今年は、ウチの山岳部ができて50年の、記念の年である。
これを祝う集会を、立山室堂の雷鳥荘で開催した。
現役、OB合わせて25名が参加し、創立当時のエピソードから
最近の活動・運営状況について等、報告を行い、ビールで乾杯した。
40周年は剱・三田平、45周年は上高地・小梨平で実施しての
3度続けての北アルプスでの開催だ。
(ちなみにMr.Dashの知らないそれ以前は、大峰・和佐又で実施)
最年長は70代、最年少は20代と、歴史を感じさせる。
今回、最年少のN岡クンが、今後もずっと活動してくれれば、
80周年までは存続できる。うれしいことだ。
職域山岳部として、パイオニアワークに、また国体出場等、
華々しい実績を挙げていた黎明期の山岳部は、部員100人以上を
擁し、むしろ一定のクオリティを保つため、部員の「ふるい落とし」を
していた頃もあったという。
しかしその後、部員の不幸な遭難事故が続いたり、有力な指導者人材の
不足などから、長らく低迷の時代をすごした。
とくに人材面では、仕事で重責を任されたり、海外拠点への赴任
などにより分散。組織としての総力を発揮できなくなっていった。
90年代は個人活動としてガイド本を多数出版しているK島氏の活躍に
支えられていたといっても過言ではない。
また、台湾ではK子氏が独自に精力的な活動をされていた。
1999年に、かねてよりK島氏から誘いを受けていたMr.Dashが
正式に入部。間もなくK島氏は定年退職を迎えた。
アウトドア誌への執筆という点では、Mr.Dashもこの頃に
「ヤマケイJOY」でデビューできたが、その後、K島氏の
お取り計らいにより、ガイド本の世界に足を踏み入れている。
以降、当山岳部としては、パイオニアワーク等は一切やらず、
まずは健康増進のためのハイキングレベルから着手しようと、
新たな部員の募集に踏み切った。
こうして、まずは中高年初心者層からの部活動の「再開」となった。
(ミクリガ池と立山)
当時は、日本アルプスの夏山縦走すら、部活動では無理で、
Mr.Dashは社外の友人たちと個人山行として、そのあたりの山行に
出かけざるを得なかった。
当時から一緒にやっている社外のY井氏は、今でもウチの会友として
参加頂いている。
やがて、実力ある若手・中堅メンバーが続々と入部しているようになり、
今では再び、部員100名を超す大所帯となっているのは、
ありがたい限りである。
活動内容も、先に述べた健康増進のためのハイキングにとどまらず、
ロッククライミング、沢登り、インドアクライミング、
山スキー、クロスカントリースキー、海外登山等、その幅を広げている。
今回、室堂に集った現役メンバーの全員が、何らかの形でザイルを
扱った経験を既に持っている。
そういえば、卓抜した運動能力を持つイエティが、少し前に
「ようやく山岳部らしくなってきましたね」と言ってくれた。
登山を経験すると、誰もが大なり小なり、次はもっと高い山、
もっと奥深く、もっと困難なルートというように向上心を持つものである。
しかし、それを安全に実行しようとするときに、技術と装備の壁が
立ちはだかる。
これを乗り越えるのが、適切な指導と、共有装備の充実による貸出制度で
ある。
指導面では、座学を開催したり、チーフリーダーの交替制、
また、地元山岳連盟の資格を取得し技術を磨く、
或いはプロガイドによる手弁当の講習会など、さまざまな取り組みを
行なっている。
共有装備については、部の予算から、幕営装備、登攀装備、スノーシュー等を
徐々に買い揃え、初心者がまずはレンタルして体験できるような環境を
整えつつある。
こうした特殊装備は、確かに、高価でもあり、なかなか最初から買い揃える
決心がつかないものだが、大半のメンバーが、やがて自分自身の装備を
持ちたくなってくるものなのだ。
もう一つ、安全面での配慮である。
まずは当たり前であるが、登山届のルール化と、山岳保険への加入を奨励。
次に、20名を超えるようになった例会活動には、トランシーバーを用い、
チーフリーダーとサブリーダーのコミュニケーションを密にした。
赤十字救急員救急法の資格も3名が持つ。
沢登りでは、時間がかかっても、必要以上にザイルを出す。
(あとは本格冬山用にビーコンの充実が課題。しかし、重登山靴を持つ
部員が数名しかいないのも事実)
(立山ケーブルのトンネル)
最後に、ガバナンスとルールである。
役員は、総会で選出する。まだ、改選の際に対立立候補が出てくるほどではないが、
決まった役員は皆、仕事や家庭を抱える中、役割をきちんと務めてくれている
のは、本当にありがたい。
各支部長と、本部幹部の間で情報共有を適切に行なうことで、相互の
乗り入れ活動を恒常化した。関西圏の各支部は、持ち回りで例会の幹事を
行なう。
また、毎年の総会で会計報告をすることで、明瞭な財政を維持。
いい風土は、定着させたい。
今後の課題は、部としての目標をいかに持つかという点で、
実は、50周年集会のあとに、K島さんを中心に、深夜まで熱い議論が
行なわれた。
極地法的な手法で、高山にアタックするようなイベントが成立するのか、
あまりにレベル差の広い現状を、高いほうにシフトするべきなのか、
無理にするべきでなく、個人個人の多様なニーズと自主性に委ねるべきなのか。
結論が出ないまま、翌日の山行に支障が出ないように、散会となった。
翌日からは、それぞれが自分の実力に合わせたパーティに分散し、
個別の山行計画を実行することになっているのだ。
次回のブログ原稿で、Mr.Dashの7人パーティの行動を紹介する。
