂道を上がっていくと、古き良き家屋が次々に現れる。
立派な石垣を備えた森下家住宅は、明和6年(1769年)の建築だ。
宗久菴の角から、植林の踏み跡に入る。
作業道が複雑に入り組んでいて紛らわしいうえ、植林は最近あまり手入れされていないようで、
倒木が作業道を遮るところも多く、巻いたり、くぐったり、乗り越えたりしながら登る。
スギ花粉があたり一面に"沈殿"していたようで、我々が歩くと砂埃のようにふわっと舞い上がる。
顔の肌がヒリヒリしてきた。
尾根の三叉路に出ると、ここまでで初めて見る道標が立ち、明瞭な山道がついている。
山頂まではあと少しだ。
三叉路から西へほんの100mで西山岳の山頂に着く。
大日如来像は、台座の下に直方体の標石がある不思議なデザインで、
大日さんが空中に浮遊しているような錯覚すらおぼえる。
標石には聖護院の名と、寛延四年の文字が読み取れる。1751年といえば、徳川将軍は9代
家重のころである。
先ほどの三差路に戻り、もう1つの山道をとる。嬉河原分岐(四つ辻)で左に進み、すぐ右へ
下ると、簡易舗装の道に出る。ここからは長い林道歩きになる。
音羽山系の山並みを眺めながら、おだやかな山村風景の中を歩く。
又兵衛桜周辺が見えてきた。ちょうど満開を迎えているようで、クルマも人もいっぱいだ。
おご乃明神。ユニークな名前を含め、由来などは不明。
又兵衛桜は、かつては一本桜だったが、今では周辺に若い桜、桃、手和沿いに水仙が咲くなど
花に囲まれた公園のようになっている。
管理料100円を支払って、主役の又兵衛桜に接近。
戦国武将・後藤又兵衛が、実は大阪夏の陣で戦死せずに、この地で僧となって余生を
過ごしたという言い伝えがあり、ここは後藤家の屋敷跡だったという。
又兵衛桜の後ろに、さっき登ってきた西山岳。すばらしい眺めに、しばし足が止まる。
最後に「あきのの湯」でさっぱりしていただいた。
ひときわ存在感を放つ又兵衛桜
■今回のコース
大宇陀狭間バス停→高天原→阿紀神社→天益寺→西山岳→経ヶ塚分岐→おご乃明神→
又兵衛桜→大宇陀温泉あきのの湯→道の駅大宇陀(大宇陀バス停)
宇陀の又兵衛桜を観に行くついでに山歩きができないかと、かねてチェックして
おいた西山岳へ出かけた。
麓(大宇陀狭間)から見た西山岳。天益寺の桜が美しい。
まずは阿紀神社のすぐ南にあるパワースポット「高天原」へ。
石段の跡が残るだけだが、ここは阿紀神社の旧社地だ。
天智天皇の第二皇女が壬申の乱の折、大海人皇子とともに東国に脱出するとき、
通りがかったこの地を自らの和名「高天原廣姫」にちなみ高天原と名付けたという。
南向きの神明造りで、伊勢神宮と同じ建て方の社殿をもつ阿紀神社。
キリッとしたたたずまいがいい。
崇神天皇(第10代)の頃の話。磯城の瑞籬(みずがき)の宮殿内に天照大神と大国主命を
共に祀っていたが、あまりにも神威が強すぎたため、大国主命を三輪山に、天照大神を
笠縫邑(檜原神社)に移した。
しかし、天照大神にさらにふさわしい御鎮座地を探すため、垂仁天皇(第11代)の第二皇女・
倭姫(やまとひめ)にそれを託した。倭姫は最終的に伊勢の地を見つけるのだが、
その途中、阿騎野の照巣に社殿を建て、4年間滞在したという。
200mほど北へ移り、天益寺(てんやくじ)のシダレザクラに立ち寄る。
ここは阿紀神社の元神宮寺で、宇陀松山藩の第3代藩主・織田長頼(信長のひ孫)が
眼病平癒を祈願し参籠した。
寺の創建は鎌倉時代にさかのぼるが、平成11年に火事で焼けてしまった。
左に古い建屋が見えてきた。松源院だ。
ここは京都の大徳寺の最高顧問を務め、禅宗界の長老と言われた立花大亀が、
明治の廃仏毀釈で廃された大徳寺塔頭寺院の松源院を、禅寺としてここに再興したもの。
車道を渡り、坂道を上がっていくと、古き良き家屋が次々に現れる。
立派な石垣を備えた森下家住宅は、明和6年(1769年)の建築だ。
宗久菴の角から、植林の踏み跡に入る。
作業道が複雑に入り組んでいて紛らわしいうえ、植林は最近あまり手入れされていないようで、
倒木が作業道を遮るところも多く、巻いたり、くぐったり、乗り越えたりしながら登る。
スギ花粉があたり一面に"沈殿"していたようで、我々が歩くと砂埃のようにふわっと舞い上がる。
顔の肌がヒリヒリしてきた。
尾根の三叉路に出ると、ここまでで初めて見る道標が立ち、明瞭な山道がついている。
山頂まではあと少しだ。
三叉路から西へほんの100mで西山岳の山頂に着く。
大日如来像は、台座の下に直方体の標石がある不思議なデザインで、
大日さんが空中に浮遊しているような錯覚すらおぼえる。
標石には聖護院の名と、寛延四年の文字が読み取れる。1751年といえば、徳川将軍は9代
家重のころである。
先ほどの三差路に戻り、もう1つの山道をとる。嬉河原分岐(四つ辻)で左に進み、すぐ右へ
下ると、簡易舗装の道に出る。ここからは長い林道歩きになる。
音羽山系の山並みを眺めながら、おだやかな山村風景の中を歩く。
又兵衛桜周辺が見えてきた。ちょうど満開を迎えているようで、クルマも人もいっぱいだ。
おご乃明神。ユニークな名前を含め、由来などは不明。
又兵衛桜は、かつては一本桜だったが、今では周辺に若い桜、桃、手和沿いに水仙が咲くなど
花に囲まれた公園のようになっている。
管理料100円を支払って、主役の又兵衛桜に接近。
戦国武将・後藤又兵衛が、実は大阪夏の陣で戦死せずに、この地で僧となって余生を
過ごしたという言い伝えがあり、ここは後藤家の屋敷跡だったという。
又兵衛桜の後ろに、さっき登ってきた西山岳。すばらしい眺めに、しばし足が止まる。
最後に「あきのの湯」でさっぱりしていただいた。