靖國神社社殿の裏手にある神池庭園の葉も少しづつ色づきはじめてきました
番町の一角にある行人坂。
この行人坂は、昔、某法印という行人がこの辺りに住んでいたため
法印坂とも呼ばれていたとされ、また齋藤法眼という者の屋敷があったため
法眼坂とも呼ばれたとも言われています。
この坂を下り切ると谷底で、そこから東郷坂となって上って行きます。
東郷坂は東郷平八郎私邸跡の東郷元帥記念公園西側の坂道となっています。
番町は、江戸時代、将軍を警護する旗本「大番組」の屋敷があった場所で
そのために番町と呼ばれていました。
その屋敷が手頃な大きさだった為が、明治以降多くの文人が居を構え
さながら「文人町」といった風情でした。
番町学園通りと番町中央通りの間のこの道には特に文人が多く住み
今では番町文人通りと呼ばれています。
現在でもこの通りには三遊亭円歌事務所と、さだ企画(さだまさし)という
文人の事務所(故三代目圓歌邸で現在は当代のマネージメント事務所)があり
文人の町として今でも息づいています。
江戸を代表する花街「新吉原」。
通称吉原の、江戸時代における唯一の出入口が、この吉原大門でした。
当時から一大観光地であった浅草とは反対側に設けられたこの門。
治安維持と遊女の逃亡を防ぐ、ふたつの目的があったようです。
このため、観音様詣りのあと遊郭へ繰り出そうという人達は
花川戸から山谷堀を猪牙舟に乗って行ったり(これが最速)、
待乳山聖天(和合の神様!)から、日本堤(現在の土手通り)を通って
この吉原大門へ向かったそうです。
遊郭外から(特に大名行列などから)中を見通せないようにする為
入口が「く」の字状になっていて、これは仲之町通りとなった今でも
吉原大門の交差点から50mほど先からのS字カーブとして残っています。
交差点の角のガソリンスタンド前に生えている見返り柳は、
朝まで遊郭で遊んだ客が、大門を出て衣紋坂をくだり
五十軒道(上記のくの字状の道)を通って日本堤に出て
この柳のところで振り返って名残を惜しんだ事から
見返り柳と呼ばれるようになりました。
現在の柳は6代目だそうです。
今年、満年齢での七五三を迎えた我が子。
まだ赤ちゃんだった頃に彼の生命を護ってくれていたベビーベッドは、
「第二の人生」として、我が家の楽器達を護ってくれています。
ギター、ベース、ヴァイオリン、チェロ、マンドリン、マンドラ……。
弦楽器たちが、寝返りを打たないようベッドに寝かされています。