昨日、青葉台で田島代支宣『破綻と格差をなくす財政改革』(あけび書房)を買い、読んでいました。そこでふと、頭に疑問が浮かびました。
田島氏は、日本の所得税の最高税率が低下の一途をたどってきたことを、応能課税原則から応益課税原則に移ったと表現します。何箇所かあるので、ここでは161頁の記述を引用します。
「税負担のあり方についても、財政の所得再分配機能があるが、実際になされてきたのは所得税の累進税率をゆるめたり、資産課税を軽減して富裕層を優遇してきた。その余裕金は手元におかれて消費に使われることは少ない。一言でいえば、応能負担から応益負担に変わってきた。」
一般的にもこのように評価されていますし、1990年代頃からは大蔵省→財務省の関係者、自治省→総務省の関係者などからも「応能負担には問題がある、応益負担こそが採られるべき原則であり、応益性を強化すべきである」というような趣旨の発言または記述が繰り返されました。私は、2013年11月2日、日本租税理論学会第25回大会(同志社大学今出川校舎)における報告「格差是正と租税法制度―日本およびドイツにおける議論を踏まえて―」で、このような見解を批判しました(日本租税理論学会編『格差是正と税制』(租税理論研究叢書24、法律文化社)に「格差是正と租税法制度―日本およびドイツにおける議論を踏まえての序説的検討―」として掲載されています)。
しかし、私は、その学会報告においても、応能課税と応益課税を対立的に捉えることにも疑問を出しておきました。応能負担は応益負担を前提とするはずであるからです。逆に、応益負担も応能負担の要素を持ち合わせざるをえないのではないか、とも思うのです。
田島氏を批判する訳でも何でもないのですが、果たして、氏が描かれている税制の現状は、応益負担原則で説明できることなのでしょうか。
富裕であるということは、それだけ、社会から受ける利益が多いということです。利益が多ければ、それだけ税負担が多くなるのは当たり前であり、利益ばかり受けて租税負担が少なくなるのであれば、それは応益負担の字義に反します。同様に、所得の低い人の税負担が増えれば、それは受ける利益よりも支払の負担が多いことを意味することになり、やはり応益負担の字義に反します。
このようになるのは、そもそも応益負担の意味が曖昧であるからです。利益をどのように測定するのかを明らかにしなければ、応益負担を論ずることができないはずなのです。応能負担原則の優れている点の一つとして、利益を負担能力と理解することがあります。資産の多寡、所得の多寡は、負担能力を測るための基準となりえます。
応能負担を切り捨てる応益負担は成立しえないのではないか。これが、私の素朴な疑問です。
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