昨日、或る研究会に出席して資料を見ていたところ、現在行われている第185国会(臨時会)において、交通基本法案(衆議院議員立法として提案)が「撤回」され、新たに内閣提出法案として交通政策基本法案が提出されていました。
交通基本法案は、民主党政権時代の第177回国会に提出されましたが、衆議院にて「閉会中審査」の扱いが続き、衆議院が解散された第181国会で審議未了のため廃案となります。この時までは内閣提出法律案でした。衆議院議員総選挙によって政権交代が実現した後、第183国会において、交通基本法案は衆議院議員提出法律案として扱われたのですが、やはり「閉会中審査」が続き、結局、交通政策基本法案と引き替える形で「撤回」されました。
先程、新法案(交通政策基本法案)を少しばかり概観しましたが、旧法案(交通基本法案)とあまり変わらないように見えます。しかし、よく読むと、所々で変更がなされています。例えば、旧法案の第1条は「目的」という見出しの下、次のように定めていました。
「この法律は、交通に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国、地方公共団体、交通関連事業者、交通施設管理者及び国民の責務を明らかにすることにより、交通安全対策基本法(昭和四十五年法律第百十号)と相まって、交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする。」
これに対し、新法案の第1条は、やはり「目的」という見出しの下に、次のように定めています(旧法案と異なる部分に下線を引きました)。
「この法律は、交通に関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにすることにより、交通安全対策基本法(昭和四十五年法律第百十号)と相まって、交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする。」
次に、旧法案の第2条は「国民等の交通に対する基本的な需要の充足」という見出しの下、次のように定めていました。
「交通は、国民の自立した日常生活及び社会生活の確保、活発な地域間交流及び国際交流並びに物資の円滑な流通を実現する機能を有するものであり、国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図るために欠くことのできないものであることに鑑み、将来にわたって、その機能が十分に発揮されることにより、国民の健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な移動その他国民等(国民その他の者をいう。以下同じ。)が日常生活及び社会生活を営むに当たり必要な移動、物資の円滑な流通その他の国民等の交通に対する基本的な需要が適切に充足されなければならない。」
新法案の第2条は、見出しも「交通に関する施策の推進に当たっての基本的認識」と改められた上で、次のように定めています(旧法案と異なる部分に下線を引きました)。
「交通に関する施策の推進は、交通が、国民の自立した日常生活及び社会生活の確保、活発な地域間交流及び国際交流並びに物資の円滑な流通を実現する機能を有するものであり、国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図るために欠くことのできないものであることに鑑み、将来にわたって、その機能が十分に発揮されることにより、国民その他の者(以下「国民等」という。)の交通に対する基本的な需要が適切に充足されることが重要であるという基本的認識の下に行われなければならない。」
ここで止めておきますが、上記の変化は、政権交代を象徴するものとなっています。第1条で、法律によって明らかにされるべき責務を負う者の範囲が「国、地方公共団体、交通関連事業者、交通施設管理者及び国民」から「国及び地方公共団体」に狭められています(しかも、新法案は「責務等」としています)。また、旧法案第2条では「国民の健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な移動その他国民等(国民その他の者をいう。以下同じ。)が日常生活及び社会生活を営むに当たり必要な移動、物資の円滑な流通その他の国民等の交通に対する基本的な需要」となっていたのに対し、新法案第2条では「国民その他の者(以下「国民等」という。)の交通に対する基本的な需要」と変えられています。単に簡略化したのではなく、旧法案の審議の際に言われていた「交通権」の保障をほとんど消滅させた、と理解すべきでしょうか。