これを祝う集会を、立山室堂の雷鳥荘で開催した。
現役、OB合わせて25名が参加し、創立当時のエピソードから
最近の活動・運営状況について等、報告を行い、ビールで乾杯した。
40周年は剱・三田平、45周年は上高地・小梨平で実施しての
3度続けての北アルプスでの開催だ。
(ちなみにMr.Dashの知らないそれ以前は、大峰・和佐又で実施)
最年長は70代、最年少は20代と、歴史を感じさせる。
今回、最年少のN岡クンが、今後もずっと活動してくれれば、
80周年までは存続できる。うれしいことだ。
職域山岳部として、パイオニアワークに、また国体出場等、
華々しい実績を挙げていた黎明期の山岳部は、部員100人以上を
擁し、むしろ一定のクオリティを保つため、部員の「ふるい落とし」を
していた頃もあったという。
しかしその後、部員の不幸な遭難事故が続いたり、有力な指導者人材の
不足などから、長らく低迷の時代をすごした。
とくに人材面では、仕事で重責を任されたり、海外拠点への赴任
などにより分散。組織としての総力を発揮できなくなっていった。
90年代は個人活動としてガイド本を多数出版しているK島氏の活躍に
支えられていたといっても過言ではない。
また、台湾ではK子氏が独自に精力的な活動をされていた。
1999年に、かねてよりK島氏から誘いを受けていたMr.Dashが
正式に入部。間もなくK島氏は定年退職を迎えた。
アウトドア誌への執筆という点では、Mr.Dashもこの頃に
「ヤマケイJOY」でデビューできたが、その後、K島氏の
お取り計らいにより、ガイド本の世界に足を踏み入れている。
以降、当山岳部としては、パイオニアワーク等は一切やらず、
まずは健康増進のためのハイキングレベルから着手しようと、
新たな部員の募集に踏み切った。
こうして、まずは中高年初心者層からの部活動の「再開」となった。
(ミクリガ池と立山)
当時は、日本アルプスの夏山縦走すら、部活動では無理で、
Mr.Dashは社外の友人たちと個人山行として、そのあたりの山行に
出かけざるを得なかった。
当時から一緒にやっている社外のY井氏は、今でもウチの会友として
参加頂いている。
やがて、実力ある若手・中堅メンバーが続々と入部しているようになり、
今では再び、部員100名を超す大所帯となっているのは、
ありがたい限りである。
活動内容も、先に述べた健康増進のためのハイキングにとどまらず、
ロッククライミング、沢登り、インドアクライミング、
山スキー、クロスカントリースキー、海外登山等、その幅を広げている。
今回、室堂に集った現役メンバーの全員が、何らかの形でザイルを
扱った経験を既に持っている。
そういえば、卓抜した運動能力を持つイエティが、少し前に
「ようやく山岳部らしくなってきましたね」と言ってくれた。
登山を経験すると、誰もが大なり小なり、次はもっと高い山、
もっと奥深く、もっと困難なルートというように向上心を持つものである。
しかし、それを安全に実行しようとするときに、技術と装備の壁が
立ちはだかる。
これを乗り越えるのが、適切な指導と、共有装備の充実による貸出制度で
ある。
指導面では、座学を開催したり、チーフリーダーの交替制、
また、地元山岳連盟の資格を取得し技術を磨く、
或いはプロガイドによる手弁当の講習会など、さまざまな取り組みを
行なっている。
共有装備については、部の予算から、幕営装備、登攀装備、スノーシュー等を
徐々に買い揃え、初心者がまずはレンタルして体験できるような環境を
整えつつある。
こうした特殊装備は、確かに、高価でもあり、なかなか最初から買い揃える
決心がつかないものだが、大半のメンバーが、やがて自分自身の装備を
持ちたくなってくるものなのだ。
もう一つ、安全面での配慮である。
まずは当たり前であるが、登山届のルール化と、山岳保険への加入を奨励。
次に、20名を超えるようになった例会活動には、トランシーバーを用い、
チーフリーダーとサブリーダーのコミュニケーションを密にした。
赤十字救急員救急法の資格も3名が持つ。
沢登りでは、時間がかかっても、必要以上にザイルを出す。
(あとは本格冬山用にビーコンの充実が課題。しかし、重登山靴を持つ
部員が数名しかいないのも事実)
(立山ケーブルのトンネル)
最後に、ガバナンスとルールである。
役員は、総会で選出する。まだ、改選の際に対立立候補が出てくるほどではないが、
決まった役員は皆、仕事や家庭を抱える中、役割をきちんと務めてくれている
のは、本当にありがたい。
各支部長と、本部幹部の間で情報共有を適切に行なうことで、相互の
乗り入れ活動を恒常化した。関西圏の各支部は、持ち回りで例会の幹事を
行なう。
また、毎年の総会で会計報告をすることで、明瞭な財政を維持。
いい風土は、定着させたい。
今後の課題は、部としての目標をいかに持つかという点で、
実は、50周年集会のあとに、K島さんを中心に、深夜まで熱い議論が
行なわれた。
極地法的な手法で、高山にアタックするようなイベントが成立するのか、
あまりにレベル差の広い現状を、高いほうにシフトするべきなのか、
無理にするべきでなく、個人個人の多様なニーズと自主性に委ねるべきなのか。
結論が出ないまま、翌日の山行に支障が出ないように、散会となった。
翌日からは、それぞれが自分の実力に合わせたパーティに分散し、
個別の山行計画を実行することになっているのだ。
次回のブログ原稿で、Mr.Dashの7人パーティの行動を紹介する。