篳篥

2020年12月16日 | 徒然
練習用の篳篥を(持続化給付金で)買いました!

でも、盧舌(いわゆるリード)は、いいものを使おうと思います。




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各種給付

2020年12月15日 | 徒然
個人事業主向け持続化給付金受給決定と、
以前勤め人を辞めた時の雇用保険の追加給付のお知らせが
本日、同時にきました。

また楽器が増えそうです。
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東京23区凸凹地図

2020年12月14日 | 東京のお散歩
昭文社から刊行された、東京23区凸凹地図。

地図出版の大手からの刊行ということだけでなく
監修・協力ともに、錚々たる顔ぶれの一冊です。

この本と東京時層地図、大江戸今昔めぐり、スーパー地形の各アプリ、
国土交通省空中写真閲覧サービスと東京都遺跡台帳を併用すれば
都内の街歩きは完璧です。




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麻布のがま池

2020年12月13日 | 東京のお散歩
麻布の高台にある池「がま池」。

江戸時代には交代寄合の旗本山崎主税助(
五千石)の屋敷にあった池で
高台にありながら浅いすり鉢地形となっていて、ここを谷頭とした流れが
現在の中国大使館辺りを谷頭とする流れと鳥居坂下辺りで合流して
さらに一の橋で古川に合流していたと思われます。

伝説では江戸時代、山崎家の家来が屋敷内を夜廻していた際に
この池の大がまに殺されてしまい、主税助ががま退治を決意したその夜
主税助の夢枕に大がまが白衣の老人となって現れ、その罪を詫び
今後、屋敷の火伏せに尽くす事を約束したとされています。
その後、高台下で火災が起こり、この付近(麻布本村町)まで火が迫った時
この大がまが現れて池の水を吹き付け火を防いだと言われています。

現在は池の大半が埋め立てられ、また水辺に近づくことは出来ませんが
こんこんと水を湛えており、この付近の地下水の豊富さを物語っています。




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名主の滝の紅葉

2020年12月12日 | 東京のお散歩
王子駅近く、北区岸町の名主の滝公園の紅葉。

王子界隈は古くから桜の名所として知られていましたが同時に紅葉の名所でもありました。



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広尾 瑞泉山祥雲寺

2020年12月11日 | 東京のお散歩
広尾商店街の突き当たりにある臨済宗大徳寺派寺院の瑞泉山祥雲寺。

元は赤坂溜池の筑前福岡侯黒田忠之中屋敷に、黒田家の江戸菩提寺として
元和九年(1623)に父長政が帰依した大徳寺164世住持龍岳宗劉の開山として
龍谷山興雲寺を創建された寺とされています。

寛永六年(1629)には麻布市兵衛町に寺領を拝し、瑞泉山祥雲寺と改称しました。

寛文八年(1668)の大火で焼失したため、さらに郊外の現在地に移転し
江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の触頭として崇敬されました。

幕末の明治元年(1868)、上野戦争においては幕府軍詰所となりましたが
彰義隊壊滅により撤収したため、戦火を逃れました。

しかし昭和二十九年(1954)、小学生の放火によって、全焼してしまいました。





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暗闇坂

2020年12月10日 | 東京のお散歩
麻布十番から元麻布へ登る暗闇坂。

昼間でも鬱蒼と茂った樹木によって狭い坂道は日が遮られ
なおかつカーブによって見通しが悪く妖怪や幽霊譚が尽きず
実際に追い剥ぎなども現れたと言われる坂道です。

現在は、中腹にオーストリア大使館があるシャレオツな街の一角です。






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松方ハウス

2020年12月09日 | 東京のお散歩
昭和二十四年(1949)に、第4代6代内閣総理大臣松方正義の孫、松方種子によって、
港区元麻布に設立された西町インターナショナルスクール。

その校舎の一部は、種子の父、正熊(帝国製糖社長など歴任)の邸宅だったもので
大正十年(1921)、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計によるものです。