おそらく、第2条などの変化について、交通経済学などの分野では批判が高まることでしょう。しかし、現段階で、という断り書きを付けるならば、私は、この変化は妥当なものであり、旧法案が「撤回」されるのは当然であって、むしろ遅すぎた、と考えています。理由は「交通権」という言葉の曖昧さにあります。
「交通権」は、交通経済学者などの間で使われる言葉のようで、交通権学会という団体も存在するそうです。あまり多くを読んではいないのですが、管見の限りにおいて「交通権」がいかなる権利であるかを具体的に説明する学説などは存在しません。中身がよくわからない権利は「交通権」の他にもたくさんありますが、「交通権」ほどわからないものもそうは多くありません。おそらく、一種の運動から来た言葉で、悪い表現を使うならば軽い気分で使用され始めたのでしょう。そのこと自体を否定するつもりはありませんが、法律に盛り込むならば、権利の内容や性質を具体的なものにしなければなりません。旧法案の第2条を見ても、憲法第25条第1項の文言が引用されているだけで冗長な表現になっており、そもそも規定が「交通権」を保障するのかどうかもわからないような文章になっています。
権利が法的なものとして成立するためには、主体(誰がその権利を有するか)、客体(誰に対する権利なのか。言い換えれば、誰が義務を負うのか)、内容(いかなる事柄を請求しうるのか)が明確にされなければなりません。金の貸し借りや物の売買を考えれば簡単です。債権者は、債務者に対し、「▲▲をせよ」(例、「期限を過ぎているから金を返せ」、「金を払ったのだから早く品物を引き渡せ」)と請求できます。但し、ただ請求できるだけではだめで、債務者が債権者の請求を実現する義務を負わなければなりません。そして、債務者が義務を履行しない場合には、債権者が裁判所に訴訟を提起し、国家の力を借りる形で請求を実現できる必要があります。
(この点については、たとえば高橋和之『立憲主義と日本国憲法』〔第3版〕298頁を参照してください。)
「交通権」は、主体はよいとしても客体が不明確ですし、それ以上に内容が全く不明のままです。国民、例えば私は、誰に対して、何を請求できるのでしょうか。そして、その請求は、最終的には裁判所の判決を得ることによって実現されうるのでしょうか。この点は、是非とも御教示願いたいところです。
旧法案の第2条が憲法第25条第1項を引用していることにも、問題の一端があります。おそらく、旧法案では国民の「交通権」が生存権の一種であるという位置づけが採用されたのでしょう。しかし、そうなると、いっそう、客体と内容が明確にされる必要があります。また、憲法第25条の性質については憲法学でも長年の議論が存在します。さすがにプログラム規定説は多数説の地位を失っていますが、だからといって影響力を失った訳でもありません。判例を概観すると、実はプログラム規定説を採用しているのではないかと思われるような判決もあります。通説とされるのは抽象的規定説ですが、(実は一括りにされる割には見解が多様であるという点を度外視するとしても)この説によっても生存権の中身は抽象的なままですから、結局は法律によって具体化されざるをえません。自由権と異なる所以です。旧法案では、結局、「交通権」の中身は一向に明らかにされていないのです。
まだ新法案の全体を深く読んだ訳ではないので、今回はこの程度にしておきます。
第185国会は臨時会ですので、開会期間がかなり短くなっています。新法案が法律として成立するかどうかはわかりません。ただ、これまで、交通安全に関する法律があり、また、交通の各分野に個別の法律があるが、交通全体をまとめて「交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進する」ための法律が存在しなかったために、国や地方公共団体の交通政策が一貫性を欠き、公共交通機関の衰退を招いたことは否定できないでしょう。その意味では、早期の成立が待たれる法律である、ということになります。
です
http://www.pru.or.jp/document/download.php?id=4500
第二条 交通に対する基本的な需要が適切に充足されること(≒極度の過疎地域などすべての地域の人に交通を保証するものではない)
です。
また第二条にも絡みますが第三条で「交通の機能の確保及び向上が図られることを旨として行わなければならない」として適切な交通の選択が求められています。
判りやすい例で例えると既に大量輸送機関としての需要を失った鉄道を中量輸送機関であるバスに転換する事などが含まれると思われます。