戦争中は松方家の疎開によってスウェーデン大使館として貸し出され、
その後ルーマニア、ベネズエラと在外公館として使用されました。

昭和四十年代に松方家に返却され、現在は教室などに使用されています。




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浄雲院心光寺

2020年12月08日 | 東京のお散歩
都営三田線白山駅近くの幡念山浄雲院心光寺は、二つの寺院が合併したもので
本郷田町(文京区西片)に寛永五年(1628)に開山した護念山薬應院心光寺が
承応二年(1653)に浄雲寺の隣(現在の心光寺の場所)に移転したものです。

浄雲寺は、同じく寛永五年(1628)開山で幡稲山の山号を号していました。
元々八幡社と稲荷社がこの地にあったことから称された山号と言われています。

明治二十年(1907)、旧心光寺が焼失し再建されなかったために
旧浄雲寺に吸収合併されるほうな形で双方の山号をかけあわせ
ふたつの寺の寺号を、院号寺号に活かして現在の心光寺となりました。

境内には弥生土器発見者で帝大教授の有坂鉊蔵海軍造兵中将の墓があります。









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鯨塚

2020年12月07日 | 東京のお散歩
江戸の町を驚かせた三大動物「享保の象」「文政の駱駝」そして「寛政の鯨」。

寛政十年(1798)5月1日、品川沖に現れ、漁師たちによって捕獲された鯨は
体長九間一尺(16.5m)、体高六尺八寸(2m)。

これが江戸中話題となって、時の将軍家斉公も濱御殿(浜離宮)で上覧になりました。

品川利田神社の鯨塚は、この鯨の骨を埋めた上に建てられた供養碑で
隣接する品川浦公園には、鯨のモニュメントが設置されています。







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利田神社

2020年12月06日 | 東京のお散歩
北品川の利田神社は、目黒川旧流路の最も河口にあたる
岬状の砂州の先端に鎮座しています。

江戸時代に沢庵和尚が弁財天を祀った洲崎弁天が最初とされ
明治に入ってからの神仏分離によって市杵島姫命を祭神として
幕末以来この地の新田開発に尽力した利田利兵衛の名から
利田神社となりました。





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品川浦の風景

2020年12月05日 | 東京のお散歩
旧東海道八ツ山下の品川の海岸の名残の風景です。





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本多貞次郎君銅像碑

2020年12月04日 | 千葉のお散歩
京成線市川真間駅北口前に建つ「本多貞次郎君銅像」の石碑。
石碑だけで銅像がないのは、戦時中の金属供出によって失われたためで
戦後も復活することはなく、徳富蘇峰撰文による石碑だけが遺されました。

本多貞次郎は、現在の京成線の前身にあたる京成電氣軌道の創設者で
初代社長もつとめた人物ですが、京成線の浅草延伸計画の疑獄事件によって
正力松太郎らと共に昭和三年(1928)に逮捕されてしまっています。

現在、市川市医師会館となっているこの場所は、本多の自宅だった場所で
その横の洋館は当初、京成の社員倶楽部として建設された建物です。
昭和四年の竣工後は葛飾瓦斯(現在の京葉ガス)本社として使われたもので
現在は個人宅として使用されています。





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十番稲荷神社

2020年12月03日 | 東京のお散歩
港区麻布十番に鎮座する十番稲荷神社は昭和二十五年(1950)、区画整理によって
旧坂下町の末広神社と、旧永坂町の竹長稲荷神社が当地に遷座し
その後合祀合併して十番稲荷神社の社号に改称しました。

末広神社は慶長年間(1596-1615)に創建された神社。
竹長稲荷神社は弘仁十三年(823)に竹千代丘に創建され
タケチヨが転訛してタケチョウになったと言われています。

鳥居の傍らに祀られたカエルが親しまれています。







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真間の継橋

2020年12月02日 | 千葉のお散歩
弘法寺参道に架かる継橋は、朱色の擬宝珠と欄干が鮮やかな橋ですが
その下に川は流れておらず、暗渠のような空地も、実際には暗渠でなく
古代、この地が入江だった時代に、中洲同士を結ぶ橋がいくつも架けられ
これらが万葉集にも歌われたことを記念して造られた橋です。

いくつもの板橋が、中洲を中継していたことから継橋と呼ばれたとされ
歌川広重の『名所江戸百景』でも
【真間の紅葉 手古奈の社 継はし】
が描かれています。





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